2 定義をかなりいじってるから

文字数 4,551文字

 人間は物質でできている。物質の動きは物理法則で決まっている。したがって人がどのような行動をするかは物理法則で完全に決まっていて、そこに自分の意志が関わる余地は無い。人に自由な意志など無く、我々が自由意志と思っているのは自由の『感覚』に過ぎないのだ。
 おおざっぱに言うと、これが「決定論と自由」問題だ。人が(大脳も含めて)物質でできているのは間違いないし、物理法則うんぬんも説得力がある。だからこの結論は定説として認められているかというと、これがそうでもないらしい。この刺激的な主張に対して、宗教関係者ばかりか科学者や哲学者からも、さまざまな反論がなされてきた。「人間には魂がある」と信じる人はもちろん、魂を信じない人でも、自由意志は信じたいのだ。中でも面白いのはこんな主張だ。

「決定論の『決定されている』は空虚な言葉である。なぜなら、決定論は行動を決める物理法則があるとしか述べておらず、それが具体的にどんな法則かを示していない。これでは反証する術がないではないか。つまりこの主張は反証不可能な主張なのであり、主張自体が空虚なのである」

 これは「反証不可能性」という科学哲学の用語まで動員した、技巧を凝らした議論だ。が、これでも反論しきれてはいない。「決定されている」の中身に触れていないのは、こっちの方だからだ。物理法則は説明の範囲を次々に広げてきたし、無意識や閾下知覚の存在も明らかになっている。「脳の右半球を刺激した状態で左右どちらかの手を挙げさせる」実験では、8割の人が左手を挙げたのだが、その人たちは皆、「自分の意志で左手を選んだ」と主張したという。人間が意識だけで動いてはいないことはまず間違いないことで、物質の動きが物理法則で決まっていることも、とてもありそうなことだ。したがって決定論の「決定されている」もとてもありそうなことなのであって、決定論の説得力はここにあるのである。まだ証明されていないから空虚だ、では反論になっていない。
 では、量子論はどうだろう。量子力学では、物質の状態は確率的にしか決まらない。つまり、完全には決定されてはいないことになる。これは決定論への反論になりそうだ。ではこれで自由意志の勝ちかというと、やはりそうはならない。今度はサイコロのようなランダムな現象から、自由な「意志」を生み出さなければならないのだ。こうしてみると、自由意志の苦労がよくわかる。偶然と必然、どちらを選んでもうまくいかないのだから。
 ところで、もしも決定論が正しければどうだと言うのだろう。実は刑法の建前では、自由意志がなければ、責任能力も無いことになってしまう。そうなると刑事罰に問えなくなってしまうのだ。決定論なら「鞭打たれることも決まっていた」と言えるかもしれないが、量子論ではそれも通用しない。ではどう考えればいいのだろう? おそらく、ある意味では、自由意志は存在するのだ。例えば幽霊のように。この世には幽霊を恐れる人や、霊魂を商売にする人がいる。彼らの行動は幽霊に影響されており、幽霊によってお金を儲けたり、お金を払ったりする。社会での働きから見れば、それは現実の存在と変わりはない。科学的にはどうあれ、社会的には、霊は実在しているのである。自由意志も同じだ。それを信じ、それを元にした制度が作られているのなら、社会的には自由意志は存在する。

「いえ、今日は事件ではありません」
 開口一番、宇津井はこんな言葉を口にした。捜査一課の刑事にこんなことを言われるとかえって警戒してしまうが、どうやら本当に事件ではないらしい。出されたお茶におとなしく口を付け、安物のパイプ椅子にゆっくり腰を落ち着けて、『予言論』事件のその後を話している。どうやら、事件解決のお礼に来たようだ。だが、ひととおりの報告が終わった後も、すぐに席を立とうとはせず、「今度、久しぶりに母校に行ってみませんか」などと、たわいのない話を始めた。とりあえず事件が一つ片付いたので、時間の余裕ができたのだろうか? そういえば、宇津井とおれは同じ大学の同窓生だし、何回か事件現場まで一緒に出かけた仲(たとえ神束のお供に過ぎなかったとしても)なのだから、たまにはこうして遊びに来ても不思議ではないのかもしれないが……。
「母校って、S大のことか? もう後輩も残ってないし、いまさら行ってもなあ」
「神束さんはいかがです? そうですねえ……息抜きのつもりで、伊坂市の遊園地にでも」
 伊津野は俺に断られると、今度は神束に誘いをかけた。それも、どういうわけか遊園地に行こうなどと言っている。ほんの一瞬、刑事と探偵のラブストーリー、なんてテレビドラマ的な設定が俺の頭をよぎったが、ストーリーが展開するよりも早く、神束が断りの言葉を発した。
「嫌です」
「そうおっしゃらずに。車はこちらで手配しますよ」
「週刊誌の編集部から聞きましたよ。遊園地にある迷路で、犯人が消えてしまったんでしょう? 密室のモデルはもう説明してあるんですから、そちらで対応してください」
「そうですか。残念ですが仕方ありません。遊園地の件は、私の担当ではありませんしね」
 宇津井は軽く肩をすくめると、あっさりと引き下がった。
 なんだそういうことか、と俺は納得した。ここ最近、神束は事件現場に出たことがない。それどころか、宇津井の『世間話』の相手をすることさえ、断ることが増えているのだ。事件の中身が密室やアリバイと知ると、問答無用で話を打ち切ってしまう。『予言論』の際に宣言したとおりの、すがすがしいほどの塩対応だ。宇津井としては、そのあたりを何とか打開して、神束をもう一度現場に引っ張り出したいに違いない。
 もっとも、今回のこれはジョークのようなもので、宇津井もこんな言葉遊びのような行為で連れ出せると、本気で考えていたわけではあるまい。だから簡単にあきらめたのだろうが、神束は急に不機嫌な顔つきになった。こいつは、この手のだまし討ちのような行為には、厳しいところがあるのだ。しかし、モデルも論理もない平和なひとときが、こんなことで面倒くさくなるのはかなわないので、おれは助け船のつもりで、双方に言葉をかけた。
「おまえなあ、遊園地に行こうって、子供相手の誘拐犯じゃないんだから……神束もそんなに怒るな。こいつも、仕事なんだ」
「べつに、怒ってなんていませんよ」
「だったらそんな顔するなよ」
「これはですね。最近の不安定な国際情勢を、憂いているんです」
 口をとがらせたまま、神束はよくわからない言い訳をした。俺はちょっと気になったことを、宇津井に訊いてみた。
「そういえば、大学がどうのって言ってたな。もしかしたら、大学でも何かあったのか?」
「ああ、失礼。事件ではありませんが、ちょっと調べ物があるんです。血なまぐさい場面や面倒な証人調べなどはありませんので、ご安心ください」
「いえ、そっちも行きませんから」
 余計に加えた一言に、神束は即座に反応する。伊津野は苦笑いを浮かべ、再び肩をすくめた。
「私としては、これからもこうして、世間話をしにくるつもりだったのですがねえ」
「モデルはもう説明してあるんですから、警部さんがやってくれればいいじゃないですか」
「まるで、もう解くべき現象は出尽くしたような言い方だな」と俺。
「これまでに密室、アリバイ、確率と扱ってきました。これらのモデルを変形したり組み合わせたりすれば、かなりの範囲をカバーできるんじゃないですか? 探偵に相談が来るような事件については、ですけど。後はまとめの総論を残すくらいです。だから警部さんにおつきあいするのも、そろそろおしまいになるんですけど」
 神束がにこりと笑ってみせると、宇津井も同じ笑いを返した。
「それですべての事件が解けるのなら、私は大歓迎です。しかし、そんなことはないと思いますよ。解くべき謎はいくらでもあります。たとえば、人や物が消えるのでは無く、ある場所に突然現れる、なんて謎はどうですか」
「出現は密室のサブセットで、消失と同型ですね。その人や物を『被害者』に見立てて、存在する・しないを逆にしたが出現です。使うモデルも同じですね」
「では毒殺は? 毒がどうやって投入されたかわからない事件もありますよ」
「あれも出現も同型です。毒薬を『被害者』にしてしまえば、これもそのまま、同じモデルが使えます。『被害者』の性質には、注意しないといけませんけど」
「なるほど」
 宇津井は少し考え込んだ。
「言われてみれば、時間、空間、確率と見てきましからね。物理的な題材はそれなりにカバーされているのかもしれません。とすると、あとは理系ではなく、文系の分野でしょうか」
「文系?」
「人間心理や人間関係です。これは重要なテーマですよ」
「動機か。それは無理だな」
 おれが口をはさむと、神束は不満そうな声を上げた。
「なんでです?」
「心はモデルになんてできないだろ。そりゃあ、専門家ならいろいろ研究もあるだろうし、最近はAIもすごいけどさ。犯人の動機がわかるモデルなんてのは、聞いたことがない。そんなものがあるっていうなら、話は別だが」
 おれはやりこめたつもりだったが、神束はふふんと鼻で笑ってきた。
「そう思います? 実はですね、ないこともないんですよ」
「おまえ、動機は重要じゃないって言ってなかったか?」
「物理的な不可能状況においては重要ではない、と言ったんです。動機が問題になる状況なら、動機は重要ですよ。あたりまえでしょ」
「本当に、モデルなどというもので動機がわかるのですか? もしそうなら、心理学の先生に教えてあげたいですね」
 宇津井の懐疑的な言葉に、神束は意味ありげな答を返した。
「うーん、心理学では使えないかな。問題の設定っていうか、『動機』とはなにかという定義を、かなりいじってますから。でも、あるのは本当ですよ。なんだったら今から始めましょうか。動機というのはですね、私のモデルでは──」
「いや、そういうのはいい」
 おれはあわてて口をはさんだが、神束はかまわず、
「そうですね。実例で試したほうが、判りやすいですよね。警部さん、何かいい事件はありませんか?」
「事件ですか。いえ、本当に何もないんですよ。今日はご報告に来ただけで」
「暇なんですか?」
「抱えている件はあります。血なまぐさくて、ドロドロしたやつがね。ですが、謎はありません」
「昔の事件でもいいんですけど」
「神束さん。私が捜査についてお話しするのは、犯人逮捕という公益のためですよ。解決済みの事件では理由がつかない」
 宇津井は大げさな身振りで両手を広げた。どうやらこいつは、世間話という建前を忘れているらしい。そこにツッコもうとしたところで、宇津井は何か思いついたように、広げていた手を重ねて、ぽんと打った。
「ですが、そう言われて思い出しました。大学生のころに聞いた、少し不思議な話があります。事件というほどでもないのですが、こんなものでもいいでしょうか」
「うわさ話ですか?」
「いえ、それを見た人物から直接に聞いた話ですから、本当にあったことは間違いありません。謎というのはですね、男はなぜ五十円玉二十枚を千円札に両替するのか、と言うものなのですが──」

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