6 (最初から最後まで)想像上の解決
文字数 3,427文字
(ルーズリーフを指差しながら)
神束 :この『小説』の中で提示されている要素は、舞台としての場所と時
間、そして登場人物とその行動です。人物には人数、名前、性別、
髪の長さ、傷痕、性格、体調、人間関係、癖、特技、動作、口調と
いった属性が加えられており、また小道具としてカンバス、鉛筆、
車椅子、コップなどが登場しています。なお、本件では警部さんか
らの情報は叙述の外にありますから、正確であると考えていいでし
ょう。よって三人の名前、性別、写真からわかる外見などは確定値
となります。
これらを順番に点検していきましょう。まずは時間です。手記の
前段には『あふれるほどの光』『狂ったように暑い』とあって夏の
日中を連想させ、後段では『暗くなっていた』で夜になっています。
『思い出すこと』がどこまでなのかは明確ではなく、後段は時間的
に離れているのかもしれません。ここにはトリックがあるのでしょ
うか? 無いとは言えません。たとえば『南の島』が実は南半球に
あって『狂ったように暑い』のは七月ではなく十二月だった、『暗
くなっていた』のは日食のためで時間はお昼過ぎだった、ルーズリ
ーフのページが狂っていて後段は前段より前の話だった、などは、
可能性としてはありえるでしょう。しかし、私はここに仕掛けがあ
るとは思いません。なぜなら、矛盾がないからです。あまりにも記
述が少なすぎて、矛盾となることができそうにないんです。それゆ
え、叙述トリックが持つべき制約により、ここにはトリックは存在
しないことになります。
今野 :うーん、前提がそういう前提なんだろうけど、なんていうか、おか
しな推理だよな。論理が転倒しているというか、循環しているとい
うか。
神束 :そのとおりですが、叙述トリックとはそういうものなんですから、
仕方がありません。『叙述にトリックを仕掛けること』自体が、循
環的で転倒したものなんでしょう。先を続けますね。
場所についても同じ事が言えます。前段に『平和な南の島』とあ
る以外にはほとんど描写が無く、わずかに『廊下』『白い部屋』
『窓』といった言葉だけでは、矛盾が生まれるだけの情報量はない
でしょう。したがって、ここにもトリックはありません。各種小道
具も同様です。
では、人物に関してはどうでしょうか。人数は警察情報なので確
定です。それぞれの名前も、手記前段に登場する友香梨と稚子はい
ずれも地の文で描写されており、不明瞭な部分はありません。『ぼ
く』の名前は稚子の言葉だけでは確定できませんが、これが布川で
あることは警部さんが保証していますね。
では後段の人物はどうでしょう。友香梨と布川らしい人物が登場
し、なにやら物憂げなやりとりをしていますが、彼らは本当にこの
二人でしょうか? 布川はいいでしょう。警部さんの保証は、後段
にもあてはまりますからね。しかし友香梨は、布川が『友香梨』と
呼んだだけですから確定値とはなりません。彼女が別人である可能
性は残ります。
今野 :それはただの可能性だろ。
神束 :トリックの有無は、矛盾の有無によって判別することができます。
叙述から材料を拾ってみましょう。まず前段から、稚子は姉で、短
髪で、活発な性格で、腕にやけどの痕があることはわかりますね。
そして彼女は右利きです。なぜなら『稚子の右に立った』布川が鉛
筆に気がついたのですから、それは右耳にさしていたはず。つまり
右手で鉛筆を持っていたことになるからです。同様に、やけどがあ
るのも右腕でしょう。
一方の友香梨は妹で、長髪で、車椅子を使っていて、布川の婚約
者です。姉と『対照的』ということは、おとなしい性格なのでしょ
う。そして彼女は左利きです。料理の失敗で『右手の薬指と中指』
に絆創膏を貼ったのなら、包丁は左手に持っていたはずですから。
では後段の女性はどうでしょう。彼女は車椅子に座り、布川から
『友香梨』と呼ばれ、彼とキスをしていたようです。いずれも友香
梨の特徴と一致しますが、一つおかしな所があります。この女性は
右利きなのです。なぜなら、スプーンを持った状態で『ぼくの手を
外した』のが左手だったからです。ここに矛盾があります。矛盾が
あるという事は叙述トリックの存在を意味し、この女性が友香梨以
外の何者かであることを示します。では彼女は誰なのか。まったく
の第三者でもいいのですが、すぐ近くにちょうどいい人がいますよ
ね。友香梨と利害関係があり、友香梨と入れ替わることができる程
度には似ていて、布川とも接点のある人物。もちろん、稚子のこと
です。
宇津井:しかし、二人はそれほど似ていません。それに、稚子は髪が短いで
すよ。
神束 :入れ替わるつもりなら、カツラくらい準備していますよ。布川の手
を払ったのは、カツラがずれて、入れ替わりが露見するを避けるた
めめかもしれません。ドアの外には、母親がいたんですから。
彼女は、その母親に向かって『会いたくない』と言い、部屋に入
れようとしませんでした。当然、それ以外の人にも、顔を見せては
いないでしょう。これなら、それほど似ていなくても、入れ替わり
は可能と思われます。とはいえ用心は必要です。部屋が暗かったの
は顔を見せないためかもしれませんし、二の腕を抱いていたのは、
やけどの痕を隠していたのかもしれませんね。暑い日が続いていた
ようですから、長袖を着るのは不自然だったんでしょう。
今野 :だけど、布川は『友香梨』と呼んでるぞ。二人きりの時に偽の名前
を呼ぶ必要はないだろう。
神束 :ポイントは、それが『少し大きな声』だったところです。部屋の外
にいる人間に、一緒にいるのが友香梨であることをアピールしたか
ったですよ。
宇津井:だとしても、二人はなぜ入れ替わる必要があったのですか。
神束 :ここからは想像……いや、今回は最初から最後まで想像なんですけ
どね。
この入れ替わりは、長い時間続けられるものではありません。も
ともとそんなに似ていないし、近くには家族もいます。ごく短時間
しかもたないけれど、そんなことは布川たちも、最初から承知でし
ょう。と言うことは、それで十分なんです。目的も、ジョークや悪
ふざけとは思えません。なにしろ、布川とキスしてますからね。そ
こには邪なものが感じられます。それに、これは警部さんからの追
加情報ですが、友香梨は既に死亡しているらしい。入れ替わりの前
後で当人が死んでいるのは、はたして偶然でしょうか?
今野 :友香梨を殺すための、アリバイ工作と言いたいのか。
神束 :そんなところでしょうね。死亡推定時刻をずらすのは、密室やアリ
バイに限らず、さまざまな現象の基本ですから。
動機ですか? ここに書かれた材料だけで判断すれば、思いつく
のは三角関係でしょう。姉にしてみれば、『妹と遊んでいて』受け
たやけどのことで、友香梨を恨んでいたのかもしれない。布川にし
てみれば、車椅子の女性というのが、つきあってみたら重荷だった
のかもしれません。家事も大変そうですしね。いや、単なる想像に
しても、これは言い過ぎでしょうかね。
神束 :この『小説』の中で提示されている要素は、舞台としての場所と時
間、そして登場人物とその行動です。人物には人数、名前、性別、
髪の長さ、傷痕、性格、体調、人間関係、癖、特技、動作、口調と
いった属性が加えられており、また小道具としてカンバス、鉛筆、
車椅子、コップなどが登場しています。なお、本件では警部さんか
らの情報は叙述の外にありますから、正確であると考えていいでし
ょう。よって三人の名前、性別、写真からわかる外見などは確定値
となります。
これらを順番に点検していきましょう。まずは時間です。手記の
前段には『あふれるほどの光』『狂ったように暑い』とあって夏の
日中を連想させ、後段では『暗くなっていた』で夜になっています。
『思い出すこと』がどこまでなのかは明確ではなく、後段は時間的
に離れているのかもしれません。ここにはトリックがあるのでしょ
うか? 無いとは言えません。たとえば『南の島』が実は南半球に
あって『狂ったように暑い』のは七月ではなく十二月だった、『暗
くなっていた』のは日食のためで時間はお昼過ぎだった、ルーズリ
ーフのページが狂っていて後段は前段より前の話だった、などは、
可能性としてはありえるでしょう。しかし、私はここに仕掛けがあ
るとは思いません。なぜなら、矛盾がないからです。あまりにも記
述が少なすぎて、矛盾となることができそうにないんです。それゆ
え、叙述トリックが持つべき制約により、ここにはトリックは存在
しないことになります。
今野 :うーん、前提がそういう前提なんだろうけど、なんていうか、おか
しな推理だよな。論理が転倒しているというか、循環しているとい
うか。
神束 :そのとおりですが、叙述トリックとはそういうものなんですから、
仕方がありません。『叙述にトリックを仕掛けること』自体が、循
環的で転倒したものなんでしょう。先を続けますね。
場所についても同じ事が言えます。前段に『平和な南の島』とあ
る以外にはほとんど描写が無く、わずかに『廊下』『白い部屋』
『窓』といった言葉だけでは、矛盾が生まれるだけの情報量はない
でしょう。したがって、ここにもトリックはありません。各種小道
具も同様です。
では、人物に関してはどうでしょうか。人数は警察情報なので確
定です。それぞれの名前も、手記前段に登場する友香梨と稚子はい
ずれも地の文で描写されており、不明瞭な部分はありません。『ぼ
く』の名前は稚子の言葉だけでは確定できませんが、これが布川で
あることは警部さんが保証していますね。
では後段の人物はどうでしょう。友香梨と布川らしい人物が登場
し、なにやら物憂げなやりとりをしていますが、彼らは本当にこの
二人でしょうか? 布川はいいでしょう。警部さんの保証は、後段
にもあてはまりますからね。しかし友香梨は、布川が『友香梨』と
呼んだだけですから確定値とはなりません。彼女が別人である可能
性は残ります。
今野 :それはただの可能性だろ。
神束 :トリックの有無は、矛盾の有無によって判別することができます。
叙述から材料を拾ってみましょう。まず前段から、稚子は姉で、短
髪で、活発な性格で、腕にやけどの痕があることはわかりますね。
そして彼女は右利きです。なぜなら『稚子の右に立った』布川が鉛
筆に気がついたのですから、それは右耳にさしていたはず。つまり
右手で鉛筆を持っていたことになるからです。同様に、やけどがあ
るのも右腕でしょう。
一方の友香梨は妹で、長髪で、車椅子を使っていて、布川の婚約
者です。姉と『対照的』ということは、おとなしい性格なのでしょ
う。そして彼女は左利きです。料理の失敗で『右手の薬指と中指』
に絆創膏を貼ったのなら、包丁は左手に持っていたはずですから。
では後段の女性はどうでしょう。彼女は車椅子に座り、布川から
『友香梨』と呼ばれ、彼とキスをしていたようです。いずれも友香
梨の特徴と一致しますが、一つおかしな所があります。この女性は
右利きなのです。なぜなら、スプーンを持った状態で『ぼくの手を
外した』のが左手だったからです。ここに矛盾があります。矛盾が
あるという事は叙述トリックの存在を意味し、この女性が友香梨以
外の何者かであることを示します。では彼女は誰なのか。まったく
の第三者でもいいのですが、すぐ近くにちょうどいい人がいますよ
ね。友香梨と利害関係があり、友香梨と入れ替わることができる程
度には似ていて、布川とも接点のある人物。もちろん、稚子のこと
です。
宇津井:しかし、二人はそれほど似ていません。それに、稚子は髪が短いで
すよ。
神束 :入れ替わるつもりなら、カツラくらい準備していますよ。布川の手
を払ったのは、カツラがずれて、入れ替わりが露見するを避けるた
めめかもしれません。ドアの外には、母親がいたんですから。
彼女は、その母親に向かって『会いたくない』と言い、部屋に入
れようとしませんでした。当然、それ以外の人にも、顔を見せては
いないでしょう。これなら、それほど似ていなくても、入れ替わり
は可能と思われます。とはいえ用心は必要です。部屋が暗かったの
は顔を見せないためかもしれませんし、二の腕を抱いていたのは、
やけどの痕を隠していたのかもしれませんね。暑い日が続いていた
ようですから、長袖を着るのは不自然だったんでしょう。
今野 :だけど、布川は『友香梨』と呼んでるぞ。二人きりの時に偽の名前
を呼ぶ必要はないだろう。
神束 :ポイントは、それが『少し大きな声』だったところです。部屋の外
にいる人間に、一緒にいるのが友香梨であることをアピールしたか
ったですよ。
宇津井:だとしても、二人はなぜ入れ替わる必要があったのですか。
神束 :ここからは想像……いや、今回は最初から最後まで想像なんですけ
どね。
この入れ替わりは、長い時間続けられるものではありません。も
ともとそんなに似ていないし、近くには家族もいます。ごく短時間
しかもたないけれど、そんなことは布川たちも、最初から承知でし
ょう。と言うことは、それで十分なんです。目的も、ジョークや悪
ふざけとは思えません。なにしろ、布川とキスしてますからね。そ
こには邪なものが感じられます。それに、これは警部さんからの追
加情報ですが、友香梨は既に死亡しているらしい。入れ替わりの前
後で当人が死んでいるのは、はたして偶然でしょうか?
今野 :友香梨を殺すための、アリバイ工作と言いたいのか。
神束 :そんなところでしょうね。死亡推定時刻をずらすのは、密室やアリ
バイに限らず、さまざまな現象の基本ですから。
動機ですか? ここに書かれた材料だけで判断すれば、思いつく
のは三角関係でしょう。姉にしてみれば、『妹と遊んでいて』受け
たやけどのことで、友香梨を恨んでいたのかもしれない。布川にし
てみれば、車椅子の女性というのが、つきあってみたら重荷だった
のかもしれません。家事も大変そうですしね。いや、単なる想像に
しても、これは言い過ぎでしょうかね。