神束陽向の帰還

文字数 3,957文字

 編集室に入ると、京塚好代がデスクに向かってマンガを読んでいた。ごつい黒眼鏡を本に向けたまま、こちらを見ようともしない。「おはよう」と声をかけると、そのままの姿勢で
「んー」
と野太い声を返してきた。うら若き女性の挨拶とは思えないが、べつに機嫌が悪いのではない。これでいつもの調子である。おれは京塚の後を通って自分の席にたどりつくと、パソコンの電源を入れた。
「大上はどうしてる?」
 京塚は顔を上げて、こっちをにらんできた。
「もう戻ってきてるよ。奥さんの調子、良くなってきたんだって。聞いてないの?」
「ああ、そうか。このところ、メールなんか見てなくてさ。すまん」
 俺は机に両肘を突き、両手で両目をごりごりとこすった。頭が回っていない。昨日の酒が良くなかった(山を下りていきなりの大酒は、さすがにまずかった)こともあるが、もともと朝が駄目なのだ。女性並みの低血圧だそうで、健康診断で保健師から、『これでは朝がつらいでしょう』と言われたこともある。それで何かが変わったわけではないが、以来、朝に弱いことはおれの中で正当化され、何もできなくてもしかたがない時間帯となったのだった。
 目が痛くなってきたところで手を放し、パスワードをタイプする。ログインすると、神束からメールが届いていた。そういえば、ここしばらく顔を合わせていない。あいつが関西の大学に取材に出かけて、そこから戻らないうちに、俺が休暇に入ったんだったな……それにしても、神束の取材もとっくに終わっているはずなのだが、なぜメールなのだろう。開いてみると、本文の他に文書ファイルが一つ、添付されていた。そのファイル名は

 『トリック、現象および推理の一般理論』

となっていた。

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From:Hinata1 Kouduka
Subject:申し訳ありません、しばらくお休みします

 神束です。久しぶりの休暇はいかがでしたか? 実は私も、休暇というか、しばらくお休みをとらせていただくことになりました。

 編集長には既にお伝えしたのですが、先日のK大取材の帰りに、階段から落ちてしまいました。ああいう古い大学って、どうして手すりが無くて、狭くて急で角がすり減っている階段があるんでしょう。あそこを上る時、いつか誰かが落ちるんだろうなと思ってましたが、それが自分だとは思いませんでした。
 幸い、体の99%は傷一つなかったのですが、左手の小指が折れていました。ギブスがとれるまで一ヶ月かかるそうです。痛みはそれほどでもありませんが、風呂に入れないし、なによりキーボードが打てません。SHIFT と CTRL を押せないのが一番つらいです。手書きでは遅いし、私の字はこの世界の誰にも(翌日以降の私も含めて)読めないみたいなので……取材原稿は、なんとか上げましたけど。

 お休みで時間ができたものの、これでは新しいものを入出力できないので、古いものをまとめることにしました。幸い、例のテーマはだいたいできあがっていましたから、これをまとめて原論部分を追加し、完成と言うことにします。書きためてあったものをまとめたただけですが、まあいいでしょう。もともと、本や論文にするつもりで書いた物ではありませんし。これで良ければ宇津井警部にもお送りして、『名探偵』はおしまいです。

神束

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 俺は眉根を寄せたまま、文書ファイルの方も開いてみた。「一般理論」とは大きく出たものだが、章のタイトルを見ると「密室論」「アリバイ論」「確率論・予言論」……となっていて、どうやらこれまで扱った事件の際、神束が説明してきた「モデル」とやらをまとめたものらしい。おれは軽く目を通してみた。

「事件とは、事件を構成する様々な要素がとる『値』の集合である」
「現象とは、読者がもつ認識の枠組みである。特定の『値に関する条件の組』を満たす時、その現象に属すると認識される」
「トリックは、『事件を構成する要素がとる値』の認識を変更するものである」
「推理もまた、『事件を構成する要素がとる値』の認識を変えるものである。変更後の値が真の値になるものを『正しい推理』と呼ぶ」
  :

 言葉遣いがずいぶん仰々しいものになっているのは、タイトルに引きずられたのだろうか。適当に読み流していくと、原稿の最後に、総論的な文章が付け足されていた。メールに書かれていた、「原論」と言うやつらしい。そこにはどういうわけか、事件の話のはずなのに、数式のようなものが並んでいた。変なところは飛ばそうと、ページダウン・キーを連打していたら、文章の末尾にたどり着いてしまった。

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7 ミステリーの世界
(1) 状況と『謎』
 一般に、状況がすべて真の値で構成されているかどうかを判定することは難しい。読者が推理を働かせるのは、それが真実ではないと確言できるからではなく、状況を構成する値に矛盾や欠落、、不自然な点があって、その真実性に疑問を持つからである。以下では、これらを『謎』と呼ぶことにしよう。密室などの現象は、『謎』の典型的な例である。

(2) 事件の解明と「ミステリー」の世界
 推理には制約(トリックの実現可能性や推理の根拠)があり、無制限に行うことはできないが、その制約が強すぎれば、解明に至ることができなくなってしまう。逆に制約が弱すぎても、過剰な推理(つまり値の変更)が可能となり、一意的な答を得るのは事実上不可能になる。

 ある事件で、推理によるすべての「値の変形」の中に、解明状態となるものが一つしか存在しないとき、それを「フェア」な状況と呼ぼう。そして事件がフェアな状況になったとき、その事件は「ミステリー」の世界に属すると呼ぶことにしよう。フェアな状況では、謎の無い状況は一通りしかなく、真実では謎は存在しないとすれば、謎の無い状態と真実は一対一で対応する。
 したがって、ミステリーの世界では、読者は推理によって、真実に到達することが可能となる。

(3) ミステリーの世界とモデル操作
 だが、フェアであることだけでは十分ではない。考え得る可能性の数に比べて、人間の処理能力は小さすぎるからである。この事態に対し、多くの読者は人間的な思考方法(ヒューリスティクス)で対応しようとするが、これに頼ると人間的な誤りが発生しがちになる(解決時に「劇的な逆転」や「鮮やかな解明」が生じるのはこのためだ)。しかし、ここでモデルを用いることで、読者は操作対象となる要素と操作の組み合わせを絞ることができ、実用的な時間内で解明状態に導くことができる。
 したがって、ミステリーの世界では、読者はモデル操作によって、真実に到達することができる。

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 「一般理論」とやらは、ここで終わっていた。
 「読者」だって? 初めから読んでいるわけではないのでよくわからないが、以前に神束が言っていた、「情報を読み解く者」という意味だろうか。ちょっと違うような気もするが、読み直す気にもなれなかった。とりあえずの返事を書こうとしたが、何も浮かんでこない。中身を理解していないのだから、当たり前と言えば当たり前だ。お見舞いの文句を並べたところで、『下書き』フォルダに保存することにした。

 そうか。「名探偵はおしまい」、か。これでようやく、あいつも本来の仕事に戻れるだろう。ちょうどいい機会かもしれない。あいつもちょうど研修期間が終わって、俺の指導からも外れた。そろそろ一人前の編集者として、地に足をつけて、本腰を入れて取り組まなければいけない時期だ。怪我をしたのは気の毒だが、最大の問題が SHIFT と CTRL というくらいなら、大したことはないのだろう。
 おれはメーラーを閉じると、半ば無意識的な動作で、作業中のファイルを開いた。いちばん上に表示されたのは、書きかけの原稿だ。これもまた自動機械のように読み直すうちに、一カ所引っかかるところがあった。ちょっとやっかいな筋だ。どうやら元にした資料自体に混乱があるようだが、それでも本誌としては、どう説明すべきか。文言を少し変えてみたが、これでは論旨があいまいになってしまって、京塚あたりに会議で袋だたきにされそうだ。おれはもう一度目をこすり、椅子に座り直すと、原稿書きの作業に没頭した。


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 以上で、「蓋然性ではもの足りない」完結です。まだ取り上げてみたいテーマもありますが、とりあえずストックが尽きましたので、このへんにしておきたいと思います。

 念のため付け加えておきますが、作者はこの小説で、本当に「一般理論」を作り上げた、なんて思っているわけではありません。では、なぜ最終話にこんな話を載せたかというと、物語のラスト、探偵の退場時に、「今までの探偵役が(おそらく)したことのない、どでかいこと(殺人や自殺などではなく)を成し遂げてしまう」というのをやってみたかったんです。某探偵が、本物の王子様になってしまったように……。本話で、神束は「あらゆる謎を解明できる」探偵になった上で、物語から退場することができました。この結末に、ある程度の説得力を感じていただければいいのですが。

 ここまで、この異常なまでに理屈っぽい話を読んでいただいた皆さん、どうもありがとうございました。

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