5 このマシンは二度、『殺されて』います

文字数 2,702文字

 気まずい沈黙が、一堂を包んだ。時計は既に九時を回っている。開始時刻の十時まで一時間を切り、別のコンピューターの用意はとても間に合わないだろう。針木と洞谷は厳しい表情で押し黙り、大原も人の良さそうな丸顔を歪ませていた。
 海野も我知らず眉根を寄せていると、背中の方から「おや?」という調子はずれの声が上がった。
「針木さん、これは何でしょう」
 海野が振り返ると、神束がコンピューターの後ろに回って、背面を覗き込んでいた。左の人指し指をぴんと伸ばして、自分の鼻に押し当てている。針木が答えた。
「そうそう、そっちもやられてるんだ。NICが抜かれてるだろ」
「ええ、それもそうなんですけど、オンボードのLANコネクタが、透明なものでふさがれていますよ」
「えっ?」
 針木は驚いた声で神束の横に飛んでいった。
「本当だ。瞬間接着剤か何かだな。ケーブルが抜けてると思ったら、こんなことまでしていたのか。これじゃあLANがつなげない。まあ、どっちにしろ起動自体できないんだけど……それにしても、ずいぶん執念深いやつだな」
 針木は吐き出すように言ったが、神束は落ち着いた口調で、
「でも、面白いと思いません? 犯人はコンピューターに水をかけた上に、わざわざLANを使用不能にしてるんですよ」
「それが?」
「クラスターズは、三台のコンピューターをLANで接続して動くんですよね。それなら、LANを駄目にするだけで妨害はできるはずです。水をかけたりしなくてもね。変な言い方ですけど、このマシンは二度『殺されて』いるんですよ。犯人はなぜ、こんなことをしたんでしょう」
 針木は意外そうな表情を神束に向けた。神束は、今度はコンピューターの正面に回る。何かのおまじないだろうか、三台の筐体には将棋の「と金」に手足をはやしたようなキャラクターのシールが貼られていた。神束は鼻を触った格好のまま、小首をかしげるようにしてそれを眺めていたが、急に顔をコンピューターに近づけた。
「やっぱりだ。先輩、ちょっと来て下さい」
「うん?」
「匂いを嗅いでみて下さい。かすかですが、カルキの匂いがするでしょう」
 海野も鼻を近づけてみた。神束の言うとおり、筐体から漂白剤のような刺激臭がする。
「プールの水でも使ったのかな」
「近くにプールなんかありませんよ。ところで針木さん、なくなったノートパソコンも、クラスターズに必要なものなんですか」
「ああ。あのノートが三台のマシンとやりとりして、最終的な手を決めるんだ。ついでに、決まった指し手を対局室へ送信する役目もある。あれがないと何もできないね」
「なるほど。それも加えると三重の犯行になりますね。部屋を出る前に、金庫に入れたのは確かでしょうか」
「あなた、探偵さん?」
 針木が面白そうな表情で問い返され、海野と神束は改めて自己紹介した。針木はさきほどからのやりとりに興味を覚えたらしく、雑誌の記者と聞いても、素直に質問に答えた。
「もちろん、確かさ。風呂に行く前に携帯をチェックして、昨日のメールを思い出した。それで金庫にしまったんだからね。それから、これも念のため、風呂に行っている間は、部屋の鍵をフロントに預けておいた」
「すると、脱衣所で鍵を盗まれた可能性はありませんね。ノートパソコンはどのくらいの大きさですか」
「A4ファイルサイズというのかな。画面が十八インチの、大きめのタイプだ。ミニノートも悪くないけど、ぼくは一覧性がないのは嫌いなんでね」
「部屋に戻ったとき、ドアの鍵は開いていましたか」
「ええと……開いていた。鍵を開けようとしてうまくいかなくて、ノブを回したらそのままドアが開いてしまったんだ。金庫の鍵も開いていたよ。金庫も部屋も、間違いなく鍵をしたはずなんだけど」
 針木はこう断言したが、海野の目には少々自信なさげに見えた。寝不足の二日酔いによる証言では、信憑性が低くなるのもやむを得ない。しかし、神束は納得がいったという風にうなずいて、今度は大原に質問を向けた。
「大原さんたちがここに来た時は、パソコンはまだ金庫に入れてなかったんですよね。見ましたか?」
「ええと、はい。座卓の上に置かれていたと思います」
「廊下に立入禁止の案内板がありますけど、警備の人はつけていたんですか」
「つけておりません。こんな騒ぎになるとは思っていなかったものですから、申し訳ございません」
 大原は深々と頭を下げた。しかし、脅迫の件を知らせていないのだから、ホテルを責めるのは気の毒というものだろう。
「案内板から奥の部屋には、他にお客さんはいますか」
「向かいの部屋に針木様が宿泊されている以外、お泊まりのお客様はおられません」
「あれ、永倉理事長はどこに泊まってるんです?」
「永倉様は別館に宿泊されております」
「べつに差をつけたのではないよ。針木さんがインターネットにつながる部屋が欲しいというから、こちらにしてもらったんです」
 洞谷が口をはさんだ。新館が主に団体客や日帰りツアー向けなのに対し、別館は風月閣の特別室で、雷王戦の対局も別館で行われるのである。神束は腕を組み、今度は人差し指をあごに当てて何やら考え込んでいたが、部屋の時計をちらりと見ると、
「あと五十分ほどですか……万が一を考えて、善後策を相談された方がいいでしょうね」
「そうだな、こうしていてもしかたがない。君たちは?」
「犯人を捜してみます」
 神束はにっこり笑って、こう付け足した。
「できれば、ノートパソコンの行方も」



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 実はこの作品、細かいところで現実から借用していたりします。あの対局を細かく覚えている方は少ないでしょうから、ちょっと紹介しますと、
・現実でも、定刻より遅れて対局が開始された。原因はコンピュータのトラブルで、局後に「遅れた分、コンピュータ側の持ち時間から差し引くべきだった」などの議論があったりしました。
・米長永世棋聖がプレマッチで初手6二玉の奇手を披露していた(そして、電王戦本番でも同じ手を指した)。本作は、プレマッチで予め奇手を見せたという事実についての、ミステリ的解釈でもあります。
・洞谷の「ソフトが強いのはいいんだけど~」という台詞。これも、実際に将棋連盟の某棋士が、中継でそういったことを喋っていました。いったい何があったんだろう……。
・「コンピュータソフトのシンボルキャラ」。これも実際にありました。今ではなんにでもキャラクタを作りますが、この当時はまだ珍しかった記憶があります。但し、作られたのはボンクラーズではなく、前年に登場した「あから2010」のキャラ。使われた駒も「と金」ではなく「歩兵」でした。

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