1 『この先 稲川展望所』

文字数 2,261文字

 雨はぽつぽつ頭を叩く程度になっていた。東海警部補は空を仰ぎ、カッパを脱いだものかどうか思案した。
 目の前を、茶褐色の濁流が通り過ぎていく。ときおり木の塊が姿を見せては、滑るように視界から遠ざかる。水面は国道の路肩すれすれまで上昇し、本道から左へ分かれた小道は、一メートルほど先で水に潜っていた。まるで、川に入るための道のようだ。東海が長靴を水に浸すと、後から声がかかった。
「あんまり前に出るなよ。どこまで道なのか、わからんから」
 東海は笑って、少し後ずさりした。
「子供じゃないんですから……靴についた泥を落としただけです。楢木さんは地元でしたね。この小道は、どこにつながるんですか」
 楢木警部は、道ばたの看板を顎で指した。古びた板にはかすれかけたペンキで、矢印と、『この先 稲川展望所』の文字が書かれていた。
「こんなところに展望所ですか?」
「名前は展望所だが、少し下りた先の川沿いに、広場みたいな場所があるだけだ。大きな川だし、景色はいいのかもな」
「別の場所に抜けられますか」
「いや、どん詰まりだ。トイレも自販機も無い、ただの広場だよ。木製のベンチが置いてあるくらいで、車止めも無かったんじゃないかな。まあ何があったとしても、もう無くなっているだろうが」
 楢木はそう答えて、濁った水の底に視線を向けた。

 昨夜から今朝にかけて、局地的な集中豪雨が九山市一帯を襲った。堤防が決壊して街中が水浸しとなり、東隣の北薮町・南薮町でも浸水被害が相次いでいる。おそらく、まだ報告されていない被害も、数多く発生しているのだろう。しかし東海は、その対応のために出てきたのではなかった。
 彼は楢木の隣に戻ると、腰をかがめ気味にして話しかけた。
「これ、まだどけないんですか」
 東海の視線の先で、二台の車が無惨な姿をさらしていた。一台は軽トラック、もう一台は古い型の乗用車だ。互いの前面を相手にめり込ませたまま、進行方向の真横を向いて止まっている。正面から衝突し、その勢いで九十度回転したのだろう。軽トラックが運転席ごとつぶれているのに対し、乗用車の方はそれほどひどい変形はないが、フロントガラスには一面、クモの巣状のひびが入っていた。
「雨で機材が動かせないらしい。まあ、こんなのでも国道だからな。できるだけ早く通すよ」
「運転手は助からなかったんですよね」
「軽トラは見てのとおりで、救出時はかろうじて息があったが、後で死亡が確認された。乗用車の方は軽傷に見えたんだが、シートベルトをしていなくてね。頭の打ちどころが悪かったらしい。病院で意識を回復した後、様態が急変して亡くなった」
「雨量規制はなかったんですか」
「通行止めだったが、ウマで物理的に遮断するわけじゃない。表示を出しただけだから、通ろうと思えば通れる」
「でも、こうなったらバイクでも通れませんね。見事に通せんぼしている」
 東海は車両の後部をのぞき込んだ。車体は道路脇の排水溝を越え、左の後輪が宙に浮いている。センターラインのない狭い道は、この二台によって完全にふさがれる格好になっていた。
「乗用車は、北薮町から南薮町へ向かっていたんですよね」
「そうだよ」
「逆はありませんか。本当はもう半回転していて、車の来た方向は逆だった、ということは」
「ないな」
 楢木はそっけない口調で否定した。
「横滑りの痕でわかるだろう。ぶつかって、九十度回転して、止まったんだよ。それ以上の動きはない」
「では、衝突後に車体が動かされたとは考えられませんか。最初は別方向を向いていたのに、後で向きが変えられたとは」
「ないな。ガウジやスキッドマークが、車体の状況ときれいに一致している。不自然な点は無い。見たまんまのことしか、起きていないよ」
 東海はうなずいた。楢木がそう言うのなら、間違いは無いのだろう。
「そうですか。どっちにしても、状況はあんまり変わらないんですが……では、この国道以外に、南薮町へ行く道はありませんか。脇道でもいいんですが」
「しばらく北に行くと、山越えの道が一本ある。未舗装の林道で、滅多に使う人はいないが」
「時間はかかりますか」
「あたりまえだ。雨が降っていない日でも、四駆のRVで一時間半はかかるだろう。普通に走れるのは、西回りの新道だけだよ」
「それだといったん北藪町に戻ってから九山市回りになるので、時間がかかるんですよね。ここは北藪町と南藪町の町境ですから、一時間くらいは……展望所から河原に降りてそのまま走る、なんてことはできないでしょうか」
 楢木があきれたような表情を浮かべたので、東海は付け加えた。
「念のための確認です。事故が発見された午後九時三十分の時点では、水位はまだ低かったそうですから。川沿いにどこかへ抜けられないかと」
「河原なんて無いからな。護岸をへばりついて走れるんなら、話は別だが」
 ここまで話して、楢木は今さらのようにたずねた。
「ところで、どうして一課の人間がこんなところに来てるんだ?」
「乗用車の運転手に用事があったんですがねえ」
 東海は軽く肩をすくめた。カッパが体に合っていないらしく、ビニールの生地が妙な具合に引っ張られて、逆三角形の胸板が浮かび上がった。
「南薮町で殺しがありましてね。どうやらその運転手がホシらしいんですが、犯行時間が九時三十分だというんです。ここから現場まで二十分はかかるのに、事故が発見されたのと同じ時間なんですよ。そのうえ、乗用車は南薮町へ向かっていたらしい。こいつ、現場に行く途中で事故を起こして、犯行の最中に発見されているんです」

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