7 みんな集めてさて、のところで

文字数 3,764文字

 次の日、宇津井は約束どおりの時間に現れ、おれたちは再び編集部横の会議室に集まった。神束はいつものノートの他に、厚紙でできたA4サイズのカードを何枚か、手元に置いていた。宇津井が座ったのを見ると立ち上がり、ホワイトボードの前に進み、みんな集めてさてと言ったところで、おれは手を上げた。
「その前に、ちょっといいか? あの後、思いついたことがあるんだが」
「思いついたこと、ですか?」
「ああ。もちろん、昨日聞いた事件がらみの話だ」
 神束はちらりと宇津井に視線をやってから、「どうぞ」と言ってパイプ椅子に戻った。少々不機嫌そうである。だが、あのカードの束といい「モデル」という言葉といい、こいつが妙なアイデアにはまっていることは明らかだった。無駄な長話を避けるためにも、おれが先に話すことにしたのである。
「昨日の最後、こんなことを話したよな。犯行時間は変に動かさない。自動車の向きも説明する。時間の余裕もそれなりに取る。この三つは必要な条件にしよう、って。あれから、改めて考えてみたんだが、その『犯行時間』ってのは、いったい何なんだ?」
「言葉の定義ですか? なんだか、哲学的な議論になりそうですね」
 茶々を入れるような調子で、宇津井が口をはさんできた。
「そうじゃない。具体的に何があった時間を犯行時間とみなしているのか、ってことだよ。昨日の話だと、それは被害者が鼻血を出した時間だ。その出血の固まり具合から、発見の直前に襲われたとみてるんだ。つまりさっきの条件は、典枝が自宅で倒れたのは九時半であり、その時間は変に動かさない、が正確なんだ」
「ああ、確かにそうかもしれませんね。それで?」
「ここをもう少し詰めてみよう。昨日はいろんな推理が出たが、亜佐子が典枝の家で典枝を殺した、ってところは同じだった。状況からすれば、そう考えるのも当然だけど、結果を見れば、うまい答は出なかったよな。ってことは、もしかしたらこの前提が間違ってるんじゃないだろうか。
 ただ、血や組織片という証拠があるから、二人の間に争いがあったことは間違いない。だとすると間違ってるのは、『典枝の家で』ってところだ。典枝は別の場所で亜佐子と争った後、家に戻ったんだよ」
「怪我をした後、自力で帰宅したと言うんですか?」
 さすがに、宇津井も意外そうな表情を見せた。
「ああ。亜佐子は事故で頭を打った後、典枝を殺したんじゃないかって案があったな。あのアイデアはダメだったけど、亜佐子が動き回ること自体は不可能じゃあなかった。それなら、典枝も同じことができたんじゃないか? 彼女の死因も、頭部への打撃なんだから」
「だとしたら、なぜ警察や病院へ行かなかったんです?」今度は神束が尋ねてきた。
「昨日は、亜佐子が救急を呼ばなかったのは、自分が事故や事件を起こしたから、という推理があっただろ。今度のも同じだよ。ただし、それをやったのは亜佐子ではなく、典枝の方だ。考えてみれば、典枝は亜佐子に恐喝されていたんだから、動機があるのは亜佐子じゃなくて、典枝と考えるのが自然だよ。
 典枝は亜佐子を殺そうとした。だから彼女は、怪我をしたのに警察も救急も呼ばなかったんだ」
 おれはこの点を強調した。神束あたりは気にしないのかもしれないが、やっぱり動機は重要だ。人を殺そうというのだから、それなりの理由はあると思うのだ。
「典枝は買い物を済ませた後、一旦は帰宅して、会社や息子と電話で話した。だが、その時すでに、亜佐子を殺害する予定だったんだろう。電話を終えた典子は七時半頃に自宅を出て、新道経由で亜佐子の家へ向かう。八時十分に到着、頭を殴って昏倒させた亜佐子を、車に乗せた。そして今度は、旧道経由で南藪町へ向かったんだ。おそらく、稲川の濁流に落として、溺死に見せかけるつもりだったんじゃないかな。亜佐子の息を完全には止めなかったのは、死んだ後で川に沈めたら、解剖で溺死ではないことがばれるからだろう。ところが、それを実行する前に、交通事故を起こしてしまったんだ。
 典枝は頭を打ったが、意識は失わなかった。でも、気づいてみれば大ピンチだ。隣には瀕死の亜佐子がいて、目の前の車は運転席がつぶれている。殺人と自動車運転致死、ついでに車の窃盗罪……このすべてから逃れる術は、一つだけだ。典枝は亜佐子を運転席に座らせ、彼女が事故を起こしたように偽装したんだ。
 偽装を終えた典枝は、警察にも救急にも連絡せず、家まで逃げ帰った。だが、家についたところで脳出血が悪化してしまう。とうとう倒れてしまい、その際に鼻血を出したのが、九時半だったというわけだ」
「亜佐子の携帯からの電話も、偽装工作の一環というわけですか。ですが、典枝宅が荒らされていたのはどう説明します」
「偽装なんかじゃなくて、単純に暴れた結果かもしれない。症状の悪化で、錯乱状態にでもなったんじゃないか?」
「犯行に十分ほど掛かったとして、亜佐子宅を出発するのは八時二十分。展望所に着けるのは八時四十分で、実際にはもう少し遅かったかもしれません。そこからどうやって、典枝は自宅に帰ったんですか。友人を呼ぶのは無しですよ。典枝の携帯にも、通話記録はありませんから」
「事故は、展望所のすぐ近くで起きたんだよな。展望所と言うくらいだから、人が集まる場所なんだろう。それなら、なにか置いてあってもおかしくないんじゃないか? 一番ありそうなのは、自転車だ。典枝が辺りを見まわすと、まだ使えそうな自転車が捨てられていた。彼女はそれにまたがって、事故現場を離れたんだよ。展望所からは下り坂だから、距離はそこそこあったとしても、自宅までたどり着くのにそれほど苦労しなかっただろう。典枝の体が濡れていたのは、雨の中を、自転車で走ったからだったんだ」

 話し終えた時、おれはかなりの自信を持っていた。だが、宇津井の反応は期待と違った。軽く首を振り、少々うんざりしたような顔つきで、
「あそこは展望所という名前がついていますが、観光名所のような場所ではありません。単なる、見晴らしのいい広場です。店舗はもちろん、自販機さえありません。そんなところに、自転車を置いていく人はいないでしょう。だいたい、そんな山の中に自転車を乗り捨てたら、その人はどうやって山を下りたんですか」
「サイクリングは諦めて、ハイキングに切り替えたのかもしれないだろ」
 いきなり苦しい答になってしまったが、宇津井の追及は続いた。
「おかしな点はまだあります。典枝は自宅に戻った後、再び北藪町へ行って、そこで車を盗んだことになりますね。自分の車はどうしたんです? あなたの説では北藪町に置いたままになってしまいますが、彼女の車は自宅にありました」
「北藪町に行くのは、タクシーか何かを使ったんだろ。新道は通行止めではなかったから、できないことはないはずだ」
「タクシーね。ではこれはどうです。七時二十七分の電話で話しているんですから、典枝はその後で自宅を出たはずですね。しかし、木下が車を放棄したのは、七時四十分頃なんです。典枝はどうやって、車のことを知ったのでしょう」
「それは、木下の車を偶然に見つけたんで、計画を変更してそれを使うことに──」
 答える途中で、おれははたと詰まってしまった。だとしたら、行きは自分の車を使わないとまずい。行った先に車が放置されているかなんて、わかるはずがないのだから。いや、考えてみれば、車を盗むメリットもないのだ。亜佐子と違い、典枝は車を持っているのだから、他人の車を使ってもアリバイ工作にならない。
「指紋の問題もあります。ハンドルには木下と亜佐子の指紋が残っており、不自然な指紋はなかったと言いましたね。つまり、指紋が拭き取られた痕跡はなく、手袋などで上からこすられた様子もなかったんです。典枝は、どうやって運転したんでしょう」
「それは手袋をして、偶然、亜佐子たちの指紋がないところを握って──」
「最後に、典枝の死因です。頭部への打撃には違いないのですが、傷があったのは後頭部なんです。首のすぐ上あたりを殴られているんですよ。そこをフロントガラスにぶつけるのは難しいでしょう。そしてもう一つ、私の言い方が正確ではなかったかもしれませんが、頭部は陥没骨折を起こしていました。出血ではなく、脳組織に損傷があったんです。受傷後、何事もなかったかのように動き回るのは無理でしょう。まあこの点については、正確を期すならドクターに確認をとるべきでしょうが……確認してみますか?」
 おれはうなずくことができなかった。ただ一言、重箱の隅をつつくような質問をするのがやっとだった。
「だったら、どうして典枝は雨に濡れてたんだよ」
「川の様子を見に行ったんじゃありませんか? 発見者がそうだったんですから、被害者が同じことをしていても不思議ではありません」
「えーと」
 いつの間にかホワイトボードの前に立っていた神束が言葉をはさんできた。
「そろそろいいですかね? では、説明を始めます。
 まず最初に、本日のテーマを一言で。アリバイとは……デスマーチです!」



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 次の章は、再び作者の趣味の時間です。軽く読み飛ばして、でも一応は目を通していただければと。

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