2 ホフスタッターって知ってる?

文字数 2,633文字

  神束 :ということで、叙述トリックについて話すことにします。叙述とい
      うと、まず思い浮かぶのがホフスタッターの本なんだけど、宇津井
      さん知ってます?
  宇津井:ええ。『メタマジックゲーム』も面白かったですが、『ゲーデル・
      エッシャー・バッハ』はアイデアにあふれた本でしたね。特に第五
      章あたりは──
  今野 :ちょっと待て。どこが叙述トリックだ? 事件なんて起きていない
      し、それらしいことも書かれていないぞ。そもそも、叙述トリック
      なんて現実の事件には関係ないだろう。なぜ取り上げるんだ?
  神束 :なぜかというとですね。作者と読者という関係が事実として存在し、
      したがって読者に対するトリックも存在するからです。
  今野 :読者ぁ?
  宇津井:(取りなすように)まあまあ。現実にもですね、我々は上司に報告
      書をあげますし、裁判でも証拠書類を提出します。それぞれ読者が
      いると言えないことも──
  神束 :そうじゃありません。私が言っているのは、文字どおりの意味です。
      ここは小説内のK大学で、私たちは小説内の登場人物なんです。そ
      うですよね? そうでないふりをして、読者をバカにするのはやめ
      ましょう。叙述トリックの論議に持っていくためだけに、手の込ん
      だ口実を作るのはやめましょうよ。
       と言うわけで、叙述トリックは存在するし、テーマになるんです。
      わかりました? では、さっそく始めましょうか。


  (神束たち三人、まだ教授室のソファーに座っている)
  今野 :……そういえば、一ノ谷先生戻ってこないなあ。どうしたんだろう。
  宇津井:どうされたんでしょうね。
     (「始めます」宣言を無視された神束が、頬をふくらませたのを見て)
      ところで、今日はレジュメの用意はいらないのですか。
  神束 :いりません。叙述はトリックの手法の一つであって、『叙述現象』
      なんてありませんからね。対応するモデルも作ってません。叙述ト
      リックで何かが起きたら、その現象のモデルを使えばいいんですか
      ら。だからレジュメも無し。それに、せっかくテーマが叙述なんで
      すから、ちょっと形式を変えて、会話のやりとりで進めましょうよ。
       (口調を改めて)では最初に、定義から始めましょう。宇津井さ
      ん、叙述トリックとは、どういうものでしょうか?
  宇津井:そうですね。小説の中で、事件についてある記述がされたが、その
      内容が事実と違っていた、といったところですか。
  今野 :それじゃあ、単なる記述のミスだろ。
  神束 :叙述が事実と異なっているだけでは、十分ではありません。それが
      『ある意味では』事実と合致する、少なくとも矛盾しないことが必
      要なのです。叙述トリックにおいては、叙述そのものは正確であっ
      て、そこで存在が描かれたものは(小説内の)現実世界にも存在し
      ます。この正確性に関しては、普通の小説以上に注意が払われてい
      るはずです。
  今野 :なんか逆説的だな。
  神束 :ただし、これは地の文章についての約束で、登場人物の発言は正確
      でなくてもかまいません。発言が間違っていても、それは偽証か誤
      認ですから。
  宇津井:正確に書かれているものが、どうしてトリックになるのでしょう。
  神束 :あらゆる情報は、解釈されなければ、受け手にとっての意味は定ま
      りません。この解釈の部分に働きかけるんです。代表的な手法は、
      描写に空白を作ることですね。文章中の「私」が実は犯人で、「私」
      に都合の悪い行動が描写から省かれていた、という例が有名でしょ
      うか。
  今野 :書かれたものは間違いなく存在するが、書かれていないものが存在
      しないとは限らない、ってことか。
  神束 :そのとおりなのですが、ちょっと意味合いが違いますかね。これは、
      単に「知られたくないものを隠している」だけではありません。人
      は情報に空白があると、その場のコンテクスト(文脈)を使ってそ
      の穴を埋め、なるべく意味がつながるように『解釈』しようとしま
      す。この解釈によって、読んでもいないものを、あたかも読んだか
      のように感じてしまうんです。そして、この働きは、意図的に空白
      を入れた場合だけに限りません。ごく一般的な文章であっても、同
      じことが言えます。なぜなら、「完全な情報を持つ文章」というも
      のは、普通は存在しないからです。文章には常に「情報の空白」が
      あり、人は文を読む際には、それを補いながら読み進めるものなん
      です。
       ですから、叙述トリックにとって本質的なのは、空白の存在その
      ものではありません。その空白が『解釈』によって、複数の意味を
      持ちうることです。意味が複数あり、そのうちの一つでも現実を正
      しく表しているのなら、描写の正確性というルールは守っています
      から。
  今野 :そおかぁ?
  神束 :ともかく、守ったとみなすのです。その上で、多くの読者を誤った
      解釈の方へ誘導することができれば、トリックとして成立します。

       この、『解釈』による多義性と、正確性のルールの拡張。この二
      つによって、叙述トリックは成立しています。



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 重ねて書いておきますが、2種類のテキストを用意したのはトリックでも何でもありません。1章前書きの説明どおりですので、「俺は騙されん。両方読むぞ」なんてことはされないように。
  ↑ 話が「叙述論」なので、念のため書いておきますが、上に書いてあることは本当です。両方読むなんて事はしないでいいですよ。
    ↑ 上に書いてあることは本当です。ここに書いてあることはトリックでもなんでもなく……

 ……はっ! これが「後期クイーン問題」というやつなのか……(←微妙にあってるけど微妙に違う)。

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