5 確率的不可能現象

文字数 2,423文字

 翌日、約束の時間になっても、宇津井はまだ来ていなかった。先に会議室に入っていた俺は、隣でいそいそと説明資料らしきものを読み返す神束に向かって、ほんの軽口のつもりで尋ねた。
「昨日今日と機嫌がいいな」
「そうですか?」
「ああ。稲川の事件の時なんて、宇津井とほとんど口をきこうとしなかったじゃないか。何かあったのか?」
「機嫌がいい、というわけではないんですが」
 資料から視線を外すことなく、神束は俺の問いに答えた。
「この前、話しましたよね。事件のモデル化によって、探偵という機能は誰にでも使えるようになるはずだ、って。このモデル化作業、私にとっては、けっこうやりがいを感じるものなんですよ。だから、警部さんのお話にお付き合いしてるんです。結果として、お手伝いをしたことになったかもしれませんが、それはなんて言うか、副作用みたいなものですね。
 それにですね。モデル化をしていけば、その機能は私から外すことができます。そのうちに、すべての機能を警部さんにお渡しできるはずです」
 俺は首をひねった。
「よくわからんな。どういう意味だ?」
「要するに、モデル化したのと同じ種類の事件については、私は必要なくなるんですよ。だって、私のやり方、考え方は、もう説明したんですから。警部さんはもう、私と同じことができるはずなんです。後はがんばって、と応援するくらいでしょう。
 前回はアリバイ、以前にも密室現象のモデルの説明を終えました。今日、確率現象を説明できれば、時間・空間・確率という領域の、代表的な現象を終えたことになります。私がお役御免になるのも、もうすぐですね」
 俺は改めて、この厄介な後輩の顔を眺めた。
 もともと、おれたちには宇津井の相手をする義務など無い。善良な市民として警察に協力する義務、というものはあるのかもしれないが、これはその範囲をはるかに超えているだろう。嫌なら断れば済む話なのだ。なのにそれをせず、断るための理由として、こんな面倒な理屈を作ってしまう。というよりも、そんな理屈を必要としてしまうひねくれた精神に、なんだか感心してしまったのだ。こういうやつだからこそ、奇妙な事件のひねくれた謎を、解きほぐすことができるのかもしれない。
 まあ、そのきっかけとなったのが死体を発見しての気絶騒ぎというところで、すでに格好が悪いのだが。
「申し訳ない、遅れてしまいました」
 予定時刻より五分ほど遅れて、宇津井が会議室のドアを開けた。神束は、やっぱり少し機嫌良さそうに、お茶の用意のために席を立った。

 お茶を配り終えた神束は、さっそくホワイトボードの前に立った。
「さて。昨日も少しお話ししたように、確率という現象には、間違えやすいポイントがたくさんあります。そこで今回は、問題を思い切って単純化することにします」
 昨日の話は『少し』どころの量ではなかったが、確かに、間違えやすそうな議論ではあった。
「まず、問題とする『確率』は『それが起きた回数÷行った回数』という割り算と、その組み合わせだけです。標本抽出や推測統計などは扱いません。また、数値のちょっとした違いは無視して、極端に結論が変わる仕組みだけを考えます。いわば、『確率的不可能現象』とでも呼ぶべきもの、これだけを扱うことにします。
 それから、確率とは関係ない事柄も、とりあえず置いておくことにします。たとえば、『予言が的中したのは、その内容が後ですり替えられていたからだった』なんてトリックは、ここでは扱いません。それは確率の話ではありませんから。検討するとしても、別の枠組みで考えるべきでしょう。
 さて、ここまで話を単純にすれば、間違いなんて起こりようがないと思えるかもしれません。やっているのは、割り算だけなんですから。が、それでも私たちは間違えるんです。なぜでしょう? それを知るには、私たちがこの問題に答える時、どんなことを考えているのか、を明確にする必要があります」
 神束は次のような図を、ホワイトボードに描き始めた。

   現象の定義
    ↓
   現象の認識……生起回数、試行回数の認識
    ↓
   確率の計算
      確率値の算出
        計算式の設定、仮定の設定、統計データの取得
        (直観的な確率判断)
      基準値の設定
    ↓
   「ありえる/ありえない」の判定

「具体的な例として、『Aさんが5種類のカードから1枚を選び、Bさんにその図柄を当てさせたところ、10回中10回成功した。こんなことはありえない』……というケースで考えてみます。ESPカードの実験をイメージすればいいですかね。最後の『ありえない』と判断するまでに、私たちは次のようなことを行っています。
 一つは、『その現象が起きた』と認識することです。当たり前と思われるかもしれませんが、間違えようがないものを間違えるんですから、その当たり前からチェックし直さなければなりません。ここで認識されるのは、具体的には二つの『回数』です。生起回数、つまりその現象が起きた回数と、試行回数、それを行った回数。この例では、試行回数が10回、生起回数も10回になります。
 もう一つは、認識した現象が起きる『確率の計算』です。カードの例では、高校あたりの数学で計算すると1/5の10乗が答になります。が、これだけでは足りません。例えば、出た確率が0.01%なら、『そんなことはありえない』と言えそうな感じもしますが、では1%ならどうなのか? 10%なら? 10回に1回なら、不思議ではありますが、ありえないとも言えないような気もします。この、あり得る・ありえないを判断する、『基準になる値』を決めておかなければなりません。実際には、この基準値は暗黙のうちに、したがって根拠なく、決められていることが多いでしょう。
 あ、念のため繰り返しますけど、カードに細工する、などのズルは無しで考えてますからね」




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