2 論理についてひとくさり

文字数 1,972文字

 神束陽向(こうづかひなた)を紹介する前に、論理についてひと言述べておこう。

 この世界の大部分は、論理によって説明することができる。おれは科学以外の体系に興味はないので、ここは『科学によって』と言い換えてもいい。不思議なことに、この明白な事実は、多くの人から拒否されてしまう。
 いわく、
「科学では説明できないことがあるのです」
 いわく、
「ゲーデルの定理というものがあってね、論理が正しいとは限らないんだ」
 ひどいのになると、
「そんなこと言うのは夢がないです」
 ちなみに、ゲーデル云々(うんぬん)は完全に間違いだ。あれは「正しいことの中には証明できないものがある」と言っているのであって、「証明されたことの中に正しくないものがある」ではない。

 科学に説明できないことがあるのは当然だ。そもそも、人がすべてを知ることができるなどと、誰が決めたのだろう。科学が優れているのはすべてを説明できることではなく、説明できるとは限らない点だ。最低限の仮定と決められた論理操作だけで戦おうとする、禁欲的な態度がすてきなのである。そしてその信頼性は、実績と実用性が保証している。反科学論者が一生懸命にNASAの陰謀を調べ、カードの裏を当てようとしている間に、科学者たちは相対性理論とコンピュータと高性能なAIと、さらには不完全性定理をも生んできた。科学はもともと、実用性を求めて誕生したものなのだ。夢を語る人たちだって、非科学的な飛行機には乗りたくないだろう。そして現在、科学は世界のかなりの部分を説明できるところまできている。
 にもかかわらず、この事実の評判は(かんば)しくない。では同じ事を、科学者ではなく探偵が言ったとしたらどうだろうか。

 神束は、実用的には名探偵と呼ばれる存在だ。事件の情報を受け取って犯人の名前を返すのだから、間違った呼び名ではないだろう。もちろん本業ではない。ふだんは『月刊パスカル』の記者をしていて、一応はおれの後輩ということになる。K大を出たと聞いたから最低でも二十二才にはなっているはずだが、小柄で顔つきも幼く、仕草も子供っぽい。学生服が似合ってしまいそうだ。本人も自覚があるのか、黒のスーツで精一杯の抵抗をしているが、全体の印象は背伸びした子供である。だいたい、社会人なら職場でほおをふくらませたりするものではない。
「──と言ったわけで、今回もご協力をお願いしたいんですよ」
 会議室のパイプ椅子の上で、宇津井優樹はにっこりと微笑みを浮かべた。眉目秀麗、物腰が低く、言葉つきもていねいで、常に如才のない微笑みを浮かべている。いかにもさわやかな好青年だが、これで捜査一課の刑事なのである。まったく記憶にないが、おれと同じ大学同じ学部の同期だったらしいので、年は二十八あたりだろう。百八十に少し足りないくらいの長身に、グレーのスーツを隙なく着こなしている。ここで自身を顧みると、よれよれの背広Yシャツにねじ曲がったネクタイ。これにぼさぼさの天然パーマとかなりの短足を合わせれば、どこにでもいる雑誌記者・今野明のできあがりだ。
「はあ」
「前回は不幸な出来事もありましたが、事件そのものは、無事解決に至りました。私としては、あなたの能力は大変に買っているんです。ですからこうして、伺っているわけでして」
「はあ」
 神束は、あからさまにやる気のない返事を繰り返した。

 どうして宇津井が「能力を買っている」のかというと、それは以前、神束が書いた雑誌の記事がきっかけだ。「迷宮入り事件を科学的に分析する」というその記事の内容が、たまたまなのか必然だったのか、事件を解決してしまったのである。なぜか警察から大目玉を食らい、記事そのものはボツになったのだが、それ以来、この宇津井という警部がときどき訪ねてくるようになったのだ。ただし、正式の捜査協力依頼ではなく、あくまでも個人的な相談として、だが。おれと同じ大学のOBをよこしてくるのは、多少は懐柔の意図もあるのだろうか。そして決まって一人で顔を出すのは、「これは公式の捜査ではない」との意思表示なのだろうか。刑事は二人組で捜査するのが決まり、という話を聞いたことがあるので。
 ちなみに「不幸な出来事」の方は、前回、とある山の上まで連れて行かれた時のことである。宇津井に引っ張り出された神束は、事件の被疑者が山道で消失したという謎を、見事に解いてみせた。が、その後がいけなかった。自分の推理を確かめようとした神束は、被疑者の死体を発見して、その場で気を失ってしまったのだ。まあ、首を吊った男の足──しかも、死後数週間が経過──にいきなり顔をなでられたら、ああなっても仕方ないとは思うが。
「被害者は三門典枝、四十才。夫とは十五年前に死別し、南薮町の自宅で一人暮らしをしていました」
 (らち)が明かないと思ったか、宇津井は強引に事件の説明を始めた。
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