7 マーフィーの法則

文字数 3,178文字

 謎めいたことを口にした神束だったが、ここではそれ以上の説明はしようとせず、話を先に進めた。
「では、ストーカーなどの要素を除いて、現象を単純化させましょう。すると、解くべき謎は『村上のつけた鹿村乃亜という名前が、鹿村夫妻のつけた名前と一致した』点に限られます。いや、考えてみれば、鹿村夫妻の子供の姓は『鹿村』で決まりですし、名前も漢字を一字もらうと言う縛りがありましたから、候補となる名前の数はかなり少なくなります。そこで、さらに思い切って単純化して、『村上が鹿村乃亜という名前をつける』にしてしまいましょう。
 判定の基準値は特に設けず、警部さんの判断に委ねたいと思います。ここまでに切り捨てた要素、たとえばストーカーしたとか『幸せにする』と書いたとかは、この判断のところで使ってもらいましょう。

 では最初に、手持ちのデータだけで確率計算っぽいことをしてみましょう。該当する地域で鹿村姓が占める割合は、ざっと0.1%。名前の方は、漢字まで同じにすると0になるのでちょっと緩めて字が違ってもいいことにしても、約四万分の1。二つを掛けると、姓も名前が一致するのは四千万分の一になってしまいます。非常に低い数値ですね」
「それ、結構いいかげんな計算じゃないか? 名前の選び方が人口比で決まるとは思えないんだが」
 おれの指摘に、神束はうなずいて、
「そのとおりです。今の計算には『村上は、地域の人名リストからランダムに名前を選んだ』という仮定が含まれています。かなり強い仮定ですね。『村上が考えた名前は、地域の人々が考えた名前の比率と一致する』だとちょっとそれらしくなりますが、それでも仮定としては強めです。
 私も、これが正しい確率だというつもりはありいません。警察が『こんなことはありえない』と判断した際にどんなことを考えていたかを、再現してみたんですよ。警部さん、いかがですか?」
「そうですね……まあ、そんなところかもしれません」
 やや首をひねりながらも、宇津井が肯定した。
「以上が、モデルでいう『確率の計算』です。
 次の『事象の認識』の方は簡単で、村上が卒業文集に『鹿村乃亜』の名前を書いたことは、警察だけでなく村上の友人たちも知っていました。試行回数が1で生起回数も1、生起した率は百パーセント。両者を比べて、確率的にありえないと判断するのも無理はなさそうですね。では、このモデルをどのように操作すれば、解決となるのか? 一つずつ見ていきます。

 一つ目の項目は『回数の認識』ですが、これがいきなり該当します。この事件では、名前をつけた回数が完全に把握されているわけではないんです。試行回数が非常に大きければ、計算された確率値と釣り合う可能性があります」
「どういう意味だ? 村上が他にも絵を描いていて、何十個も名前をつけてたってのか?」
「違います。名前をつけたのは、べつに村上でなくてもいいんですよ」
「いや駄目だろ。さっき、『村上が名前を鹿村乃亜にする』確率を計算するって、はっきり言ったじゃないか」
「そうです。でも、まったく同じ出来事であっても、違う解釈の仕方というものがあり得ますよね。つまりこの答は、私たちが事件を認識する、その見方そのものが間違っている、という意味でもあります。モデルで言えば、『現象の定義』の作り直しです。
 ちょっとわかりにくいかな。今回の事件で言えば、この現象は『村上の作った名前が、鹿村のつけた名前と一致した』ではなく、『警察に逮捕された人間が子供の時に作った名前が、将来の被害者と一致した』と捉えることができるんです」
「だから、どういう意味だよ?」
 俺はまったく同じ質問を繰り返した。神束のいう捉え方の違いがどんな違いを生むのか、まったくわからなかったのだ。
「つまり、こういうことです。
 この事件が警部さんの目にとまったのは、容疑者が描いた絵につけられた名前が、その後に起きた事件の被害者と一致したからでしょう。でも、描いた絵に名前をつける子供なんて、たくさんいますよね? その後、その人が事件を起こしたケースも、かなりの数になるはずです。その中の一件が、たまたま、絵と被害者の名前が一致してしまった。そう捉えるんです。
 この見方では、事件に気づくのは、宇津井警部である必要はありません。日本全国、なんだったら過去及び未来の警察官も含めて、その中のだれでもいい。誰が気づいたにせよ、それが奇妙な現象と認識された段階で、解決すべき『確率的不可能現象』となり、推理の対象になるからです。でも、これは不可能でもなんでもありません。彼らの扱う膨大な事件全体が『試行回数』になるんですから、確率値は一致しているんです。
 では、なぜ警部さんは、この膨大な試行回数を認識できなかったんでしょう。答は簡単で、名前が一致しない『普通の』事例は、まったく注目されないからです。そんな当たり前のものは、何の支障もなく、通常の処理が進めらるでしょう。警部さんに報告が上がったりはしません。そのために、報告を受けたこの1回だけが、試行回数に見えてしまったんです。
 今まで出した例だと、ライン実験に対するガードナーの解釈の、二段階目の説明が近いですかね」
 おれは突然、思い当たった。
「大きな事故なんかも、そうなのかな」
「事故ですか?」
 神束は怪訝そうに首をかしげる。
「工場や工事現場で起きる大事故って、たいていは信じられないような初歩的なミスや、とんでもなく不運な偶然の連続が原因になってるだろ」
「……ああ、なるほど。うまいですね。確かにそうです」
 神束はちょっと考えてから、相づちを打った。
「工場や現場では、熟練の技術者が、良く整備されたマニュアルに従って作業をしているはずです。初歩的なミスはほとんど起きず、安全装置も整備されているでしょう。仮に、技術者がミスを犯す確率が1万分の1で、ミスが起きても99.9%は安全装置でカバーされるとしましょう。安全性は非常に高く、大事故が起きる可能性はほとんどなさそうに見えます。
 しかし、日本全国には工場や工事現場は数え切れないほどの数があり、それが毎日稼働しています。仮に、全国に工場・現場は1万カ所あり、その作業が1日3回行われるとしたら……平均して年に一回程度は、日本のどこかで大事故が発生することになってしまいます。そうして起きた事故は、ベテラン技術者の『考えられないような初歩的なミス』や、安全装置をすり抜けた『とんでもなく不幸な偶然の連続』の形を取ってしまうんです。
 個々の事例としては、確かにそのとおりでしょう。でも大きな目で見れば、それは偶然などではなく、紛れもない必然なんです」
「『いくつかの手段があり、そのうちの一つが致命的な結果を生じるとき、人は必ずその手段を選択する』」
 宇津井のつぶやきに、神束はうんうんとうなずいた。
「それ、『マーフィーの法則』ですね? 皮肉や箴言ととられがちですけど、それはまさに『法則』なんです。
 さて、以上が、回数の認識の誤りを使った答です。いかがですか、警部さん?」
 しばらく間を開けてから、宇津井は答えた。
「一つのアイデアとしては、面白いですね。
 しかし、今の話は推理と言うより、解釈に過ぎないのではないかと感じます。それも、ずいぶんと作為的な。新しい事実は何も発見していませんし、今ある証拠に新しい見方を与えるものでもありません」
「解釈が欲しい、って言ってませんでしたっけ?」
 この反撃に、伊津野はにっこり笑って続けた。
「そんなことも言いましたか。しかし、いざ解釈を突きつけられてみると、やはり物足りなく感じます。実用的な見地からも、会議や公判で使ってどのくらい説得力のある説明なのか、ちょっと不安ですね。他に答があるのなら、そちらも聞いておきたいのですが」





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