4 ちょっと飛ばして読んだところ

文字数 3,305文字

  (神束、一呼吸おき、再び口調を変えて)
  神束 :このように、客観的な叙述が無ければ、最も基本的な事柄でさえ、
      確定するのは困難になります。そして叙述トリックは、本来は客観
      的な叙述であるはずの「地の文」から、その機能を失わせるんです。
      文章の「解釈」という仕組みを使ってね。
  宇津井:しかし、その仕組み自体は、どんな小説も同じですよね。普通の小
      説でも、短い言葉のやりとりから、そこに書かれていない事をあれ
      これ想像させるものですから。
  神束 :その通りですが、使われ方が違います。たとえば、家族四人が食卓
      を囲んで会話するという、なんてことのない風景の描写があったと
      します。普通の小説なら、登場人物のキャラクターや人間関係、抱
      えている悩みなどを、彼らのやりとりから読み取ってもらおうとす
      るんでしょう。しかし、これが叙述トリックになると、食事の場所
      は日本ではなく外国の出来事になり、四人と思ったのが実は三人し
      かおらず、一つの空行の間に一時間が経過していたりするんです。
       このように、叙述トリックは一般の小説以上に積極的に、『解釈』
      を利用します。いくつか例を見てみましょう。


  【作者注】以下では、実例としていくつかの作品の叙述トリックを説明して
  います。作品名は挙げていませんが、ネタバレが気になる方は、次の「【こ
  こまで】」まで、飛ばしてお読みください。


       「描写をしない」のが代表的な手法だと言いましたが、同じ「描
      写しない」にしても、行動そのものを欠落させるのではなく、主語
      を省いたり、主語が指す人物を入れ替える、といった方法もありま
      す。「私」視点の文章が続いていたら、読者は当然、同じ人物だと
      思うでしょう。ところがいつの間にか、その「私」が別人になって
      いたりするんです。これは「私」に限りません。「あなた」や「父
      親」「ユキちゃん」などの言葉が示しうる人物は、一人だけではあ
      りませんから。

       単に描写を省くだけでなく、さらに積極的に、読者の解釈を誘導
      しようとすることもあります。登場人物AとBの間で会話があれば、
      二人は同じ場所にいると思いますよね。しかし、そうではなかった。
      いつの間にかBの返事がなくなっていて、そこから姿を消していた
      のです。普通ならAも、そして読者も気づくでしょうが、例えばA
      が事件発生を目撃し、あわてていたりすればその限りではありませ
      ん。当然、犯人はその場にいなかったB、なんですね。

       その誘導の方法も、文章を読解する上での「作法」的なものを使
      ったり、社会的な常識を使ったりなど、様々です。作中の「私」が
      「生きている彼を見たのは、この時が最後だった」と書けば、「彼」
      はこの後で死ぬんだろうと思うでしょう。しかし、死ぬのは「私」
      のほうなんです。元刑事が講演を行い、かつて自分が手がけた事件
      の話をし、さらに犯人当ての問題を提出しました。実は、その事件
      の犯人は元刑事自身だった。彼の講演は刑務所の中で行われていた、
      更生プログラムの一環だったんです。犯人当て問題は、ほとんどの
      人が正解だったでしょうね。単なる表現技法から進んで、「文学的
      な読み方」とでも言うべきものが利用される場合もあります。捜査
      が膠着状態になった捜査本部で、ある刑事がパソコンの文書保存に
      失敗し、飲もうとしたミルクティーに異臭を感じて、思わずを吐き
      出してしまいます。牛乳が腐っていたんです。これらの出来事は、
      刑事や捜査陣の「疲れ」を象徴するものとして描かれています。が、
      実はそれは前日に停電があったためで、パソコンや冷蔵庫の電源が
      落ちていたのが原因でした。その停電が、事件解決の大きな手がか
      りになる、というわけです。

       小説世界の内部ではなく、その外側、小説自体の構成や形式を利
      用するものもあります。ストーリーAとストーリーBが交互に叙述
      され、Aでは連続殺人の犯人の行動が、Bでは殺人事件を追う刑事
      の捜査が描かれています。AとBは時間的にも交互なのかと思いき
      や、実はBは過去の話で、その刑事が新たな連続殺人犯となる物語
      でした。つまり彼こそが、ストーリーAの犯人だったんです。その
      他に、あたかもサイコ・ホラーのように進んだ物語が、ラストでは
      論理的な解決がなされたり、ホラーやコメディの連作短編の中に、
      一つだけクイーン風の本格ミステリが入っていたりする、なんてい
      うものも、「これはこのジャンルの小説なんだ」という読者の思い
      込み・解釈を利用した、叙述トリックの一種といえるでしょうね。

       さらに大胆に、小説の枠さえ超えて、小説が存在する世界の約束
      事を利用するものもあります。ある作品では、ストーリーの途中で
      「私」と恋人の性行為が描かれるんですが、当然のことながら、詳
      細な描写はなされません。性的表現を避けるためには、適度にぼか
      さなければなりませんからね。ところがこれが省略ではなく、本当
      に「存在していなかった」、という例があります。これなどは「こ
      の小説は日本の法律を遵守して書かれている」という、小説の外に
      ある規則を利用していますね。
  伊津野:ああ、それは私も読んだことがあります。そのあたりの描写になっ
      た時、私はちょっと飛ばし気味に読んでしまったんです。この作者
      の、この本に求めているのはこういうものではないんだけどなあ、
      と思いながら。ところがそれこそがトリックだったとわかって、本
      当に驚きました。

  【ここまで】

  神束 :そしてトリックの効果は、基本的にあらゆるものに及びます。叙述
      によって成り立つ世界でその叙述をいじるんですから、当然と言え
      ば当然ですね。具体的には、「時間」や「場所」、「人物」、「行
      動」、「環境」といったものが代表的です。「時間」では時刻、時
      間間隔、季節、年、時代といったものが、「場所」では地図上の位
      置、所在する国、半球、惑星、「人物」では名前、性別、身長、年
      齢、容貌、民族や人種、職業、身分、身体障害の有無、人数、家族
      内での呼称、性格や他者による人物評価など、「行動」はそれこそ
      あらゆる行動や出来着とが対象ですが、犯行そのものや犯行の準備・
      後始末、発見時の各種隠匿行為といったところが多いでしょうか。
      「環境」は、天候や気象と言った自然環境の他に、社会制度なども
      含みます。普通の小説だと思っていたら、実際には核戦争後の社会
      での話だった、といったものです。こういう、実はディストピアだ
      ったという落ちは、ミステリに限らず、SFや一般の小説でも多い
      かもしれません。
  今野 :それこそ、何でもありだからなあ。アンフェアと言われるのもわか
      るな。
  神束 :叙述トリックには、昔から批判がつきものでした。最近では、正面
      切っての批判は少なくなったかもしれませんが、それでも作品によ
      っては、「ずるい」と感じる読者も多いかもしれません。そしてこ
      の感想は、必ずしも理由のないものではないんです。

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