5 知らないはずはないのだけれど

文字数 2,145文字

 十二月も半ばを過ぎ、京院大では休講となる講義も多くなった。玉田ゼミも年内の活動は終了し、その一方、就職活動は徐々に本格化していった。この日、各務は会社説明会を一つこなした後で、いつものように深閑堂へ向かった。ゼミや講義がなくなった今、この喫茶店は学生たちが集まる情報交換の場となっていた。
 いつものボックス席には、既に山倉と月穂が座っていた。しばらく説明会の印象などを話しているところへ、四年生の中富が現れた。
「あ、先輩。お久しぶりです」
 各務が声をかけると、中富は軽く手を上げて、各務たちと同じボックスに腰を下ろした。彼は玉田ゼミの四年ではただ一人、就職先が決まっていない。この時期になっても就活が続いていて、たまにゼミで見かける姿は怯えたように縮こまっていて、傍目(はため)にも痛々しいものがあった。ところが、この日の中富は落ち着いた声で注文を入れると、太り気味の体をゆったりとソファーに預けた。心なしか表情も晴れ晴れとしている。山倉がストレートな質問を投げかけた。
「もしかして、決まったんですか」
「ああ。先生にも心配をかけたけど、ようやく内定をもらえたよ」
 ボックス席に歓声が上がった。
「やりましたね! おめでとうございます」
「もー、心配しましたよ」
「ありがとう。いやあ、今度ばかりは参った。でも、なんとか年内に片付いたし、いい経験をしたと考えることにするか」
「それで、どこに決まったんです?」
「Wフード」
 中富以外全員の表情が凍った。W社は、いわゆるブラック企業として有名な会社だったからだ。そんな雰囲気に気づいてか、中富は手を左右に振って、にっこりと微笑んだ。
「おまえたちの言いたいことはわかるけど、おれはあの会社、悪くないと思っている。いろいろ誤解されているところもあるんだ。二十四時間死ぬまで働け、ってのは掛け声みたいなもので、もちろん休日や有給はある。組合がないのもよく批判されるけど、あれはいまどき珍しい家族的経営を目指していて、従業員もそれを理解しているからだ。担当してくれた方も、とってもいい人でさあ。親身におれの話を聞いてくれて、うちには君のような人が必要だ、是非来て欲しいって言ってくれたよ」
 ブラック企業が、採用もブラックであるとは限らない。いや、離職率が高い分、採用では過剰なまでにフレンドリーに振る舞うことが多いと言われる。ネットなどの情報で、各務もこの程度のことは聞いていたし、中富も知らないはずはなかった。長引いた就職活動に疲れ果てて、冷静な判断ができなくなっているのだろうか。月穂が遠慮がちに訊いた。
「大学のキャリアセンターには相談したんですか」
「もちろん報告したよ。さんざんお世話になったからなあ。他を探さないのかって聞かれたけど、いいかげん疲れたのでこれで決めたいって答えたら、頑張ってください、って言ってくれた」
「そうですか」
 月穂は曖昧な笑みを返した。確かに、頑張らなければならない。もしも中途で退職するようなことになれば、再就職がさらに厳しくなるのは、目に見えているのだから。
 場の空気を変えようとしたのか、山倉が茶化すようなことを言った。
「これで先輩も社会人ですか。いよいよ、オジサンですねえ」
「あのねえ。先輩は大学に現役合格だよ。歳ならハクトと一緒でしょ」
「わかってないな。学生と社会人じゃあ、若さのレベルが違うんだよ。就職してるだけでワンランク年寄りなの。逆に、おまえが現役でおれが一浪でも、学生の間は同じ若さなんだ」
「あ、そっちが言いたかったわけね」
 そうかもしれない、と各務は思った。若さとは自由であること。混沌としたもの。こわいもの知らずで、失敗が許される存在。様々な捉え方はあるが、そうしたもののいくつかは、就職と共に失われるような気がする。社会人になるとはそれらを捨てるということで、『社会人の責任』と言われるものは、その覚悟なのかもしれない。
「じゃあ、再来年の三月三十一日を一日でも過ぎれば、私もオバサンなの?」
「そうそう。数え年みたいなもんだ。基準は元旦じゃなくて、四月一日だけど」
 ここで中富が、したり顔で口を出してきた。
「それは違うな」
「あ、違いますかね?」
「うん。だってオレ、三月の頭から研修に来いって言われてるもん」

 翌日、各務は同じ京都市内にあって、京都学院大学からほど近い洛北大学のキャンパスにいた。玉田教授から「洛北大の向川という助教の話を聞いてくるように」と指示されたためだ。ゼミでの発表内容に関連したことらしいのだが、月穂はあいにく説明会が入っており、山倉もバイトが抜けられないとの理由で欠席。各務一人で行くことになった。約束時間ちょうどに研究室のドアをノックすると、そこには思いがけない人物が待っていた。
「各務君、お久しぶり。またお会いしましたね」
 書物とコピーの束であふれかえった研究室に、脳天から出たような高い声が響いた。
「あれ? 神束さん、どうしたんです」
「玉田教授にお願いして、ご紹介いただいたんです。教授は向川先生の恩師にあたる方なんですよ。先生は大阪大学から京院大の大学院へ進まれたんですが、その間ずっと、玉田教授がご指導されていたんです」
 神束は応接セットのソファーに腰掛けたまま、軽く会釈した。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み