5 叙述トリックは──アンタッチャブル(18字改行版)

文字数 4,791文字

  神束 :批判される理由の一つは、
      「正確性の拡張」でしょう。
      先ほどは、「複数ある意味
      のうちの一つでも現実を表
      しているのなら、それは正
      確な描写とする」としまし
      たが、やはりこのルールは
      特殊です。広く一般に認め
      られるものではありません。
      ここに引っかかりを感じる
      人は、「これはずるいトリ
      ックだ」と感じることでし
      ょう。

       理由の二つ目は、トリッ
      クが強力すぎると言うこと
      です。さっきも言いました
      が、この世界では叙述をい
      じれば、なんでもできてし
      まいます。通常のトリック
      なら不可能な現象を、さし
      たる苦労もなく──と、言
      ってしまいますが──実現
      できるんです。ところが、
      その現象にわくわくした読
      者に明かされるタネは、叙
      述のからくりだけ。これで
      は、「手抜きだ」「ずるい」
      となってしまうのもやむを
      得ません。

       最後に、トリックの成り
      立ち自体が、ダブル・スタ
      ンダードを含んでしまって
      いる点です。先ほども述べ
      たとおり、叙述トリックは、
      読者による『解釈』を利用
      し、一般的な読解の作法を
      無視したり、ねじ曲げるこ
      とで成立しています。とこ
      ろが、同じ小説の別の場所、
      と言うよりもトリック以外
      のすべての場所では、同じ
      作法を、一般的な方法で使
      ってしまっているんです。
      これはしかたがありません。
      『解釈』に一切頼ることな
      く、つまり単語の直接的な
      意味だけによって、すべて
      の情報を表現している小説
      なんて、存在しないでしょ
      うから。同じ作法を一方で
      は便利に利用し、他方では
      ねじ曲げている。そしてそ
      の使い分けは秘密にされて
      いるんですから、読者から
      すれば「そんなのずるい」
      と思われるものになってし
      まうんです。

  今野 :だとするとだ。逆に、今で
      は認められてきている、っ
      てのはなぜなんだ?
  神束 :まずは、一つ目にあげた
      「正確性のルール」が、そ
      れなりに認知されてきたか
      らでしょう。ある種の小説
      では、こういう書き方がさ
      れることがあるんだよ、と。
      要するに、ジャンルとして
      認められてきたんでしょう
      ね。

       また、作品の側からの対
      応もあります。叙述トリッ
      クは、強力すぎるのが問題
      でした。なにしろ叙述を操
      作するんですから、うまく
      すれば、見破ることができ
      ないトリックを作ることも
      可能なほどでしょう。しか
      し、絶対に解けないパズル
      は、優れたパズルではあり
      ません。トリックが強力で
      あるほど、そこには制約が
      必要になるんです。

       ミステリの場合、その制
      約は「手がかりの提示」と
      なります。最も強力な形は、
      「矛盾の存在」でしょうね。
      解釈がAとBの二通りあり、
      普通の読み方ならAの意味
      なんだけれど、正解はBで
      あるとします。ここで、A
      と解釈すると矛盾が生じる
      ようにしてあれば、それは
      当然Bと解釈すべきであり、
      パズルは解けるものになる
      わけです。「読解の作法」
      と「明確な矛盾」を比べれ
      ば、後者の方がルールとし
      ては強いんですから。この
      方法なら、恣意的な使い分
      けにもなりませんので、ダ
      ブル・スタンダードの問題
      もカバーしています。

       優れた叙述トリックには、
      それを暴くための手がかり
      が伴っていなければなりま
      せん。女性を男性であるか
      のように思わせたのなら、
      どこかで女性であることを
      示さなければならないので
      す。この「トリックとして
      の傷」によって初めて、叙
      述トリックは完成するのだ
      と思います。一般には、こ
      うした手がかりを伴わない
      ものも「叙述トリック」と
      呼ぶのでしょうが、本論で
      はこれを満たすもののみを
      叙述トリックとし、そうで
      ないものは考察対象から外
      すこととします。

  今野 :なるほどな。で、それを解
      くにはどうすればいいんだ。
  神束 :いくつかの方法というか、
      選択肢があります。一つ目
      は簡単ですね。「叙述トリ
      ックは、そもそも解こうと
      すべきものではない」です。
  今野 :え? 解かなくてもいいの
      か?
  神束 :かまわないでしょう? な
      ぜって、私は今、刑事や探
      偵といった、謎を解くべき
      立場にはないんですから。
      叙述トリックは読者に作用
      するもので、小説内世界の
      人物には関係がありません。
      私が叙述トリックを解こう
      としていると言うことは、
      私は登場人物ではなく、単
      なる読者にすぎないという
      ことです。それなら、トリ
      ックを暴くなんてせずに、
      逆に味わってみるのもいい
      でしょう。
  伊津野:なるほど。「手品を見る時
      は、タネを見破ろうとする
      より、騙されることを楽し
      んだほうがいい」といいま
      すからね。
  神束 :そういうことです。手品も
      叙述トリックも、普通なら
      不可能な出来事をやってく
      れるんですから、そこに仕
      掛けがあるのは当たり前で
      す。苦労してイリュージョ
      ンを見せてくれるのなら、
      それを楽しまなくては損で
      しょう。

       以上の点については、ミ
      ステリのトリック全般に言
      えることなのですが、叙述
      トリックに関してはもう一
      つ、現実的な理由もありま
      す。叙述トリックは、読者
      の解釈を利用するものでし
      た。ということは、一切の
      解釈をせず、一切の流れや
      含みを無視して、「切れ切
      れの言葉だけを理解する」
      ことに徹すれば、トリック
      に引っかからずにすむはず
      です。そうですよね。でも、
      それって楽しいんでしょう
      か? 達人級の読み手のよ
      うに深い読み込みをする人
      でなくても、小説を読む際
      には、みんな自然と「解釈」
      をしているはずです。この
      反応を押さえつけ、単語の
      意味だけを一つずつ拾って
      いくなんて、苦行以外の何
      物でも無いと思います。や
      ってみたら、できるのかも
      しれませんよ。が、おそら
      くは労力と本代とを費やし
      て、つまらない時間をすご
      すことになるんじゃないで
      しょうか。

       あ、忘れてた。決まり文
      句的にまとめると、こうな
      ります。
       叙述トリックは──アン
      タッチャブルだ。

  今野 :そんなに決まってはいない
      と思うけど、まあいいや。
  伊津野:ですが、手品のタネを見破
      りたい人、そういう見方に
      楽しみを見いだす人も、中
      にはいますよね。そんな人
      は、どうすればいいのです
      か。
  神束 :残念ながら、明確なモデル
      やアルゴリズムなどはあり
      ません。相手は人間の認識
      能力を逆用してきますから、
      トリックを暴こうと文章を
      読み始めたら、とたんに罠
      にはまってしまいます。慣
      れればそれらしい叙述に敏
      感になりますけど、感覚に
      頼るようでは手法とは呼べ
      ませんね。

       ただ、先ほど私が言った、
      「本論で扱う叙述トリック」
      に限定すれば、糸口はあり
      ます。それは、どこかに用
      意されているはずの手がか
      りです。わざわざ手がかり
      を用意してくれているんで
      すから、それを使うのが筋
      でしょう。そこに叙述トリ
      ックは施されていないはず
      なので、普通の読み方で矛
      盾や不自然さを探せば、見
      つかるはずです。
  今野 :なんだか漠然としてるな。
  神束 :もう一つ、起きている現象
      に注目する手もあります。
      トリックの目的は読者の認
      識を誤らせることであり、
      それによって現象を作るこ
      とです。何らかの現象が起
      きているなら、それを構成
      する要素に注意すればいい
      でしょう。密室現象なら壁・
      犯人・被害者、アリバイ現
      象なら人物・時刻・場所・
      行動内容・所要時間、など
      ですね。その近辺で、手が
      かりを探していけばいいで
      しょう
  今野 :うーん、やっぱり漠然とし
      ているな。
  神束 :(うなずいて)そうですね。
      中には、表だっては何も起
      こらないままに話が進んで、
      ラスト近くになって初めて、
      現象に気づかされるものも
      あります。そうなると、ト
      リックに使われそうな要素
      を全部リストアップして、
      一つずつ当たっていくしか
      ありませんが……今回はこ
      の程度の量(と、ルーズリ
      ーフを指ではじく)ですか
      ら、なんとかなるでしょう。
  今野 :これを例にするのか? さ
      っきも言ったが、事件なん
      て起きてないぞ。
  神束 :描写がないから存在しない、
      とは限らないんですよ。ま
      あやってみましょう。とこ
      ろで宇津井さん。ここに登
      場する妹さんの方は、いま
      も元気なんですか? さっ
      きは、暮らしていまし『た』
      って、過去形で言ってまし
      たけど。
  宇津井:おそらく、亡くなったので
      はないかと思います。
  神束 :そうなの。ふーん……(し
      ばらく間をおいて)まあい
      いか、続けますよ。

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