13 蓋然性ではもの足りない

文字数 3,140文字

 控室のざわめきは、次第に大きくなっていた。多くの棋士や報道陣が詰めかけ、それぞれに将棋盤を囲んで、中継のテレビモニターに見入っている。海野もまた、将棋盤の向こうに神束を座らせて、鳴瀬七段の解説に耳を傾けていた。
「まだ始らないな」
「ええ。結局、研究室のコンピューターの方でトラブルがあって、うまく立ち上がらなかったようですね。遅れはそのせいにするんでしょう。荒井さんたちは、おとがめ無しになりましたから」
 海野は隣の席をちらっと見た。そこには荒井と宅間の二人が、細い体を折り曲げるようにして座っている。あの後、発見されたノートパソコンは無事に起動。実害がなかったとして、大原を含めた三人の行為は不問とされたのである。もちろん、壊したコンピューターは弁償させるそうだが、雷王戦のイメージ悪化を懸念しての処置なのだろう。海野がぽつりと漏らした。
「わかってみれば、簡単なことだったなあ」
「そうですね。金庫の中身が消えたのではなく、それ以外のものが別の部屋に移されていたんです」
 神束はモニターを眺めながら答えた。
「今朝早く、風月閣の利用客がノロウィルスを発症したという一報が、大原支配人に届きました。幸い、その人は日帰りツアーの参加者で、潜伏期間を考えれば、ここが感染源とは考えられません。ただ、その人の使った部屋が問題でした。休憩を取ったのが、コンピューターを置いた部屋だったんです。支配人は早速、患者が使用した恐れのあるトイレを使用禁止にし、部屋の消毒を行いました」
「それで、コンピューターからカルキの匂いがしたんだね」
「ノロウィルスの消毒はアルコールではなく、塩素系の薬剤を使いますからね。その薬が付着したか、あるいは念のため筐体も消毒したんでしょう。そしてコンピューターを隣の(つが)の間に移して、そちらを使ってもらうことにしました。ここまでは普通の対応です。ただ、支配人はノロウィルスのことは明らかにせず、部屋の移動もこっそり行うことにしました。将棋協会や針木さんには伝えなかったんです」
「そこなんだけど、針木さんは部屋が違うことに気づかなかったのかな」
「間取りは同じですし、ここは『何号室』ではなく『○○の間』と呼びますからね。そして二つの部屋は『柾の間』と『栂の間』、移動する前の部屋は『(すぎ)の間』と『(とち)の間』でした。先輩は読めましたか? 針木さんが部屋の名前ではなく、『コンピューター様ご一行』の張り紙を目印にしたのも無理はありません。ですから、張り紙と案内板、ついでにドント・ディスターブの札を動かしてしまえば、気づくことができなかったんです。もちろん、ロビーで預かった鍵はすり替えておきました」
「ま、二日酔いが残ってたのも、あったんだろうな」
「ただ、急いでいたせいもあって、金庫の中までは気が回りませんでした。また、移動作業を終えて消毒している最中に宅間さんたちが来てしまったため、部屋に鍵をかけることもできなくなりました。金庫については後で気がついたかもしれませんが、宅間さんたちがコンピューターを壊して大騒ぎになってしまい、今さらとり出すことができなくなったんです」
「それにしても、由緒ある老舗ホテルが、つまらないことをしたよな」
「風評被害の経験があったから、余計過敏になったんでしょうね。雷王戦はある意味、普通の棋戦とは比較できないくらい、大きな注目を集めています。そこへノロウィルスの発生、しかもその場所がコンピューターの置かれた部屋となったら、大きなニュースとして報道されてしまうでしょう。風月閣の名前と共に、です。そんな悪い知らせを受けたところへ、針木さんが風呂に行くと言って鍵を預けに来た。大原さんの心に、魔が差したんです」
「だけど、あの部屋には針木さんたちもいたんだぞ。感染してたら大変だ。病院に行って、検査してもらうべきだったよ」
「ノロウィルスには効果のある薬がないんですよ。自然に症状が治まるのを待つしかないんです。他の患者にうつってしまうから、発症しても病院に来るなと言う医師もいるくらいで……大原さんもそれを知っていたんでしょう」
「パソコンの件は不問としても、ノロウィルスの方はどうするんだろう」
「こちらからは、特に何も。発表するかどうかは、保健所あたりが決めるんでしょう。針木さんにも、風評被害にならないように気を使って欲しいと頼んだそうです。最初からそうすれば良かったんでしょうけど、針木さんはあのとおり、なんというかエキセントリックな人柄に見えますからね」
 『エキセントリック』という単語に、海野は思わず視線を神束に戻した。
「そういえばさ。最後の推理を話す時、この先は気が進まない、なんて言ってたよな。あれはどういう意味だったんだ?」
「だってあの説明、必然性があったのは密室モデルのところまでで、その先は蓋然性の論理だったじゃないですか。大原さんがうなずいてくれなければ、それで終わりでした。ああ言うの、あんまり好きじゃないんです。何ていうか、物足りないんですよ」
 神束の隣には、間山老人がちょこんと座っていた。こういった場所は初めてらしく、周りをきょろきょろ見回している。
「ご協力ありがとうございました。おかげで、うまく片付きました」
 神束が頭を下げると、間山はにこりと笑みを返した。海野は、今まで気になっていたことを訊いてみた。
「間山さん。あなた、あそこで何をしてたんです? 休憩なら、もっといい所があったでしょうに」
「もう、かれこれ四十年の付き合いになるからな」
「は?」
 なんだか少し恥ずかしげに、間山は話を始めた。
「四十年前にTK-80を買ったとき、おれはもう三十だった。98からDOS/V、ウィンドウズと使い続けて、ノートパソコンの出始めには年に二台は買っていたよ。ノートとデスクトップを、一台ずつ。
 それでも、一番熱中してたのは8ビットのころだった。オセロのプログラムコンテストに、夢中になって参加したな。予選で高校生に負けたときは、本当にくやしくてね。あと十年遅く生まれていれば、って悔やんだもんだ。まあ、もしもそうなってたら、ファミコンに夢中になってただろうけど。
 将棋のプログラムに手を出したこともあったが、ありゃあ難しくてね。おれにも、おれの愛機にも、とうてい手におえる代物じゃなかった」
「ははあ。すると、あなたがあんなところにいたのは──」
「実はおれ、針木先生のファンでね。この歴史的な一日に、先生の戦い振りを見ておきたいと。できたらお会いしてお話しをうかがいたいと、そう思ってたんだ」
 間山はうれしそうに、手にした雑誌を広げて見せた。針木の写真に、針木本人のサインが書き添えられていた。
 その時、モニターの画面に動きがあった。
「先手、7六歩」
 コンピューターの最初の手が読み上げられ、沖津四段が歩を一つ前に進めた。それに合わせるかのように、控室に並んだ将棋盤から一斉に駒音が響いた。
「ようやく始まりましたね」
「7六歩は予想どおりだな。さて、後手はどう行くかな?」
「本当に6二玉と指すんでしょうか」
「どうかな。人間のやることは、わからないからな」
 画面の中、永倉の姿は静止画のように動かず、鳴瀬七段も言葉を挟まない。永倉の初手を見守っているのだろう。控室にも水を打ったような静けさが広がっている。と、永倉の右手が動き、一瞬の間をおいて指し手が読み上げられた。
「後手、8四歩」
 控室に小さなどよめきが起きた。
「先手、6八銀」
「後手、3四歩」
「先手、6六歩」
 堰を切ったように指し手が進行し、記録係の読み上げが続いていく。
「矢倉だ」
 荒井の声は、少しかすれていた。
「逃げも隠れもしない。永倉先生は、矢倉戦を挑んでゆかれた……」
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