12 自らの不幸を前提とした犯罪

文字数 3,878文字

 おれも宇津井も、何も言わなかった。あっさりしすぎていて、これで終わりとは思わなかったのだ。しばらく間が開き、やがてしびれを切らしたように、宇津井が声を上げた。
「待ってくださいよ。少々わかりにくいな」
 宇津井は軽く眉をひそめて考えていたが、
「いくつか疑問点があります。まず、二台目の車はどうやって手に入れたんです。亜佐子の偽者は、いったいどこから出てきたんですか」
「モデルが示してくれる答はここまでです。これから先は、蓋然性を含む推論になってしまうのですが……まあ、いいでしょう。今の疑問は、そのままお返しできます。偽者が乗ってきた車を、亜佐子が使ったんでしょう」
「ですが、事故直後に知り合いや共犯者が近くを通りかかることはなかったはずです。たしか、そういう前提でしたね。それから、ご自分が書いた注意事項をお忘れですよ。『二十二時五分以降、南藪町への発車不可』です。偽者が乗ってきた車を使って亜佐子が事故現場に戻ったとしたら、その車は南藪町へ帰らなねばなりません。消防署員に見られずに、どうやって山を下りたんです」
「その質問も、それがそのまま答になります。知り合いや共犯者はいなかった。すなわち、偽者は亜佐子の知り合いや共犯者ではなかったのです。そして車は南藪町へ戻っておらず、かつ現場までの道では発見されていない。すなわち、車は現場付近で処分されたのでしょう」
「では、その偽者はどうやって帰ったんです?」
「知り合いでも共犯者でもない人の車が使われ、それが処分されているんだとしたら、その問いにも似たような答が可能です──すなわち、偽者もまた、現場付近で処分された(・・・・・・・・・・・)
 宇津井は大きく目を見開いた。おれの脳裏に、ニュースの映像が浮かんでくる。町中をあふれる濁流、水中に放置された自動車……いや、違う。もっと大事なニュースが、他にもあったはずだ。おれが呻吟(しんぎん)している間に、宇津井が「そうか」と声を上げた。そしてスマホを取り出して後ろを向き、どこかに電話をかけ始めた。
「わかりました」
 電話を終えた宇津井が振り返った。彼には珍しく、苦い笑顔を浮かべていた。
「松沢知子、三十八才。豪雨の日に、車で出かけたまま行方不明になっており、現在も発見されていません。この人ですね?」
「他に該当者がいなければ、その人かもしれませんね。証拠はありませんけど」
 神束がうなずいた。おれは記憶を探るのを諦め、訊いてみることにした。
「どういうことだ?」
「どうもこうも、神束さんが説明されたとおりですよ。少し肉付けしてお話ししましょうか」
 宇津井は考えをまとめるように、いったん口を閉ざしてから、
「事件当日、安沢亜佐子は放置された車を発見、それを使ったアリバイ工作を思いつきます。八時二十分に典枝に電話をかけ、自宅にいることを確かめた亜佐子は、盗んだ車で旧道を走りました。ところがその途中、展望所近くで事故を起こしてしまいます。この時は命に別状なかったものの、頭を強打してしまいました。ここまでは、似たような推理がありましたね。
 しばらくして、南藪町方面から車が来ました。しかし、乗っていたのは尾藤ではありません。彼よりも先に、事故を発見した人物がいたのです」
「尾藤より先に?」
「ええ。ここでは仮に、Aさんと呼ぶことにしましょう。Aは乗用車に駆け寄り、運転席から亜佐子を助け出しました。軽トラックの運転手も助けようとしたかもしれませんが、こちらは素人には手の付けられない状態だったでしょう。亜佐子はその横で、自分が引き起こした惨状を呆然と眺めていました。やがてAは救出を諦め、警察に連絡を入れようとします。しかし突然、亜佐子がAに襲いかかって、昏倒させてしまったんです。
 念のため言っておきますが、このへんは見てきたような嘘が入っていますからね」
「それはいいけど、亜佐子はどうしてそんなことをしたんだよ」
「あなたも言っていたじゃありませんか。事故を利用して、殺人事件のアリバイを作るためですよ。亜佐子はAを事故車の運転席に座らせ、Aの車を奪って南藪町に向かいます。典枝宅に着いた亜佐子は予定どおり彼女を殺害し、軽く部屋の中を荒らしてから、急いで展望所へ引き返しました。電話が八時二十分、それから出発したとして事故は八時四十分ころ、典子殺害は九時三十分。時間的には、十分間に合います。ちょうどその頃、今度は尾藤が事故を発見しました」
「その時、運転席にいたAを、亜佐子と見間違えたのか。しかし、そんなアリバイ工作、とっさに考えられるものかね」
「Aを事故車に残したのはアリバイ工作というよりも、一緒に連れていくのは危険だと判断したのでしょう。昨日も話したとおり、目撃者を期待できる状況ではなかったんですから。
 一方の亜佐子は、とんぼ返りで事故現場に戻りました。展望台に戻ったのが九時五十分、ここでもう一仕事します。AをAの車に戻し、彼女ごと川に落としたんです。Aを生かしておくことはできませんし、そうなれば車も邪魔ですからね。おそらく、展望所から落としたんでしょう。適当な方向に車を向け、サイドブレーキを引かずにエンジンをかけておけば、勝手に進んでくれます。あとは落ちるのを見ているだけ。落下の痕跡は残ったかもしれませんが、それも増水で消えてしまいました。
 そして亜佐子は事故車に戻り、気を失ったふりをしながら、誰かが来てくれるのを待ったのです」
 話し終えた宇津井は、神束にちらりと視線を投げる。神束は、黙ってうなずいた。
「さっき名前の出た松沢って人が、そのAなのか?」
「豪雨の被害者とされている人のうち、車で出たまま行方不明者になった人、できれば四十代くらいの女性で探したところ、一人だけヒットしました」
「そうか。そんなニュースもあったっけ……どうにも、いやな話だな。まあ、今のところは何の証拠もないんだろうけど」
「今の考えが正しければ、川底に車が沈んでいるはずです。見つかれば裏付けになりますね。かなり流されているもしれませんから、範囲を広めに、川をさらってみましょう」
「最後に付け加えておきますが」
 まるでゼミの指導教官のように、神束がまとめの言葉を口にした。
「今の話は、最初に並べた仮定から導いた仮説に、警部さんの基準で評価を与え、最も評価が高かった説に解釈を加えたものです。仮定が誤っているかもしれませんし、評価や解釈が不適切である可能性もあります。捜査の進展によって、否定的な証拠が出てくることもあるでしょう。しかし、新たな情報が手に入ったなら、それらを加えて分析と評価をやり直せばいいんです。推理とは、そもそもそういうものなんですから。
 私からは以上です。何か質問はあります?」

 二日後、宇津井から連絡が入った。川底から自動車が発見され、その中で三十代後半の女性が死んでいたという。死因は溺死で、頭部に打撲の痕があったが、それが殴られたものか、それとも川に転落した際に付いたものかははっきりしないらしい。おれは気になっていたことを訊いてみた。
「亜佐子はどうして、典枝を殺そうとしたんだろう」
「恐喝という犯罪は、自らの不幸を前提にしているところがありますからね」
 返ってきたのは、微妙に見当外れの言葉だった。
「なんだって?」
「だってそうでしょう。もしも自分が相手より幸せになったら、逆に相手から脅されかねないんですよ。恐喝したこと、それ自体をネタにされて。相手が人を殺したとか、よほど大きな材料だったとしても、その可能性は消えません。自分が幸せになり、相手との格差が大きくなるほど、自爆覚悟の逆襲をされる危険が増すんです」
「何の話をしてるんだ?」
「ですから、動機の話ですよ。安沢亜佐子宅を捜索して、彼女のパソコンを調べてみました。小説の新人賞に応募しているという話は本当だったらしく、自作と思われる原稿が多数保存されていましたね。メーラーには、賞を主催する出版社からのメールが、何十本も残っていました。一次選考結果のお知らせ、二次選考結果のお知らせ……しかし、最終選考結果のメールはありませんでした。どうやら最終に残ったというのは、悲しい嘘だったらしい。詳しく調べたわけでもなかったので、そう思っていました。ですが、最終選考というのは、ちょっと扱いが違うみたいですね。賞にもよるんでしょうが、メールではなく、編集部から電話がかかってきて、直接に結果を伝えられるらしいんです」
「え、てことは──」
「昨日、亜佐子の携帯に着信がありました。選考結果の連絡ではなく、打ち合わせに来なかったがどうしたのか、という内容のね。結果はもう伝えられていたんです。新人賞を獲って、念願の作家デビュー……実際には、売れるかどうかもわからない新人が一人、生まれるだけかもしれません。ですが彼女にしてみれば、栄光への輝かしい道に見えたんでしょう。だからこそ、デビュー前にやましい過去を、消しておきたかったんですよ」



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 最終選考の通知は、賞によっても違うと思います。私は、電話が来た! と思ったら舞い上がってしまい、そこで落選を伝えられたため、そうですか残念ですしか言えなかったような気がします。電話を切った後で、「どんな点が評価され、どんな点がダメだったか」くらいは聞いておけば良かった……と後悔しました。賞に応募して、最終に残っている方は、落ちた時の対応も考えておいた方がいいと思いますよ。基本、一人を除いた全員に、落選の通知が来るんですから。

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