7 どうしてこんなに苦しいんだろう(18字改行版)

文字数 3,299文字

  今野 :なるほどなあ。それで宇津
    井、本当のところはどうなんだ?
  宇津井:さて、どうなのでしょうね。
      最初に申し上げたとおり、
      今回は事件を持ってきたの
      ではありません。私が持っ
      てきたのは、このルーズリ
      ーフだけなんですよ。
       ところで、私はお先に失
      礼したいのですが、ここの
      学食は開いていましたか?
       久しぶりに学食で食べて
      いきたいんですが、学生以
      外の部外者でも使えたでし
      ょうか。
  今野 :たしか開いてたし、使える
      と思うぞ。
  神束 :あれ、もう行くんですか?
       じゃあ、さよなら。


   日が傾きかけていた。宇津井警部
  は経済学部本館を出て工学部一号館
  に向かい、『学生食堂』の看板がか
  かる階段を下りた。中は薄暗く、数
  人の学生たちが離ればなれに座って、
  それぞれに何か食べていた。宇津井
  は当番の学生からスープを受け取り、
  入口近くの席に腰を下ろした。スプ
  ーンを手に取ると、宇津井の顔に苦
  い笑いが浮かんだ。
 さっきの話は、いったい何だったのだ
  ろう。神束はなぜ、あんな推理を作
  り上げて見せたのだろうか。叙述ト
  リックとは、人間がコンテクスト、
  すなわち文脈を使って情報のすき間
  を埋める、その仕組みに働くのだそ
  うだ。とすると、かつて存在したコ
  ンテクスト、今は失われてしまった
  常識や社会規範を、あえてあてはめ
  てみせたのだろうか。そういえば神
  束は、時間や場所など、手記の中で
  言及されたものを一つずつ取り上げ
  て検討していったが、コンテクスト
  についてだけは、何も言わなかった。
  通常、常識や規範といったものは、
  あえて言及されるものではないから
  当然なのだが、相手が優れた叙述ト
  リックであるのなら、一言述べてお
  くべきだったろう。もしかしたら、
  こんな現実は駄作だ、とでも言いた
  かったのだろうか。
   それに、自分はなぜ、あんな話に
  つきあったのだろう。あんな、まる
  で推理小説のような話に。推理小説
  は、平和な社会でしか繁栄しないと
  聞いたことがある。確かにそのとお
  りだ。人権の尊重、しっかりした治
  安、そして今日と明日とがそれほど
  には違わないと確信できる安定した
  生活。それらがなければ、推理小説
  は成立し得ない。だから、あんな議
  論に夢中になったのか。宇津井には
  よく判らなかった。

   あの出来事がどうして起きたのか
  は、未だにはっきりとしていない。
  どこかで起きた偶発的な衝突がきっ
  かけとも言われているが、それがど
  の地域なのか、そしてどのようにし
  て拡大したのか、確かな情報は伝わ
  っていなかった。直接的な核攻撃こ
  そ受けていないものの、爆発に伴う
  強力な電磁波の影響で、電子機器が
  軒並み使い物にならなくなったため
  だ。伝わる情報はすべて伝聞であり、
  宇津井の所属する組織でさえ、ある
  程度把握できているのは、自分たち
  が管轄する地域に起きたことだけだ
  った。
   その限られた情報によると、戦争
  という突然の災厄に直面して、まず
  起きたのは熱狂だった。一部の人々
  はパニックとなり、小規模な暴動が
  続けざまに発生した。そうした一団
  が自滅すると、今度は奇妙なまでの
  静寂が訪れた。人々はかたくななま
  でに、それまで通りの日常を営もう
  としたのである。商品の流通が曲が
  りなりにも復活し、宇津井の勤務が
  正常に戻ったのはそのおかげだった
  が、はたしてこれが理性的な態度な
  のかと問われると、そうとも言いき
  れない。なぜなら、それは未来に眼
  を向けたものではなかったから。

   ルーズリーフの手記は、こうした
  状況で書かれたものだった。この国
  も戦いと無縁ではない。各地で数多
  くの悲劇が起きており、その一つが
  布川たちの上にふりかかった。彼ら
  が過ごしていた島を、突如として外
  国の上陸部隊が襲ったのである。戦
  闘に巻き込まれて白谷稚子は死亡、
  白谷友香梨は重傷を負った。数日後、
  今度は空からの爆撃を受け、数多く
  の住民と共に、布川たちの消息もつ
  かめなくなった。おそらく、生存は
  絶望的なのだろう。しかし現地の混
  乱は続いており、彼らの扱いは今も
  『行方不明』のままである。その中
  で発見されたわずかな所持品だけが、
  現地警察から宇津井の元に回されて
  きたのだった。布川の両親が日記の
  受け取りを拒否したのは、宇津井が
  うっかり『遺品』と言ってしまった
  せいかもしれない。こういう性格は、
  すぐには直らないものだ。

   宇津井は暗いまなざしで辺りを見
  回した。
   ある学生は左手を三角巾で釣り、
  残った右手でスプーンを使っていた。
  おそらく、本来は左利きなのだろう、
  スプーンの動かし方はぎこちなかった。
   ある学生は右腕に包帯を巻いていた。
  痛みがあるのか、左手で二の腕を押
  さえたまま動こうとしない。包帯の
  端からは、火傷の跡がのぞいていた。
   ある学生は、不自然なまでに短く
  髪を切っていた。火災で髪が焼けて
  しまったのだろうか、眉には焼けこ
  げが残り、まわりの皮膚が赤くなっ
  ていた。

   神束は、意識とは脳というハード
  を解釈するソフトウェアだ、と言っ
  ていた。既にできている答を翻訳す
  る、インタープリターだと。とても
  よく判るけれど、肝心なところを答
  えていない。意識が感じる『自分』
  とは、いったい何なのか。そして意
  識が感じる自分は、どうしてこんな
  に苦しいのだろう。



──────────────────
 以上で第5話、完結です。
 まさかのバッドエンド? いえ、そこはまあ、「叙述論」ですから……既にお気づきの方もおられるかもしれませんが、種明かしはちょっと間を開けて、明日にでもここに書きたいと思います ※1。

 さて、次章は……いよいよ、最終話(「~論」ではなく、短いエピソードです)となります。



※1 1日経ちましたので、種明かしです。念のため、少し改行を入れます。












 1章の次の部分を見るとわかるのですが、

-------- 引用始まり --------
んな文章が書かれていた)

─────────────────────────────────
   ふと思い出すことがある。そう以前のことではない。ほんの数日前の話だ。
     :
  腕を組み、カンバスを見つめていた。……
─────────────────────────────────

今野 :なんだこれ。小説か?
-------- 引用終わり --------

 作中作である小説の中に入る際に、インデントを一つあげています。小説の終わりでは、インデントが戻っています(なお、「『ゲーデル・エッシャー・バッハ』の第五章」は、同じ仕組みで書かれています)。
 ところが、

-------- 引用始まり --------
宇津井:(軽くうなずき、二人の顔をじっと見つめる)どうぞ。でも、面白いも
    のではありませんよ。

   ─────────────────────────────────
   ふと思い出すことがある。そう以前のことではない。ほんの数日前の話だ。
-------- 引用終わり --------

 の後は、作中作の終わりと思える箇所に来ても、インデントが戻っていません。つまり、第5話は1章途中から最後まで、ずっと作中作の中での話だったのです。神束も言っていたとおり、「ここは小説内のK大学で、私たちは小説内の登場人物」だったというわけです。
 ちなみに、インデント以外にも、いくつかの小さな食い違いや、おかしな記述を入れてあります。気が向いたら探してみてください。

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