2 ちょっとした叙述トリック

文字数 3,821文字

 宇津井の言う『くぼみ』とは地面にできた穴ではなく、林道が鋭く湾曲した場所だった。このあたりの道は全体として大きく右にカーブしているのだが、ここでいったん直角に左へ曲がり、十メートルほど進んだところでV字型に折り返して、元のカーブに復帰している。要するに道の描く軌道がくぼんでいるのである。このくぼみは比較的大きな崩落によってできたものらしく、くぼみの付近では緑がまったく失われていた。宇津井はV字の中央で立ち止まると、おもむろに説明を始めた。
「四月九日の早朝、矢西町で若い男の死体が発見されました。死亡推定時刻は前日午後十一時から十二時と見られています。現場は商店街の駐車場で、通りから丸見えだったのですが、人通りが少なく照明も暗かったために、発見が遅れたのでしょう。被害者は矢西町の会社員、成見逸人。死因は首を絞められての窒息死で、凶器は被害者のネクタイです。大きな外傷はなく、胃からは大量のアルコールが検出されました。財布など金目のものが残されていることから、犯人は酒に酔った被害者と争いになって殺害、死体をそのままにして逃走したものと考えられています。
 すぐに有力な容疑者が浮かびました。島瀬行明、三十五才。会社の同僚で、被害者と女性がらみのトラブルがある人物です。事件当日も現場付近のスナックで、被害者と口論をしているのが目撃されています。別の同僚がとりなしてその場はおさまったのですが、どちらも相当な剣幕だったそうです」
「その人が犯人ですか?」
 神束が口をはさむ。この先にあるのが殺人の現場ではなく、死体も血痕もなさそうなので、少し安心したようだ。
「いくつか証拠があります。駐車場のポールから島瀬の指紋が検出されたこと。島瀬の部屋に残されていたスーツに、駐車場と同じ土が付着していたこと。そして事件翌日の朝、島瀬は山歩きをしてくると言って家を出たまま、姿を消してしまったことです」
「ずいぶん、はっきりしてるみたいですけど」
「そうですね。我々も殺しについては、まず間違いないと考えています。ご相談したいのは別の件です。
 家を出た後の島瀬の足取りはつかめていません。家族や知人への連絡も無く、カードや携帯の使用記録もありません。交通機関、宿泊施設、その他立ち寄りそうな場所もあたってはいるのですが、反応なし。現在のところ、完全に消息を絶っている状態です。ただ一つだけ、やや曖昧な目撃情報が出てきました。事件翌日の四月十日、坂寄林道を矢西町側へ下りていく姿が目撃されているのです。つまりこの道を、我々と同じ方向に歩いていたらしいのですが」
「本当に山に行ったんですか?」
 神束は意外そうにたずねた。確かに、殺人の翌日に山歩きとは、少々のんきすぎる。
「島瀬にアウトドアの趣味があったのは確かですがね、取りあえずは、目撃者の証言をお話ししましょう。
 四月十日は日曜日でした。この林道は利沢峠から江尻岳へ抜けるルートになっているそうで、こんな道でも休日にはハイカーが通ります。落合紗里と四谷重朗も、その一組でした。落合によると、島瀬を目撃したのは午後一時前。島瀬は利沢峠の展望台に腰をおろしていましたが、落合たちを見るとあわてた様子で立ち上がって、林道を下り始めたそうです。彼女は島瀬と面識があり、挨拶もせずに行くのを少し不審に思ったそうですが、声はかけませんでした。事件のことなど知らなかったのですから、やむを得ませんね。落合たちも一息入れただけで出発し、島瀬の背中を見る形で林道を下りていきました。
 それと同じころ、道の反対側から、中曽根倫也と香田龍吉が峠に向かっていました。二人は猟友会の会員で、この日も猟銃を持って山の中を歩き回っていましたが、峠で昼食にするつもりで林道に出てきたのです」
 少し、体が冷えてくるのを感じた。歩いて汗をかいた上に、山の斜面にさえぎられて、光がさしてこないのだ。だが宇津井は、そんなことを気にする素振りもなく、説明を続けていく。
「このくぼみに入るまでは、道が緩やかに右へカーブしていたでしょう。ですから、落合は島瀬の向こうに中曽根たちを、中曽根は島瀬の後に落合たちを、それぞれ見ることができました。その体勢から、まず島瀬がこのくぼみに入り、二組の視界から消えます。続いて落合たちと中曽根たちが、ほぼ同時にくぼみに入りました。そして我々が立っている場所で顔を合わせ、四谷と香田が顔見知りだったので、二組は挨拶を交わします。そのやりとりの中で、島瀬のことが話題になりました。そして二組ともに島瀬とすれ違っておらず、それどころか彼らがくぼみにはいった時には、既に彼の姿は無かったことがわかったのです。
 問題はこうです。島瀬はこの場所から、どうやって姿を消したのか? それをお教えいただきたいのです」
「なんだ、そんなことですか? 今回は、あまり血なまぐさくないんですね」
「四人の目撃を最後に、島瀬の痕跡は完全に途絶えており、いまだに行方が判明していません。なんだか嫌な感じもするので、早めに探したいのですよ」
 神束の感想に、宇津井は言い訳のようにつけ付け加えた。べつに、そんな必要もないだろう。神束は血なまぐさい場所に遭遇しなくて済みそうで、ほっとしているだけなのだから。
 おれは改めて辺りを見回した。周辺には木も生えておらず、人が隠れられそうなところはない。道の上下は滑りやすそうな乾いた土の急斜面で、上に逃げるのは骨が折れそうだ。
「登るのは無理ですよ」
 宇津井が念を押してきた。
「時間的な余裕もありません。島瀬がここに入ってから落合たちが顔を合わせるまで、せいぜい二、三分でしょう」
「あれは何ですか?」
 神束が道の下を指さした。こちら側も乾燥した斜面が続いているのだが、十メートルほど降りたところにロープが張られて、多角形の区画がいくつか作られている。人の姿はないが、何かの発掘現場らしい。近くの看板に、手書きの文字で『矢西利沢遺跡(仮称) 矢西町教育委員会 鈴木利成』と書かれていた。
「化石の発掘現場だそうです。恐竜の化石が出た、と言っているようですが」
「へえ、こんなところで? 知らなかったな。言われてみると、きれいに地層が見えてるな」
「本物かどうかは知りませんよ」
 宇津井は軽く鼻で笑った。
「発見したのは鈴木という役場の職員なのですがね。一種のマニアらしく、以前にもこの付近で恐竜を見つけたと騒いだことがあるんです。その時は町の観光課も大喜びで、恐竜の名前を募集したり、恐竜まんじゅうを作ったりしたのですが──」
 どうやらさっきの看板はゴジラではなく、恐竜を描いたものらしい。
「──結局は恐竜の化石などではないことが判明して、『恐竜の町』は幻になりました。そんなことを繰り返すうちにだんだん相手にされなくなって、今では役場内でも孤立しているそうです」
「でも、教育委員会が掘ってるんでしょう?」
「看板をよく見てください。個人名が書いてあるでしょう。あれは教育委員会の職員である鈴木が、個人的にやっているんですよ」
 宇津井の答に、神束はくすりと笑った。
「なるほど、ちょっとした叙述トリックですね。それで、この下に降りて逃げるのも、駄目なんですか?」
「鈴木はその日も発掘をしており、落合たちも地面にかがみ込んでいる男を目撃しているのです。警察で鈴木に確認をとったところ、そこにいたのは確かに自分であり、彼の『遺跡』に下りてきた人間はいなかった、との答でした」
「地面ばかり見ていて、気がつかなかったんじゃないか」
 おれの質問に、宇津井は「それはありえますね」といったん認めた後で、
「ですが、もう一つ障害があります。地肌がむき出しなのは遺跡のあたりまでで、その周りは林に囲まれているでしょう。林の中は軟らかい腐葉土で、誰かが入れば必ず足跡が残るんです。ところが、周辺の林からは、何の痕跡も発見できませんでした。つまり誰も林に入っておらず、したがってその先へ逃げたとは考えられないのです」
 こうして、道の下側もふさがれてしまった。まとめるとこういうことだ。一本道の真ん中に、男がいた。道の両側から追っ手(と、男には思われたことだろう)が迫ったが、真ん中のくぼみまで来てみると、男の姿が無い。上は滑って逃げられないし、下は足跡がないから逃げていない。しかし間違いなく、男は消えてしまったのだ。はたして、どうやって。
「その人は、島瀬と知り合いなんですか?」
「落合以外の三人は面識がないと言っていますし、落合にしても、父兄の一人として顔を知っている程度です。言い忘れましたが、落合と四谷は島橋中学の教員です。学校に事情を聞きに行った時は、応接室の外が、あっという間に学生服で囲まれましたよ。あんな好奇心の固まりの中にいると、休みくらいは山に行きたくもなるんでしょうね」
「ああ、ごめんなさい。そうじゃなくて、発掘をしていた人です」
「鈴木ですか? そうですね、おそらく接点はなかったと思われます。変人として有名で、友人らしい友人もいないようですから」
 宇津井はあいまいな答を返した。まあ、鈴木はどうでもいい証人ではある。厄介なのは鈴木ではなく、足跡のほうだ。神束は「ふうん」と気のない声を上げて、林道の下をじっと見つめていたが、つと視線を上げると、
「先輩、どうです? 何か質問や、ご意見はありますか?」
と、おれに話を振ってきた。

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