10 永倉哲学

文字数 2,160文字

「針木さんには、申し訳ないことをしたと思っています」
 荒井は深々と頭を下げ、大きな顔をハンカチでぬぐった。
 洞谷からの連絡を受けた荒井は、神妙な面持ちで(つが)の間に現れた。この呼び出しは神束が頼んだもので、話がしやすいよう、針木には自室で待機してもらっている。コンピューターが壊されたこと、荒井がその時刻に目撃されていたことを指摘すると、荒井はあっさりと自分のしたことを認めた。
「対局直前のインタビューをしようと思ったんです。ところが、部屋には誰もおらず、しばらく待っても誰も戻ってこないので……そこにあった湯飲みで、ついついやってしまいました」
「ドアはどうやって開けたんですか」
「鍵はかかっていませんでした」
「金庫の方は?」
「金庫ですか? いや、知りません。金庫がどうかしたんですか」
 神束の質問に、荒井は軽く眉をひそめた。海野が横から口をはさんだ。
「荒井さん、どうしてこんなことをしたんです。理事長がコンピューターに負けるのが、そんなに嫌だったんですか」
「いいや、違う」
「では、どうして」
「これが不公平な対局だからだよ。永倉先生があまりにお気の毒だ。だいたい、なぜコンピューターの相手が先生なんだ?」
「なぜってそれは、将棋協会というか理事長自身のご指名で──」
「そうではなく、指名した理由だよ。どうして永倉先生でなければならんのです」
 荒井は挑むような目つきで洞谷を見据えた。
「答は簡単だ。将棋協会にとって、都合がよいからです。先生は数年前に引退した『元』棋士で、たとえ負けても、まだ棋士は負けていないと言い張ることができる。負けても棋界に傷がつかない人間、それでいてネームバリューがあって話題になる人間、それだけの理由で選ばれたんだよ」
「だとしても、不公平ではないでしょう。将棋で勝つチャンスは、五分と五分です」
「いいや。先生が負けることは、事実上の決定事項になっていると思う」
「どういうことでしょうか?」神束が興味深げに訊いた。
「それが将棋界のためだからです。残念なことですが、将棋をする人の数はだんだん減っているらしい。そうだよな、海野君?」
 こう問われて、海野は小さくうなずいた。ある調査によると、囲碁や将棋の競技人口は長期にわたって減少傾向が続いているそうだ。それがどの程度実態を反映しているのか、昔を知らない海野には実感できないが、将棋雑誌の相次ぐ廃刊は、その影響なのかもしれなかった。
「雷王戦は、その対策の一つとして作られたんです。人々の興味を持ってくるための試合、いわば見世物としてね。そうでなければ、コンピューターと人間の勝負に、意味なんかないでしょう。だが、見世物であるなら、それは盛り上がらなければならない。幸か不幸か、今日は大入りになってくれたようですが、これがこの先も続くかどうかはわかりません」
 海野の頭に、ロビーでの洞谷の言葉が浮かんだ。彼はこう言いたかったのだろう。ここに集まったマスコミの数を見たでしょう。これだけ注目されたのだから、それだけで勝利だ。永倉理事長は今や棋士ではなく、経営者なのだから。
「なるほど。物語は悪役が強くないと盛り上がらない、と言いますからね。もしもここでコンピューターが負けてしまうと、次の対戦への興味が薄れてしまう。プレマッチであの手を指してみせたのも、それが理由だと考えているんですね?」
「たとえ負けるにしても、いかにも先生らしい負け方ということなのでしょう」
 神束の指摘に、荒井はうなずいた。永倉は現役時代、角頭歩や新鬼殺しなどの戦法を創案し、タイトル戦の大舞台でも使っている。強敵に奇手を繰り出し、新戦法をぶつけていくのは、いかにも永倉らしいとは言えるだろう。だが海野には、どうにも納得ができなかった。
「荒井さん、本気でそんなこと思っているんですか。理事長が、こともあろうに八百長で負けようとしていると?」
 荒井はゆっくりと首を横に振った。
「海野君。永倉哲学は知っているよな」
「もちろん。自分には消化試合でも、相手にとって重要な将棋であれば自分も全力を尽くす、ってやつでしょう」
「十年以上前になるかな。醉象戦挑戦者決定リーグの最終戦、先生の対戦相手は林九段だった。おれも取材をしていたが、話題の中心は林さんだったな。なにしろ、林さんは勝てば史上最高齢でのタイトル挑戦が決まるのに対して、永倉先生は五勝五敗。挑戦にもリーグ陥落にも関係しない、消化試合だった。ところが対局室に現れた先生を見て、おれたちは驚いたよ。羽織(はかま)姿だったんだ。神束さん、棋士といえば着物姿のイメージがあるかもしれませんが、タイトル戦以外で着ることは滅多にないんです。つまり、今日はタイトル戦並の気迫で戦う、絶対に手を抜いたりはしないという意志を、姿形で示したんですよ。その対局は永倉先生の勝利に終わり、林九段は挑戦者争いから脱落しました」
 海野はうなずいた。将棋関係者には有名な一戦である。その日以来、『永倉哲学』の名は広く語られることになったのだ。
「今日の対局は永倉先生の考えかもしれないし、将棋界のためかもしれない。それに、先生がわざと負けようとしているとは、おれも思っていないよ。だが、おれには許せなかったんだ。永倉哲学を、永倉先生ご自身が踏みにじっている、そんな気がしてな」

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