7 もう三つほど付け足して

文字数 2,941文字

「仮定は以上です……といいたいところですが、もう三つほど付け足したいと思います」
「まだあるのかよ」
 俺が思わずぼやきを入れると、神束も申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「すみません、前置きが長くなって……といっても、三つのうち一つは議論を進める上での大前提で、残り二つも推理のためというより、説明の都合上のものなんです。
 最初の大前提というのは、『警部の話に、意図的な嘘や誤りは含まれていない』という仮定です。この事件の情報源は警部さんのお話だけなんですから、これを疑ってしまうと議論が進みません。ですから、とりあえずは正しいと仮定しましょう。ただし、推理の結果として、話に矛盾があることがわかった場合は、推理の方を尊重することにします」
 ああ、それはそうだ。基盤となる情報から間違っていたら、どんなことを考えても、その土台から崩れてしまうからな。宇津井も「できる限り正確にお話ししたつもりです」と請け合って、先を促した。

「次に、『事件の登場人物とその役割は固定とする』を仮定します。事件に犯人と被害者が登場しているなら、その犯人が真犯人であり、被害者が真の被害者です。そもそも、動機モデルは犯人を特定するための仕組みではありませんから、真犯人が誰であるかは別の枠組みで検討すべきでしょう。この仮定は、実質的には探索の手順に過ぎません。なぜなら、真犯人や真の被害者を別の人にしたいのなら、登場人物の役割を組み直したモデルを別に作って、改めて考えればいいからです。この仮定は、モデルの各項目に働くトリックによって、役割が変わることは禁止しません。それは、次の探索を先取りしているだけですから。

 最後は、『とりあえず、情報は完全なものとして扱う』です。捜査で明らかになっている情報は完全なものではなく、後から追加や訂正が出てくる可能性があります。これは当然のことですよね。それでも、その手持ちの情報で考えなければならないんです。情報がいつ全部揃うかなんてわからないし、そもそもそれで全部かどうかさえ、誰にもわからないんですから。新しい情報が入ったら、そこでモデルを組み替えて新たな推理をすればいいんですから、これもまた、実質的には探索の手順です。この仮定も、各種トリックが情報の不完全性を利用したり、不完全性を検討することは禁止しません。
 本件で使う仮定は以上です。これらを使って、モデルの各項目が本件に該当するかどうか、順番にあたっていきましょう」
 ここまでしゃべって、神束はようやくホワイトボードに体を向け、『犯人がおかれた状況』と『犯人の行動』の文字をマーカーの先で指した。

「最初に、明らかに該当しない項目を消して、検討すべき対象を絞っておきます。
 仮定により、両替は最終目的ではなく、また非合理的な判断でなされたものでないことは確定しています。それは、なんらかの別の目的を達成するための手段だったのです。よって、行動案の選択では客観的合理性が該当し、他の項目は削除できます。同じく仮定によって、両替の際には行動の失敗・修正・副作用が起きなかったことも決まっていますので、これらも消すことができます。このあたりはなかなか面白い実例もあるので、紹介したかったんですけどね……ただ、非合理性や失敗、副作用に関しては、『別の行動の失敗や副作用などの結果、両替という行動につながった』可能性はあります。これらはカッコ付きで残しておくことにしましょう。

 もう一つ、情報の不完全性もまた、仮定により否定されています。ただ、これについては別途検討が許されていますので、ここでやっておきましょう。『不完全な情報』は、情報が誤っている『偽の情報』と、そもそも情報が欠けている『情報の欠落』の二つに分類され、それぞれ、『事件は探偵を引っかけるための芝居だった』、『三角関係による殺意と思われたが、実は四番目の”角”があり、その人が犯人』といった実例があります。ただし、仮定により『偽の情報』は否定されていますし、『情報の欠落』はあるかもしれませんが、それはすでに承知していることです。何が欠落しているかを具体的に示さない限り、新しい視点がもたらされることはないでしょう。当然、納得できる動機を提示することもないので、この項目も削除することにします」
 神束はまたもや図を書き直して、以下のように変えた。



「まず、犯人がおかれた状況』と『犯人の行動』から始めましょうか。この二つと『行動の結果』は、犯人の内面ではなく外的な世界で観察できるもので、いわば動機を考える上での前提とも言うべき情報となります。いくら動機を正しく分類しても、ここにトリックが働いて情報が歪んでしまえば、分類項目へのあてはめも間違ってしまう、と言うわけです。具体的には、『犯人と被害者は誰か』、『犯人はどんな行動をしたか』、『その行動によりどんな利益が生じたか』、『犯人・被害者間の感情』といった情報が含まれますが、利益や感情については『行動の選択』で細かく見ますので、ここでは『犯人と被害者』と『犯人の行動』の二つを取り上げます。

 まず『犯人と被害者』に働くトリックとしては、『犯人の分割』と『犯人と被害者の逆転』が代表的です。仮定により、犯人・被害者の役割は固定ですので、ここに誤りがあるとすれば、犯人の行動とされていたものの一部が、実は犯人のものではなかった場合、となります。また、例外的に役割の変更を認めた場合に、最もありがちなのは最小限度の変更、つまり犯人と被害者の入れ替えです。両者は同じ時刻に同じ場所にいて何らかの接触を持つのが普通であり、比較的入れ替わりが容易だからです。それぞれ、『犯人が死体を店に放置したところ、営業への影響を恐れた店長が死体を遺棄した』、『犯人を襲った被害者が返り討ちにあった』、といった実例があります。
 『どんな行動をしたか』に働くトリックは、一部の行動が犯人のものではない、あるいはまだ明らかになっていない犯人の行動がある、のいずれかです。ただ、前者は『犯人の分割』そのものですので、ここでは後者のみを考えます」
 神束は、何か確認するように手元のノートに視線を落としてから、言葉を続けた。
「これらのトリックで、『両替男』を説明できるでしょうか? 残念ながら、そうはいかないようです。仮定により、警部さんの話は基本的に正確なので『犯人の分割』は否定できますし、そもそも被害者が想定されていないので、『犯人と被害者の逆転』もありません。また、『明らかになっていない犯人の行動』についても、情報の完全性の仮定があるため、該当しないことになります」
「こんなトリックが代表的です、ってだけではなあ。他にも、知られていないトリックがあるかもしれないんじゃないか?」
 俺の反論に、神束はややうんざりしたような表情を浮かべた。
「さっきも説明したじゃないですか。動機の解明とは犯人の心を描くことではなく、観察者を納得させることです。そして、答は今までの実例にあるはずなので、その中からあてはまりそうなものを拾い出すのが、解明への手順なんです。そこで出た答で納得してくれるのなら、それ以上のものは必要ないんですよ」

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