2 幽霊たちの噂

文字数 2,964文字

「私たちが選んだテーマは、『噂』です」

 演習室に響いた声は、ひどくうわずっていた。隣に座った山倉博人がニヤニヤ笑い、おどけたような目つきで各務(かがみ)恭文を見る。各務は一つ咳ばらいをしてから、後を続けた。
「歴史上有名な例としては、ラジオドラマがきっかけとなった火星人侵略の噂や、関東大震災後の、朝鮮人が井戸に毒を投げたという噂、取り付け騒ぎに発展した豊川信用金庫破綻の噂などがあります。個人的に印象に残っているのは、『サザエさん』最終回の噂です。どう言うものかというと、福引きでサザエさんが大当たりを当てて、一家でハワイ旅行へ出かけます。ところが、途中で飛行機が海に墜落してしまうんです。懸命の捜索が行われますが、どんなに探しても、一家の遺体だけが発見されません。ああ、サザエさんたちはサザエやワカメ、カツオに戻って、海に帰っていったんだ……というお話でした。これを初めて聞いたのは中学生の頃でしたが、その残酷な内容に驚くと共に、どこか自分の気持ちにフィットするものを感じていました。
 マスコミの発達やインターネットの普及により、情報はかつてないほど速く、大量に伝播するようになりました。それなのに、なぜ噂は発生し、語られ続けるのでしょう。私たちはこうした興味から、このテーマを選びました。そしてそのサンプルとして、自分たち学生の間で広まっている噂を、収集することにしました。……」

 室内にはロの字型にテーブルが並べられ、十人ほどの学生と、ゼミの指導教官である玉田教授が座っていた。玉田はレジュメをテーブルに置き、薄くなった頭髪を片手でなで回しながら、難しそうな顔で各務の発表を聞いていた。

「……一般に、噂はある程度の事実を含みます。事実を全く含まない噂は語る価値がないと見なされ、廃れてしまうからです。他方で、噂には事実以外のものも付け足されます。噂が話されるには、語り手にとっての『利益』が必要だからです。話して面白い、聞き手が喜ぶという直接的な利益の他に、噂を話すことで語り手の不安が軽減される、という効果があることが知られています。こうして、噂はある場面では不安や願望によって変形し、別の場面では語り手の好みに応じて、おもしろおかしく作り替えられます。……」

 発表が進んで噂の紹介に移った頃、ドアが開いて一人の女性が顔を出した。かなりの小柄で、顔つきも幼い印象を与える。女性はおそるおそるといった様子で室内を見回していたが、玉田を見つけるとその側まで進んで、丁寧に一礼した。教授も座ったまま礼を返す。院生の友利が立ち上がって、たてかけてあった折りたたみ椅子を広げて、女性に勧めた。濃紺のブレザーを着ているから、就職活動中の大学生かな、と各務は思っていたが、どうやら違うようだ。

「……次は、私が入っているサークルで収集した噂です。うちの大学の院生が、春休みのキャンパスを歩いていました。彼女は別の大学で教職に就くことが決まって、院生室の片付けに来たんです。その日は、ちょうど入学試験があった日で、校舎の周りは、高校生らしき若者が大勢たむろしていました。やがてベルが鳴り、彼らの姿は建物の中へ消えていきましたが、それから少し経って、一人の青年が姿を現しました。遅刻しそうになったんでしょう、急ぎ足で校舎へ入っていきましたが、その姿を見た院生は愕然としました。大学時代の恋人に、瓜二つだったからです。彼女は思わず後を追いましたが、廊下をいくつか曲がった先の袋小路で、彼は忽然と姿を消してしまいました。呆然として三方の壁を見つめながらも、彼女はなんとなく納得していました。大学時代、恋人は彼女に別れを告げ、その直後に自殺していたからです。……」

「……次は、ある大学の卒業生の話です。卒業後、彼は福祉施設に就職しました。それから数年経ったある日の晩、職場から帰ろうとしたところで、彼は大学時代の友人とばったり出くわしました。学生時代と変わらない姿に、彼は喜んで声をかけましたが、なんだか相手の体調が悪そうでした。顔色も、妙に青く見えます。大丈夫かと尋ねたところ、『ちょっと頭が痛い』との返事だったので、お大事にと声をかけて別れました。その後、彼はその友人が自殺していたことを知りました。大学を卒業する直前、拳銃で自分の頭を撃ち抜いていたのでした。……」

「……あるサークルのOBが同窓会を開きました。といっても形式張ったものではなく、その辺の居酒屋に集まって飲んで騒いだのですが、その中で、ある同級生の話が出ました。つい最近、彼は死体となって発見されていたのです。なんでも、山歩きで遭難したカップルが救助される際に、そのすぐ側に、うずくまるようにして死んでいるが見つかったんだとか……その話はひとしきり座を賑わましたが、すぐに、話題はもっと愉快なものに移っていきました。
 後日、会場で撮影した記念写真を見た幹事は、色を失いました。死んだはずの同級生が写っていたからです。出席者の背後に立ち、学生時代そのままの姿で、恨めしそうな顔をカメラに向けていました。幹事は写真のデータを削除し、出席者には『カメラの調子が悪くて、写っていなかった』と連絡を入れました。……」

 各務は発表を続けた。出だしでつまずいた以外は、特に問題なく進行している。と、発表グループの一人、鶴田月穂がレジュメの余りを取って立ち上がり、先ほどの女性に渡した。女性が受け取って頭を下げた時、とんでもなくオクターブの高い声が、彼女の口から飛び出した。お礼を言おうとして、のどの調節に失敗したのだろうか。学生たちは一斉に笑みを浮かべて彼女に注目したが、当人は素知らぬ顔でレジュメに目を落としている。

「……こうした噂は、なぜ繰り返し語られるのでしょう。幽霊の噂を並べてみると、ここには一つの共通点があることに気づきます。それは、目撃された幽霊が学生時代の姿だったという点です。入試会場の幽霊に見られるとおり、年を取らない彼らは、今も学生のままなのでしょう。その姿は、社会へ旅立とうとする若者たちには、どのように映ったでしょうか。
 どんな時代でも、学生が社会に出ることは一つの試練だったでしょう。ですが、現代の学生は、かつてないほど厳しい世界に直面しています。就職活動は一昔前とは比較にならないほど過酷なものになっており、新卒者の四割は正規雇用につくことができません。運良く正社員になれても、年功序列も終身雇用もなく、ベースアップなど遠い昔の話です。そして、やっとのことで就職できた会社は、もしかしたらブラック企業かもしれません。

 噂は、語り手の不安や願望によって形を変える、と言われています。だとすると、彼ら幽霊たちの姿も、語り手の心を反映しているはずです。それが示しているのは、『成熟への拒否』ではないでしょうか。成熟を拒否した彼らの姿は語り手たちの願望であり、それは語られることによって、語り手の不安を軽くするのでしょう。そして、最後に彼らが姿を消してしまうのは、それがかなわぬ夢であり、いずれ旅立ちの日が訪れることを、語り手自身も知っているからだと思います。
 以上で、私たちの発表を終わります」
 各務と月穂、山倉は立ち上がった。揃って一礼すると、演習室にまばらな拍手が響いた。

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