3 真実よりも求めているもの

文字数 3,078文字

「現時点での警察の考えはこんなところでしょう」
 宇津井は『警察の』を付けて答えてきた。
「なんらかの理由で、村上は自分の書いた絵を偶像化し、理想の女性像と考えるようになった。理由づけは心理学の先生にお任せします。そのため、現実の女性とはうまく関係を築くことができなくなり、彼の心にはゆがんだ感情が蓄積していった。そんな時、村上は絵と同じ名前を持つ女の子が実在することを知った。フリーター生活への不満や将来への不安もあって、彼は感情のはけ口をその子に求めてしまった」
 心理学的な理屈づけはよくわからないが、いかにもありそうな筋書きである。
「まあ、そんなとこだよなあ。ストーカーするようなやつなんだから」
「とはいえ、ひっかかるところもあります。
 フリーターと言ってもこのご時世ですからね。村上が特におかしな人間というわけではありません。友人たちは口を揃えて、根暗だが真面目で人のいい青年と証言しています。小学校の時の担任も、可愛い感じの、少し人見知りだが素直な性格の子供で、問題児ではなかったと言っていました。
 彼の部屋からは怪しげな物やいかがわしい物、異常性癖を示す物は発見されていません。アダルトもののビデオや雑誌も一切なく、鹿村乃亜のスナップ写真──これは通学路で隠し撮りしたもののようです──が、数枚あっただけです。若いのにそうしたものがないのが異常と言えないこともありませんが、これはダブル・スタンダードでしょうね。
 女性との関係を築けなかったというのも事実と異なります。浮いた話こそ聞きませんでしたが、女性の友人は多かったようです。彼の家はいわゆる女系家族で、親戚は女性ばかりなのですが、彼女達ともごく普通に接していました。まあこれも、友人関係と女性関係は別、という見方もあるでしょう」
「そんな普通の人間がストーカーになってしまう、ってことじゃないのか? 何がひっかかるんだ」
「さて、何なのでしょうね」
 宇津井は大げさに肩をすくめて見せた。
「正直なところ、私のところはあまりかかわっていないんですよ。他から照会を受けて動いているようなものです。もしかしたら真実よりも、解釈を求めているのかもしれません」
「解釈ねえ。そうは言ってもなあ……村上はどう言っているんだ」
「覚えていないの一言で、あとは完全に黙秘です。黙っていて利益になるような状況ではないのですがね」
「その女の子と同姓同名の、別人がいたんじゃないか。小学校の時に同じ名前の子がいて、その子に手ひどくふられた。それがトラウマになって──」
「当時の友人に確認しましたが、こんな名前の子は知らないとの答でした。村上の両親も知りませんでしたし、学校の名簿、住民登録にも該当する名前はありません。少なくとも彼の周りには、この名前の人物は存在していなかったようです」
「ネットの向こう側かもしれない」
「彼の両親は、子供にその手のものは有害だという考えだったらしく、小学生の村上にスマホを持たせなかったそうです。当時の友人も、そのころの村上はネットを使っていなかったと述べています」
「じゃあマンガか何かから、主人公の名前を借りてきたんじゃないの。乃亜の両親も同じマンガが好きで、それが偶然一致してしまったんだ」
「それも違います。この言葉は村上の友人たちの間で話題になり、彼らは鹿村乃亜とは誰なのかを探しました。そして現実の人間では見つけられなかったため、マンガやアニメ、小説などの登場人物も調べたのだそうです。が、それでも見つかりませんでした。もちろんすべての本を調べてはいないでしょうが、少なくとも当時の小学生が、普通に読むものの中には無かったんです」
「マンガでなくても、村上と乃亜の両親に共通の趣味があればいい。プロレスのファンとか、同じ宗教団体に入っていたとか、何でもいいだろう」
「何でもいいと言われると否定しづらいのですが、今のところそんな報告はありません。少なくとも村上の部屋には、プロレスのポスターも宗教団体のパンフレットも置かれていませんでした。具体的に何かありますか?」
 そう言われても、プロレス団体とノアの方舟くらいしか思いつかない。さすがに、ミニバンの名前ではないだろう。
「姓名判断はどうだ。姓から最もいい名前を選ぼうとすると、選択肢は狭くなるだろ。何かの理由で鹿村という姓を決めてしまったら、名前を乃亜にする確率は意外に高いかもしれない」
「夢子によると、乃亜という名前は母方の祖父母から一文字もらって、そこから考えたのだそうです。その案も駄目ですね」
「一文字ずつもらって二文字の名前を作るって、制限が厳しすぎないか?」
「失礼。子供が男なら祖父から一文字、女なら祖母から一文字という意味です。祖父母にも相談した上で、名前を決めたとのことでした。『亜矢子』から『亜』をもらったようですね」
 ああ、そういう意味か。
 では、村上が自分で書いたマンガの主人公の名前、というのはどうだろう。いや、これでは「マンガ」を間にはさんだだけか。結局、名前を考えたのは村上なんだから、状況はまったく変わらない。それとも「鹿村乃亜」は何かの暗号で、他の意味が隠れているのだろうか。実はアナグラムで、並べ替えると好きな子の名前になるとか……ああ、これもダメだ。こんどはマンガの代わりに「暗号」をはさんだだけで、謎は全然解けてはいない。
 考えてみれば、同じ名前をつけることになった仕組みがわかったとしても、あまり意味はないかもしれない。十二年後、その子をつけ回す理由にはならないのだから。それに、『絶対に幸せにする』という言葉も妙だ。卒業文集に載せる文章としては、かなり変わっているだろう。これがマンガの登場人物なら、マンガのセリフをひねったという線もあるが、そうではないのだし……
「鹿村乃亜という名前は、このあとは出てこないのかな」
「友人に訊いてみましたが、無いようですね。これ以前にも以後にも無し、この時きりの登場のようです」
「やっぱり、ただの偶然なのかな。そんな妄想を持った男が、同じ名前の子と出会ってしまって、ストーカーが始まった……なんだか、気味が悪いけど」
「出会ったのは偶然でしょうね。村上は配達関係のアルバイトをしていましたから、仕事で乃亜の名前を知る機会はあったはずです」
 宇津井は神束に視線を向けた。
「神束さんは、どう思われますか」
「どうって、何がです?」
「ですから、このようなことがありえるでしょうか」
「『このようなこと』って、なに?」
 神束はおうむ返しの返答を重ねた。挑発するような物言いに、宇津井は慎重な言い回しになる。
「ある男がある名前の人物を幸せにするという空想を描いた。彼はその空想をずっと抱き続け、約十二年後に偶然、その名前の子と出会う。そして彼はストーカー行為に走った。こんな偶然がありえるでしょうか」
「そこには複数の事象が混ざってますね。警部さんが気にしているのは名前が一致することなのか、空想を持ちつづけることなのか、女の子と出会うことなのか、ストーカーをしてしまうことなのか」
 神束は、掌に比べて大きすぎるカップを両手で持つと、やや渋すぎる緑茶をずずとすすった。
「これ、確率の話ですよね。確率かぁ。空間、時間と来たら次は確率ですよねえ、しかたがありません。でも、確率って、面倒なんですよ。理解するのも難しいし、わかったつもりでいても、間違ってることも多い。直感なんか本当にあてにならない分野なんです。
 このテーマについて一言で言うなら、こうなります。確率現象は──奇々怪々」




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