2 古いラブソングの歌詞のように

文字数 4,095文字

 未開人は、偶然という概念が苦手なのだそうだ。たとえば山道を歩いていた人が、たまたま落ちてきた岩にあたって死んだとしよう。彼らはそれを不運な偶然とは考えない。「先祖の怒りに触れた」とか、「誰かに呪いをかけられた」と考えてしまうのだ。もっとも、これは未開人に限らない。「くじに当たったのは、いい子にしていたから」ならあなたも経験があるだろうし、大人になっても因果話やジンクスからは離れられないものだ。自然が真空を嫌うように、人は偶然を嫌うのかもしれない。不合理で苛酷で容認しがたい偶然を、『先祖』や『神』、あるいは『運命』によって、それなりに納得できる必然に置き換えたいのだろう。

 偶然が難しいのは、それがまさしく難しいからでもある。偶然とは、我々が作り上げた必然性の体系で説明できないもの、ある意味「わからない」ものだからだ。そこでは、物事を断定的に語るのは難しい。不祥事の資料が『偶然』廃棄されたばかりだったり、疑惑の政治家が『偶然』体調が悪くなって入院したり、大きな事故の原因が決まって信じられないような偶然や初歩的なミスだったりするのは、 そんな言い訳さえ完全には否定できないからだ。そんな時、武器になるのは統計学だが、この学問もしばしば常識を裏切ってくれる。
「あの売り場は良く当たりが出るから、あそこで宝くじを買おう」
「打率三割で二打席凡退していますから、そろそろヒットが出そうですね」
「視聴率なんて信用できない。だって数百軒しか調べてないんだぜ」
といった間違いがなくならないのは、これらが統計学的真実よりも真実味があるためだろう。
 とはいえ、偶然は事実として、この世界に存在する。世界を説明しようとするなら、これを避けて通ることはできない。

「鹿村乃亜の家は七階建てマンションの五階です。乃亜、父親の勝由、母親の夢子の三人暮らしですが、勝由は単身赴任中で、週末以外は家に戻りません。事件当日、家にいたのは乃亜と夢子の二人だけでした」
 宇津井が再び姿を見せたのは、七月下旬のことだった。連日、うだるような暑さが続いていたが、いつもと同じグレーのスーツ姿で、ネクタイもきっちりと結んでいる。ノーネクタイにサンダル履きのこちらが申し訳ないくらいだ。神束はというと、先日の不機嫌から一転して、今日は手ずからお茶を出して、おとなしく話を聞いている。何か心境の変化でもあったのだろうか。
「夢子の証言によると、彼女が何かの気配を感じて目を覚ましたのは、七月十日の午前一時頃。最初は異状があったとは思わなかったそうです。起きたついでにトイレに行こうと寝室から出たところで、彼女は廊下に人影があるのに気づきました。若い男が娘の部屋の前に立ち、わずかにドアを開けて、中の様子をうかがっているところだったのです。夢子にはまったく気づかなかったと言いますから、よほどそちらに気をとられていたのでしょう。
 夢子は激しい恐怖を感じましたが、男が娘の部屋に入ろうとするのを見て、恐怖は怒りに変わりました。そばに立てかけてあったゴルフクラブをとっさにつかむと、男に殴りかかったのです。無我夢中で、前もって警告したかどうかは覚えていないそうですが、それはいいとしましょう。一撃を受けた男はあわててベランダへ逃げだし、夢子も後を追いました。すると男は何を思ったか、ベランダの手すりによじ登り、壁沿いにジャンプしました」
「さっき、マンションの五階って言ったよな?」
 機嫌は直ったものの、神束自ら質問しようとする気配はないので、今回もおれがツッコミ役を務めることにする。
「隣のベランダへ逃げようとしたのでしょうね。しかしうまく飛び移ることができず、そのまま地面に落下しました。男は一命は取り留めたものの肩や足など数カ所を骨折し、現在も入院中です。退院を待って逮捕することになるでしょう。
 容疑者は村上一良、二十四才。地崎市の出身で、東京の大学を卒業した後は地元に戻り、現在はアルバイトで生活をしています。調査の結果、村上は乃亜に対してストーカー行為を繰り返していたことが判明しました。それは今年の四月、彼が地崎市に戻った直後から始まったようで、最初は通学路の途中で遠くから見ていただけでしたがやがて乃亜の後をつけ回すようになりました。小学校の敷地に入って、教員と押し問答になったこともあります」
「ちょっと待て。その乃亜って子はいくつなんだよ」
「失礼。乃亜は十才の女の子ですよ。ちなみに、顔立ちはかわいいですが背は小さいし、体つきも華奢です。とても小学生には見えない、というタイプではありません」
「ロリコンのストーカーかよ。重症だな」
 神束はと見ると、心持ち眉をひそめて話を聞いていた。こいつが動機を重視しないのは、こういう汚泥のような人間心理に触れたくないせいもあるかもしれない。
「乃亜自身、何回か声をかけられたのを覚えていました。自宅のベランダから下を見ると、村上らしい男がマンションを見上げていたこともあったそうです。それが本当に村上だったかは不明ですが、それほど怖がっていたのでしょう。彼女は何度か母親に話しましたが、夢子は警察には相談せず、絶対に相手にしてはいけない、とにかく無視しなさいと教えただけでした」
「いざとなると、警察には行きづらいんだろうなあ」
「そうかも知れませんが、ためらっている間に事態は深刻になるものです。この場合も、村上のストーカー行為は止むことはありませんでした。とうとう乃亜は学校へ行くのも嫌がるようになり、やがてこのことが父親に伝わります。ストーカーの存在を知った勝由は激怒して母親をしかりつけ、警察へ相談に訪れました。しかし、少しだけ遅かった。事件が起きたのはその二日後、警察としてもこれから動こうという矢先の出来事でした。念のため申し上げておきますが、ストーカーの件はまだ相談の段階で、被害届も出されていませんでした」
 宇津井がどうでもいいひと言を付け足した。おれは「それで、どうなったんだ?」と先を促す。
「村上は黙秘を続けていますが、彼の犯行であることは明らかです。ストーカー行為の目撃者も多いですし、母親の反撃についても、突き落としたのではなく自分で落ちたのなら、過剰防衛に問うほどでもないでしょう。ただ、こんなものが出てきたのです」
 テーブルに並べた資料の中から、宇津井は一冊の本を渡してきた。表紙には、『たびだち』というタイトルの下に、桜を描いた版画が印刷されている。『地崎小学校卒業記念』とあるから、小学校の卒業文集だろう。古いものらしく、全体にやや黄ばみが見られた。
 付箋のついたページを開くと、これも少し古めかしい、女の子のマンガが描かれていた。しかし、宇津井が指さしたのは絵ではなく、絵に添えられた『鹿村乃亜をぜったいに幸せにする』という書き込みだった。
「これは村上が小学校の卒業文集に書いたものです。ですからこの『鹿村乃亜』という名前も、今から十二年ほど前に書かれたことになります。これをどう解釈すればいいか、ご意見を伺いたいのです」

 まあ幸せの定義は様々だし、昔ヒットしたラブソングの歌詞が、今見るとほとんどストーカー行為だったりすることもある。だから、「絶対に幸せにする」と言った人間がストーカーになっても、あながちおかしいとは言えないだろう。問題は名前が一致していることだが、ちょっと考えてみれば、これも不可能でもなんでもない。
「これ、村上が自分で書いたんだよな」
「そうです」
「それなら自分が言ったことを自分で実行しただけだから、鹿村乃亜って子が近くにいれば、やろうと思えばできるだろう。それが正常な判断かどうかは知らないけどな。カウンセラーの先生にでも聞いたらどうだ?」
「もう聞いています」
 宇津井は当然のような顔で答えた。
「心神耗弱を主張するかもしれませんからね。それはそれとして、他にカラクリがあるのではとも思っているのです。異常者の行動だとしても、将来の被害者の名前を一字も違えずに書けるでしょうか。『乃亜』はそこらへんにある名前ではありませんからね。そこを突かれた時も考え、もしもカラクリが存在しうるのなら、お教えいただきたいのです」
 おれは受け取った文集をパラパラとめくった。厚手の本で、背はしっかりとのり付けされている。問題のページだけ、後から差し替えたのではなさそうだ。村上のように絵を描いた子もいるが、多くの児童は作文を載せていた。友達のこと、先生のこと、思い出の行事のこと。あるクラスでは、すべての文章に日付が記入されていた。担任の指導なのかもしれないが、三月ではなく十二月となっている。
「日付が十二月になってるな」
「製本に時間がかかるため、卒業三ヶ月前の十二月に原稿を集めたそうです。卒業後に文集を配る学校もありますが、ここはそうではなかったようですね。ですから、村上が絵を描いたのも、そのころとなります」
「ふうん」おれは文集を閉じて、宇津井に返した。「それで、おまえの考えは?」





──────────────────────────────
 第3話では「神束が確率に関連した問題を出したが、今野たちには解けなかった」という描写がでてきます。問題自体は本文では省略しましたが、結構面白いと思うので、各章1問ずつ出してみることにしました。ちょっとだけ推理にかかわってくるものもありますので、試しに考えてみてください。「確率って、こんなにつかみづらいものなんだな」と、実感できると思います。

 ところで、「未開人」って言葉、コンプラ的にはどうなんですかね? なにか他にないか探してみたんですが、うまい言葉が見当たりませんでした。「まだ文明に接していない人」では長すぎるしなあ……
 あ。別に「文明に接している」のが偉いわけでもないんだから、「未開」も馬鹿にしているわけではないのか。って言うか、馬鹿にしてると感じる方が、文明人の傲慢なんだよな。うんうん。というわけで、とりあえずはこのままにしておきます。何かあれば、あっさり変えるかもしれませんが。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み