4 『コンピューター ご一行様』

文字数 2,343文字

 声を上げているのは、浴衣姿の男だった。年は三十代前半あたり、面長の顔に無精ひげをつけ、長い髪を無造作に真ん中で分けている。眼鏡の奥の目が厚ぼったいのは、寝不足のためだろうか。男はすごい剣幕で係員に詰め寄り、係員は困り顔で男をなだめていた。それを見た海野は、怪訝そうな表情を浮かべた。
「あれ、針木さんじゃないか?」
「針木って、クラスターズの作者の方ですか」
「うん。何かあったのかな」
 海野は興味津々といった表情で針木の背後から近づいていった。洞谷も騒ぎに気がついたらしく、足を止めて様子を見ている。しばらくすると海野は、神束に手招きしながら、洞谷のところへ戻ってきた。
「大変ですよ洞谷さん」
「あの先生、何て言ってました?」洞谷はしかめっ面で尋ねる。
「ニックのボードがどうとか、専門用語が混じってよくわからないところもあったんですが──」
「NICはネットワーク用の拡張ボードですね。コンピューターをLAN接続するのに使います」神束が補足する。
「──ああそう。要するに、持ってきたコンピューターが壊されたって言ってるみたいなんです」
「なんだって! そりゃ一大事じゃないか」
「だから大変なんですって。あ、支配人が出てきた。現場に行くのかな。洞谷さん、ぼくたちもついていってみましょう」

 増改築を繰り返した旅館特有の曲がりくねった通路を伝って、海野たちは風月閣新館へと向かった。風月閣は中庭を取り囲むように別館・本館・新館が建ち並び、その間を渡り廊下で結ぶ構造になっている。新館の階段を上り、さらに通路を進むと、廊下の真ん中に「この先 関係者以外立入禁止」の案内板が立っていた。その少し手前の、廊下を少し広げて(しつら)えた簡単な休憩所を通り過ぎようとしたところで、先頭の大原久治支配人が急に立ち止まった。
「おや、あなたは……」
 大原は休憩所に腰掛けている老人に気づき、記憶を探るような口調で声をかけた。老人は手にしていた雑誌を閉じ、立ち上がって一礼した。
「間山です。今月からお世話になっています」
「ああ、通用口の。ここで何をしているんだね」
「八時で夜勤が明けましたので、少し休んでいました」
「こんなところでか? ……まあいい。申し訳ないが、少し頼まれてもらえないかな。この先に誰も入ってこないよう、番をしていてほしいんだ」
「わかりました」
 間山を残して、一行は再び先に進んだ。案内板の先は廊下を挟んで左右五つずつのドアが並び、その奥は突き当たりになっている。針木は右奥から三つ目のドアに飛びついて、鍵をがちゃつかせた。ドアには『(つが)の間』と彫ったプレートが飾られ、その下に『コンピューター ご一行様』の紙が貼られていた。

「これですよ。ひどいでしょう」
 部屋に入ると、針木は憤然とした表情で畳の上を指さした。
 そこは十畳ほどの和室で、中央に長方形の座卓が置かれ、窓からは中庭が覗いていた。その窓側の畳に、三台のコンピューターが鎮座している。デスクトップ型と呼ばれる大型のもので、重さに配慮したのだろう、畳に鉄板を敷いたその上に置かれていた。ところが、その板には大きな水たまりができており、よく見るとコンピューターの筐体にも水滴が付着していた。
「風呂から帰ったら、こうなっていたんです」
「あなたが間違ってこぼしたんじゃないですよね」
 洞谷の質問に、針木はぶんぶんと首を横に振った。
「まさか。三台とも中に水が入ってるんですよ。誰かがスリットのとこから水を注いだんです。それからね」
 針木は膝をついて、客室に備え付けの金庫を開いた。
「ここにしまっておいたノートパソコンがなくなってるんです」
 海野は金庫を覗き込んでみたが、中には何も入っていなかった。再び洞谷が尋ねる。
「どうしてをこんなところにパソコンを?」
「昨日、変なメールがあったんで、念のためにね」
「変なメール?」
「明日の対局は棄権しろってやつですよ。そうしないと、痛い目にあうって」
「脅迫ですか。どうして、私に知らせてくれなかったんです」
「この対局が決まってから、たまにあるんですよ。変な電話やメールが。でも今までは何にもなかったし、どうせフリーメールの捨てアドで、誰の仕業かわからないし。いちいち気にしてられません。たぶんだけど、そっちにも同じようなのが行ってるんじゃないですか?」
 こう反論されて、洞谷は黙り込んだ。どうやら、将棋協会にも脅迫めいたものが届いていたらしい。海野が横から口をはさんだ。
「それなら、どうして部屋を離れたんですか」
「洞谷さんに、ちょっと言われたもんでね」
 針木が説明したところによると、彼が起きたのは午前八時過ぎのことだった。昨夜はS市在住の友人と遅くまで飲んでいて、危うく寝過ごすところだったらしい。目を覚ました針木は食事も取らずにシステムの起動準備を始めたが(ここの向かいにある『(まさき)の間』が、彼の部屋にあてられていた)、そこへ洞谷と大原が訪れた。その際、「よろしくお願いします」の挨拶と共に、「お酒臭いですよ」という趣旨の言葉を、やんわりと言われたそうだ。そこで眠気覚ましも兼ねて、風呂へ行くことにしたのだという。
「それで朝風呂ですか……なんていうか、のんきなんですね」
 海野は控えめな表現で感想を述べたが、針木は当然のような顔で答えた。
「システムが立ち上がってしまえば、今日は見ているだけだからね。記者さんの相手くらいしか、することがないんだ」
「最後までプログラムを修正する、なんて事はしないんですか」
「こんなところで書いたって、ろくなことにならないよ。エンバグするのが落ちだ。今日に限ってはきちんと動くことが最優先で、それはもうできているんだ」
 そして、つぶやくように付け加えた。
「正確には、できていた、なのかな」


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