6 懸命に生きていないことの証でも

文字数 3,327文字

 神束の正面に座っていたのは、三十代後半の女性だった。細身のデニムに黒のロングTシャツというシンプルな服装で、長い髪を無造作に後で束ねている。改めて挨拶をした各務に、向川は椅子に掛けるよう促した。
「二人とも同じ用件だそうだね。私が見た幽霊のことを聞きたいんだって? でも、どうしてそんなことを調べているの」
 向川は早速用件に入ってきた。とっさに答えることができなかった各務に代わり、神束が返答した。
「各務君は噂をテーマにした研究をしているのですが、京院大の学生の間に、『受験会場に現れた幽霊の噂』が広まっているそうです。調べたところ、先生のご経験がその原型らしいことがわかりました。そこで、元となった出来事がどのような内容だったのか直接に伺いたいと思いまして、お邪魔させていただいたんです」
「ふうん。噂が発生した環境、およびそれが変形していく過程を調べなさい、ってことなのかな」
 この言葉で、各務もようやく、玉田教授の意図が理解できた気がした。ただし、そう言った本人は、複雑そうな表情を浮かべている。しばらく逡巡する様子だったが、小さく首を振ると、
「……まあ、いいか。別に秘密にしているわけでもないし。その噂というのを聞かせてくれる?」
 各務はゼミで発表した噂を、改めて話し始めた。向川は真剣な面持ちで、幽霊譚に耳を傾けている。外見はまったく違うが、小気味のいい口調やきびきびした動作は、どことなく月穂に似てるな、と各務は思った。話が終わると、向川は軽くうなずいて、
「確かに、私の体験が元になっているようだね。どうして京院大で広まっているのかわからないけど。福祉施設に勤めている友人がいて、彼女は大学のサークルともつきあいがあるから、そのあたりが発生源だろうか」
「では、これは実際にあったことなんですね。いつ頃の話ですか?」
「助教の話が決まった時だから、もう二年前になるか。知り合いが手伝ってくれると言うので、院生室の整理をしに行ったんだ。だけど、そいつは約束の時間に来なくてね。結局、私一人で片付けを終わらせた。校舎を出たら、近くにあったベンチの周りが、日だまりになっているのが見えた。三月も終わりの頃で、暖かそうな光がとても気持ちよさそうだったし、少し疲れてもいたから、そこに腰掛けて一休みしたんだ。そうしたら、校舎の周りに人だかりがあるのに気がついて、後から遅れて受験生が入ってきて……後はほぼ、君の話したとおりだ。もちろん、いくつか違いはある。たとえば、秀明が消えたのは廊下の突き当たりではなかった」
「秀明さんというのが、消えた人なんですね」神束が確認する。
「そう。寺本秀明。阪大の学生だった頃の友人で、同じ学年の経営学部の学生だった。彼が消えたのは、受験会場になっていた教室の前だったよ」
 それはそうか、と各務は思った。受験生なら、受験会場へ向かうのが当たり前だ。
「その学生は、教室に入っただけではないんですか」
「教室の前に、試験監督の手伝いをする学生がいたんだ。それが玉田ゼミのゼミ生でね、そいつに話を聞いた。バカだけどかわいいやつで、その時も『すごく好みの子がいた。合格したら、絶対に玉田ゼミに来てほしい』なんて、詰まらないことを言っていたな」
 向川の声に、昔を懐かしむような調子が混じった。神束が話を戻す。
「その学生が、ここには誰も来ていないと言ったんですか」
「そのとおり。正確には、私が『寺本君がここに来なかったか』と尋ねると、『そんな人は来ていません』という答だった。遅刻した学生が来たら、受験票を確認してから入室させるからね。寺本という名前の受験生が来たら、それとわかったはずだ」
 神束が何か言いたそうにしたが、向川は微笑を浮かべて、すぐに付け加えた。
「君たちの考えていることはわかるよ。そこには、秀明に似た受験生がいただけだった。彼が教室に入ったから秀明は『消えて』しまい、秀明が来なかったかと聞かれたから、『来ていない』と答えた、と言うんだろう? 
 私も、真相はそんなところだと思う。だが、あまりにも似ていたんだよ。顔はもちろん、体格や走り方がそっくりだった。かなり癖のある走りをする人でね。胸を張りすぎて、重心を思い切り後ろに残してしまうんだ。初めて見たときは大笑いしてしまったよ。まあ、大学生になれば走ることも滅多にないから、見る機会は少なかったが……だからあの時は、秀明が突然現れて、消えたとしか思えなかった。今言った解釈も、しばらくたってから思いついたものだ」
「それは確かなんでしょうか。記憶は改変される、ともいいますが」
「この場合、それはない。あなたから連絡をもらった後、日記を確認したからね。私はパソコンで日記をつけているから、検索は簡単だった。ただ、認識を歪めやすい心理状態にはあったかもしれないな。秀明の遺体が発見されたのは、その前の年だったから」
「ご遺体ですか。すると、寺本さんが自殺されたというのも本当なんですか?」
「ああ。ただし、原因は失恋ではないだろう。その点も、噂とは違うところだ。秀明は就活がうまくいかなくてね。頭がよくて成績も優秀な人だったけれど、端から見ていると、就活に本気になっていないようにも見えた。そのことで喧嘩をしたこともあったな。まあ、私は院に進んだから、就活について、あまり強いことは言えなかったんだが」
「プライベートなことを伺って申し訳ありませんが、寺本さんの恋人というのは……」
 神束は言いづらそうに体をもじもじさせたが、向川はあっさりと首を縦に動かした。
「私だよ。まあそんなこともあって、どちらかというと秀明の方から疎遠になっていった。最後は私が院に進み、秀明が卒業して、なし崩し的に関係が終わった。以来音信不通だ。だから、自殺の主な原因は失恋ではなく、就職がうまくいかなかったことだと思うね」
「寺本さんが大学を卒業したのは何年ですか」
「ええと……2000年の3月だね」
 各務にはごく些細な情報のように思えたが、これを聞いた神束は妙な顔をした。そして、噂とはかけ離れた質問を口にした。
片門(かたかべ)浩樹、あるいは府川知昌という名前に心当たりはありませんか」
 なぜこんな事を聞くのかと各務はいぶかしんだが、向川の反応もまた、意外なものだった。
「かたかべ……片方(かたほう)の片に門、って書くのかい? どこかで聞いた覚えがある。確か、秀明が面倒を見ていた学生じゃなかったかな」
「それは確かですか」
「たぶん、そうだとおもう。私は『社会福祉研究会』という児童福祉のサークルに入っていて、秀明とはそこで知り合ったんだ。私は途中から幽霊部員になってしまったけど、彼はずいぶん熱心に活動していたよ。自分の境遇もあったんだろうな」
 へえ、この人も児童福祉のサークルにいたんだ、と各務は思ったが、神束は違う点に興味を抱いたようだった。
「境遇、ですか?」
「小さい頃にご両親が自殺されて、施設で育てられたんだそうだ。あまり詳しくは聞かなかったけどね。そのサークルで、秀明は高校生の学習指導をしていた。その子の名字が、片門じゃなかったかな。卒業の直前までそんなことをしていたので、自分の就活がうまく行っていないのになぜそんなことをしてるんだって、喧嘩になったからね。よく覚えている」
「そうですか……寺本さんの写真があれば、拝見したいのですが」
「それが無いんだ。秀明は写真が嫌いというか、写真を撮るという行為自体を批判していてね。『あんなものを残さなければならない人は、その日一日を一生懸命に生きていないんだ』とか言って……理屈を並べるのが好きな人だったな。就活の件で言い争いになった時も、『新卒優先なんて日本独特の制度だ。こんな理不尽な、社会が作った期限に縛られる必要は無い』なんて屁理屈を言っていたっけ。
 私も写真は好きな方ではなかったが、今になってみれば、少しは撮っておくんだったよ。日々を懸命に生きていないことの、(あかし)であったとしても」
 しばらく沈黙が続いた。神束と向川は、それぞれの考えに沈んでいるらしい。各務は、思いついたことを口を出してみた。
「あの……もしかしたら、寺本って言う人は生きてるんじゃないでしょうか」

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