1 「──定刻を、かなり過ぎています」

文字数 1,350文字

 モニターには、二人の男が映っていた。一人は二十代後半、もう一人は白髪痩身(そうしん)の老人で、どちらもグレーの背広に身を包んでいる。青年は両のこぶしを握りしめて、少し緊張している様子だ。両者は向かい合ったまま一言も発せず、何かが始まるのを待っているように見える。二人の間には、分厚い将棋盤が置かれていた。
 モニターの横では、洋装の女性と和服姿の男性がマイクを握っていた。二人の掛け合いはなかなかに巧みで、特設会場を埋めつくした観客からは、たびたび笑い声が起きていた。
「──さて、いよいよ開始時刻が迫ってきました。鳴瀬さん、今回の対局はどのように進められるのでしょう」
 女性アナウンサーの質問に、鳴瀬七段は手慣れた調子で解説を加えた。
「画面には映っていませんが、部屋の隅の方にノートパソコンが置いてありましてね。コンピューターの指し手がそこに表示され、それを記録係が読み上げて、沖津君が駒を動かすんです。普通の対局とは手順が違いますね」
「お相手を務める沖津四段は、永倉理事長のご指名だそうですね」
「沖津君は去年、四段に上がったばかりの新鋭ですが、真摯(しんし)な対局姿勢には定評があります。永倉先生もそのあたりを評価されたのでしょう。もちろん、彼が手を考えるわけではないので空席でもかまわないのですが、それでは何となく、指しづらいですからね」

 突然、モニターの画像が真っ白に光り、対局者の姿が彫像のような陰陽で彩られた。それがきっかけになったかのように写真撮影のフラッシュが連続し、シャッター音がやかましく鳴り響く。光と音の波は数秒間続いたが、それが終わった後も、画面には何の動きも見られなかった。鳴瀬が首をかしげた。
「もう定刻を過ぎていますが、どうしたんでしょう」
「そうですね……ああ、わかりました。今日は大変な数の取材陣が詰めかけたため、対局室に入りきらなかったそうです。そのため入れ替わりで撮影をしていて、それで時間がかかっているようですね」
「ああ、なるほどね」
 スタッフが示した内容をアナウンサーが読み上げ、鳴瀬も得心がいったというふうにうなずいた。その説明のとおり、一度終わった閃光は再び激しくなり、一旦途切れてからまた同じ事が繰り返された。しかし、三度目の波が引き、室内が静かになってもまだ、モニターの映像に変化はなかった。予定時刻からは、既に十分が経過している。アナウンサーは何度もスタッフに視線を送っているが、今度は答が返ってこない。鳴瀬が再び首をかしげた。

「定刻を、かなり過ぎています。いったいどうしたんでしょう」



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 「あらすじ」にも書きましたが、この第一話は某新人賞に応募し、最終選考で落選した作品です(書き直したところもありますが)。その頃、開催されて話題となった「第一回電王戦」(米長邦雄永世棋聖と、コンピュータソフト「ボンクラーズ」が対局)……ならぬ、「()王戦」が舞台になっています。
 この当時、まだコンピュータソフトはプロ棋士に勝ったことがなく、「ソフトが人間に勝つのは何十年も先のこと」と言われたり、「そもそも人間とソフトを対局させるのがけしからん」なんて議論さえあったりしました。まだ数年前ですが、二昔くらい前のことに思えてしまいますね。そんなころのお話です。
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