1 そこに、山があるから

文字数 3,501文字

 久しぶりの更新になります。
 この「蓋然性ではもの足りない」は、「小説家になろう」と「Novel Days」に投稿させていただいているのですが、このたび「Novel Days」の方の投稿が、1万PVとなりました。読んで頂いた方、どうもありがとうございます。それを記念して、第2話あたりでちょっと触れた「神束が気を失った話」をアップさせていただくことにしました。
 もともとはこの短編が第0話だったのですが、第1話とは設定が矛盾したり、内容(密室・消失)が重なるため、カットしていたものです。今回は古いものをほぼそのまま持ってきたので、神束と今野が大学院生だったり、宇津井警部補も同じ大学の卒業生だったりと、設定が多少違っているところもあります。が、直すのも面倒なのでそのままにしました。また、今野の前口上が第2話とダブっていますが、これも差し替えが面倒なので、そのままです。ちょっと手抜きですが、まあ「おまけ」みたいなものということで、勘弁して頂ければと。メインとなるトリックは完全に別物なので、そこはご安心ください。

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 神束陽向を紹介する前に、論理についてひと言述べておこう。

 この世界の大部分は、論理によって説明することができる。おれは科学以外の体系には興味がないので、ここは『科学によって』と言い換えてもいい。不思議なことに、この明白な事実は多くの人から拒否されてしまう。いわく「科学では説明できないことがあるのです」、いわく「ゲーデルの定理があってね、論理が正しいとは限らないんだ」、ひどいのになると「そんなこと言うのは夢がないです」。ちなみに、ゲーデル云々は完全に間違いだ。彼は「正しいことの中には証明できないものがある」と言ったのであって、「証明されたものの中に正しくないものがある」ではない。
 科学に説明できないことがあるのは当然だ。そもそも人がすべてを知ることができるなど、誰が決めたのだろう。科学が優れているのはすべてを説明できる点ではなく、説明できるとは限らない点だ。最低限の仮定と定められた操作だけで戦おうとする、その禁欲的な方法が素敵なのである。そしてその信頼性は、実績と実用性が保証する。反科学論者が一生懸命NASAの陰謀を調べ、カードの裏を当てようとしている間に、科学はコンピュータと相対性理論、そして不完全性定理をも生んできた。科学はもともと、実用性を求めて生まれたものなのだ。夢を語る人たちだって、非科学的な飛行機に乗りたくはないだろう。そして現在では、科学は世界の大部分を説明できるところまできている。
 にもかかわらず、この事実への評判は芳しくない。では同じ事を科学者ではなく、探偵が言ったとすればどうだろうか。

 神束は、実用的には名探偵と呼ばれる存在だ。事件の情報を受け取って犯人の名を返すのだから、おかしな呼び名ではないだろう。もちろん本業ではない。ふだんはK大学経済学部の大学院生で、一応はおれの後輩ということになる。修士の一年だから最低でも二十二才にはなっているはずだが、小柄で顔つきも幼く、仕草も子供っぽい。学生服が似合ってしまいそうだ。本人も自覚があるのか、黒のスーツとスラックスで精一杯の抵抗をしているが、全体の印象は背伸びした子供である。それに、どう見ても山歩きの格好ではない。
「なんかもう、嫌になっちゃっいました」
 神束は立ち止まると、スラックスの裾を払った。ちょっと口をとがらせている。さっきから同じ動作を繰り返しているが、膝から下はもう砂まみれで、払うくらいでは落ちそうにない。宇津井警部補が機嫌を取るように話しかけた。
「まあまあ。せっかく山に来たのですから、今は景色を楽しんではいかがですか」
「こういう景色って、限られたパターンを違う組合せで繰り返しているだけですよね。そんなにいいのかなあ」
「来た道が曲がりくねって、長く、遠く続いているのを見ると、なんというか感慨がわいてきませんか」
「そういうのって、自分で歩いた道だから感動するんじゃないんですか。ああもう、スーツにまでついちゃった」
 神束は大げさな身振りでスーツの裾をはたく。宇津井はちらっとおれに視線を送り、処置なしといった感じで軽く肩をすくめた。

 利沢峠からの眺望はなかなかのものだった。雲ひとつない澄みきった青空の下、なだらかな草原が広がり、みずみずしい緑の中に赤や白、黄色の色彩がそこここに散らばっている。峠まで上る道は茶色い線となって曲がりくねり、見渡す限り遠くまで続いていく。春の日差しに恵まれ、風も適度にそよいで、暑くもなく寒くもない。ハイキングには絶好の日和だったろう。しかしおれたちはごつい四駆であっという間に峠に着くと、「こちらです」と案内する宇津井に引っ張られて、裏の林道を下りていった。正式にはどちらが「表」なのかは知らないが、イメージ的には間違いなくこっちが裏である。華やかな色彩などどこにもなく、退色したような杉の人工林が視界を覆っていた。
「第一、こんなところに来る必要、あるんですかね。実物を見たって、できることなんて無いのに」
 神束が、今度はおれに向かってぼやき始めた。
「ああ。そうかもな」
「データだけくれればいいのに。それだけもらって、処理して返せばいいんじゃないかなあ」
「そうかもな」
「それなら、研究室で肘掛け椅子に座って、じっとしてればいいんだから」
「そうそう」
「……先輩。ちゃんと聞いてます?」
「ついでに、自動的にデータを処理してくれて、答が出てくれれば、もっといいよな」
「え?」
 神束は眼をぱちくりさせて、ちょっと言葉を呑んだ。そして何を納得したのか、「あ、うん。そうだ。そのとおりですね」と、一人で深くうなずいていた。
 気持ちはまあ、わからんでもない。見るべき景色もなく、服は砂まみれ。そしてこの先には、事件現場なんてものが待っているのだから。
 神束と一緒に連れ回されて実感したのだが、事件なんていうものは、二度三度と関わりたくなる代物ではない。血の匂いの籠もった部屋で、不吉な液体の入ったコップが光り、意味ありげにロープがゆれているのは、楽しい光景ではないのだ。この世界にそんな事があるのはわかったから、ほっといてくれと言いたくもなる。それでも神束が宇津井につきあうのは、あれで妙に責任感というか、義理堅いところもあるからだろう。みっともなく、ごねてはいても。
「それにしても、どうしてみんな、山なんかに登るんでしょう。こんなところ、何にもないのに」
「そこに山があるから、でしょうね」
 宇津井が反射的に返した言葉が、神束のかんに障ったらしい。ひどく冷たい口調で
「それは降りる時にのみ、恒真ですね」
と返した。宇津井は笑みを浮かべたまま、再び肩をすくめる。

 さきほどから、ややもてあまし気味に神束の相手をしているのが、宇津井優樹警部補だ。眉目秀麗、物腰は低く、言葉つきもていねいで、常に如才のない微笑みを浮かべている。いかにもさわやかな好青年だが、これで捜査一課の刑事なのである。こいつもK大の卒業生、しかも(まったく記憶にないが)おれと同級だったらしいので、年は二十九あたりだろう。百八十に少し足りないくらいの長身に、グレーのスーツを隙なく着こなしている。こちらも景観にマッチしない事この上ないが、決まっているのも間違いない。ここで自身を顧みると、ジーンズにスニーカーにチェックのネルシャツ、これはいつもの格好で山歩きのためではない。ここにぼさぼさの天然パーマにキツネ目、かなりの短足を合わせれば、どこにでもいる大学院生のできあがりとなる。名を今野明と言うが、覚えておく必要はあんまりないだろう。そもそも、この場に探偵でも刑事でもない人物がいるのが、おかしいのだから。
 会話がとぎれたまま、おれたちは一本道の林道を下りていった。道は緩やかなカーブの後に鋭角な曲がりを続けたかと思うと、再び緩やかなカーブに戻る。視界は開けたかと思うとまた閉ざされ、すぐにまた見通しが広がる。山にはあまり人の手が入っていないらしく、ところどころで小さな崩落が起きて、乾いた地肌を見せていた。くすんだ緑と乾いた土色が連続する、その光景は単調で、荒涼として、うら寂しいものだった。途中、林道の脇に大きな看板があった。ゴジラのような怪獣のマンガに、『矢西町へようこそ』の吹き出しがついている。ここから矢西町であることはわかったが、なぜゴジラなのかは謎だ。
「もうすぐです」
 ゴジラを見て、宇津井が口を開いた。
「あそこのくぼみで、男が姿を消しました」

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