その五十六 区別がつかない
文字数 5,328文字
「それは科学で証明できているはずだよね?」
失礼を承知で、俺は言った。今日の話相手である山繭 桜姫 が持って来た話題が、
「金縛りについてなんですが…」
というものだったためだ。
ここで解説を加えておく。
金縛りとは、霊的な現象で幽霊が体を押さえつけるから動かせなくなる現象である……というのは真っ赤な嘘だ。その正体は生理現象。
「医学に詳しくはないけどさ、調べればすぐにわかるよ。確か、頭は起きているけど体は寝ている状態…だっけか? だから腕も足も動かないんだ。そして実は頭もちゃんと起きているわけじゃないから、幻覚を見るらしい。そしていきなり起きるわけではなく、ジーンジーンや、ザザァ、ザワザワ…って耳鳴りに近い音がする」
インターネットの扱いに弱い俺でも調べられたんだから、桜姫でもわかるはずである。
しかし、
「私も最初はそう思ったんですが、でも……」
恥ずかしがりながらスマートフォンに保存されている写真を数枚見せてくれた。
「……! これは…!」
被写体は彼女の腕と足だ。何かに押さえつけられたかのように、手の痕がハッキリと残っている。
「先に言っておきますが、私の家は母と妹しかいません。父は単身赴任中ですので…」
その二人が力一杯押さえたんじゃないか? そう最初は俺も思ったが、どう見ても手の数が足りないし、右と左の順番もバラバラだ。大体、そんなことをする理由もないので不自然。
「私だって、あれが勘違いか夢だったらどんなに幸せかって思いますよ! でも、区別がつかないから怖いんです……」
話は、彼女が高校生の時に遡る。
当時私はもちろん高校生で、勉学に忙しい時期。
「は~。またテストか、もう疲れたよ~。金剛、代わって~」
「嫌だよ。俺はこの試験が終わったら、愛宕 にネックレスを買ってやるんだ! そのためにバイトを休むわけにはいかない!」
磐井 金剛 は同級生だ。隣の席の男子で、いつも妹のことしか考えてない系の人。
「桜姫の母さんも確か、先生だろう? 勉学のコツを教えてもらったらどうだ? ついでに俺にも伝授してくれ、愛宕にいい顔を見せたい」
「駄目だよ。母さんも小学生の教師! 私たちは高校生! 専門外。同じスポーツ選手でも野球とサッカーの両方万能にできる人がこの世にいるとでも? あんたの母親でも不可能でしょうが!」
結局今回も一夜漬けになりそうだ。
次の日は日曜日で休み。いつも休日は午後になってから起きて試験勉強を始める。
「んんん?」
ここで私は、腕に違和感を覚えた。肘から先、手首までの間が痛むのだ。
「筋肉痛かな?」
パジャマの上から腕を揉んでみた。すると痛みは段々引いていく。
「もうちょっとマッサージしてから勉強……」
その時、袖がめくれた。そして右手を見て、ビックリした。
手で掴まれた痕がクッキリあったのだ。
「え……?」
私の頭の動きが一瞬で止まった。
よく考えてみれば、筋肉痛になるのも変だ。運動部には入っていないし、直前に体育の授業があったわけでもない。あったとしてもそんなに激しく動かさない。
そもそも、この腕の手痕を説明できない。
「多分夢でも見たんだね。寝相が悪かったかな?」
そう解釈した。そして半袖に着替えて一階に降り、食卓で勉強をする。自分の試験対策と、椿姫 …妹の勉強を見るためだ。
「おはよう椿姫。昨日の塾の課題はわかった?」
「うん、おはようお姉ちゃん。言われた通りにしてみたらすぐに解けたよ! ありがとうね!」
「ようしようし! 次は相似の証明をやろうね」
「うん!」
妹は先に起きて問題集を広げ、わからない問題に印をつけていた。
「この問題は……」
でも私なら解ける。その文章に指を伸ばした時、
「お姉ちゃん? どうしたの、その腕!」
妹が私の右手を掴んで言った。
「ああ、これね。寝ている間にぶつけたのかな? 変な夢でも見たんだと思うよ?」
「そうか……」
それで納得したのは妹の方。一気に疑問が膨らんだのは私の方だ。
私は右手で問題集を指差している。妹が私の腕を掴んだのも右手。そして、その手痕は妹の手とピッタリ重なった。
(ええ! そんな、馬鹿なことってある?)
それの何が問題か? 私は、寝ている間に自分の左手で右腕を掴んでいた、と思っていた。
でも、違う。手痕は掴んだ手が右手であることを証明している。
(右手で右腕を掴んだ? そんなこと、骨が折れたってできるはずがないじゃん!)
何か、言い表せられない不気味な感覚を味わった。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「ううん、何でもない……」
気を紛らわすかのように私は、妹に勉強を教えた。
だけど、その日の夜にぶり返した。
「誰かが私の腕を掴んでいる…?」
私は寝る時に部屋に鍵をかける派なので、家族ではない。この部屋には私しかいないのだ。
でもその私の左手は、手痕と重ならない。
(そもそも痕が残るほど強く掴んだのなら、右じゃなく左腕が筋肉痛になるんじゃないの…?)
そうも考える。そして自分の両腕を見て、
(今夜も同じことが起きなければいいんだけど……)
不安を抱きながら布団に入った。
「う……ん…」
急に息が苦しくなった。
「なに、これ………?」
体が動かない。でも目は動く。
私はどうやら、部屋にいるらしい。ベッドの上で寝ているようだ。
「だい、じょうぶ……?」
視線を腕に送る。動かせないことに変わりはないが、右も左も離れている。
「ふ、ふう……?」
しかし、脚の方を見ると、ギョッとした。
黒い何かが、脚の足の上にいるのだ。
「…………………………………………………」
よく聞こえないが、何か呟いている。
「な……に?」
これは一体? 大きさから、人間ではない。でも家ではペットを飼ってないので、生き物でもない。じゃあ何だ?
(誰か、来て……! あ、声が…!)
私は大声で叫んだつもりだった。でも声は出ない。口が動かないのだ。
(あ、ああ、あああ……)
そして急に意識が遠くなった。
「はあっ!」
次の日、目覚まし時計よりも速く飛び起きた。全身汗びっしょりで、布団まで濡れている。
「黒いのは……いない! ふう、良かった」
部屋全体を隈なくチェックしたが、私以外は何もいない。窓の鍵も閉まっている。
(アレは夢だったんだ…)
そう思うことにし、部屋で制服に着替える際、
「あっ!」
左太ももにそれはあった。
手痕だ。今度は両手分。
「また寝ている間に? 寝相?」
そうではない。私はその手痕をよく見た。
私から見て、太ももの右側には左手が、左側には右手が重なる痕だ。つまり向かい合って誰かがその部分を握ったということ。
寝相のせいにしたくても、この手の痕はどう考えてもおかしい。指は下ではなく上に向かっているし、もし仮に寝ている間に体が動いたとしても、起き上がらないと無理な動きだ。
「何だろう、これ…?」
季節にそぐわないのだが、黒タイツをはいてその手痕を隠した。
「それ、金縛りじゃない?」
学校で金剛が私にそう言った。
「あの、四ターン同じ技が出せなくなるヤツ?」
「それはゲームのし過ぎ! 俺が言ってるのは、睡眠麻痺だよ!」
曰く、疲れた時やストレスが原因で起きるのだとか。
「耳鳴りがしなかったか?」
「え~と、してないかな?」
「圧迫感を感じたりは?」
「それもない」
「なら原因は不明だな」
「えええ~!」
いきなり投げ出されたので変な声が飛んだ。
「だって、俺もバイトで疲れた時によくなるけどよ……。ちゃんと前触れは感じるぞ?」
「前触れ?」
聞き返すと、金剛が尋ねたその症状がそうらしい。
「横になっていると、耳元で、ザザーとかジジーとか聞こえるんだ。そして体が圧迫感を覚える。そうなると、急に手足が動かせなくなって……って感じだ」
「それとは違う……」
私の金縛りは、金剛の言うそれに合致しない。
「それに、私のところに現れたあの黒い何か。それと手痕。説明ができないよ?」
「だから! 俺に頼るなよ! 説明できないってば、それは!」
結局学校では何もわからなかった。
家に帰ってご飯を食べテレビを見ている時、妹に、
「ねえ椿姫? 夜中に私の部屋に入ったりしてないよね?」
「う? カギ持ってないからできないよ? それに入る用事もないし、金剛さんと愛宕じゃないんだからそんなことしないよ?」
「だよねー」
母にも同じことを聞いたが、返事も同じだ。
寝る前にパソコンを立ち上げて調べてみた。
「金縛り……。これね」
確かに金剛から聞いた通り、金縛りになる時には前兆があるらしい。しかし思い返してみても、それに当てはまりそうなことはなかった。
「じゃあ、何なの?」
わからない。それは、私が呟いた内容ではない。実際にインターネット上に書かれていたことだ。
「就寝中の金縛りは科学で説明できる。でも、そうでない場合は原因は不明である…」
私も寝ている時にそれは起きたけど、ハッキリと周りを認識できた。予兆もなく、疲れもないのに生じるわけがないのだ。
もし仮に科学的な金縛りだったとしても、じゃあ腕や脚の手痕はどうやって説明するのか?
「原因は不明だね……」
私も匙を投げた。もう気にしないことにしよう。パソコンの電源を切ろうとマウスカーソルを動かそうとした、その時だ。
(あれ………?)
腕が動かない。
(何で……? え?)
腕だけじゃない。脚も動かせないのだ。それだけじゃなく、声も出ない。
だが、うめき声のような音が机の下から聞こえるのだ。
「ううう、うううううううう……」
それは私のふくらはぎを掴み、這い出てくる。奇妙なことに感覚は生きている。
今度は膝を掴まれた。私の視線は嫌でも足元に落ちる。
(ひ、ひえええええええええええ!)
黒い何かが、机の下から顔を覗かせたのだ。それの赤く充血した目と、私の目が合ってしまった。
「よこせ……。体………」
ハッキリと、何を言っているかがわかった。
「よこせ、腕、脚、腹、胸、頭……。よこせ、体……」
もうそれは、私の胸にしがみついている。
(や、やだ……)
瞬きはできない。目も閉じれない。でも恐怖からか涙は流れた。
「もらう……。体……!」
その手が私の首に伸びた。絞め殺そうとでも言うのだろうか?
「やだあああ!」
「いて!」
気がつくと私は、自分の部屋で転げ落ちていた。どうやら椅子から落ちたらしい。
「何だったの、今の?」
黒い何かは、もういない。だから私は、机にうつ伏せになって悪い夢を見た、と思った。
「お姉ちゃん、大丈夫……?」
妹が部屋に入って来た。どうやら結構な音を出してしまったらしい。
「大丈夫だよ、椿姫…」
「嘘じゃん、それ!」
妹はそう言って私を姿見鏡の前に連れて来た。
「げっ!」
私の体のいたるところに、手痕がビッシリと残っていた。妹が私のスマートフォンを使ってその写真を撮り、
「お姉ちゃん、お寺に行こうよ」
提案してきたのですぐに頷いた。
近くの寺に駆け込み、写真を見せながら説明する。すると住職の見立てでは、
「そりゃあ~浮遊霊の類ですな。あなたたち、数年の間、墓参りに行ってないのでは?」
「ど、どうしてそれを…?」
勉学で忙しく、疎かになっていたことを彼は見抜いたのだ。
「先祖の加護が弱くなると現れる幽霊だ。ちょうどあなたの先祖、山繭家の墓はこの寺にある。こんな遅くだが、弔ってやろうね」
夜の墓場は不気味だったが、住職が同行してくれたので怖くはなかった。
墓は、手入れが全然されてなかった。最低限水をかけて花を供えると住職が、
「これで十分だ。明日、私が代わりに墓石を綺麗にしておいてあげるから。今日はもう寝なさい。あと、夜更かしはやめなさい」
それだけで厄除けや除霊の類はなされなかった。でも効果があり、それ以降、私は黒い何かとは遭っていないのだ。
「なるほど、そういうわけか」
俺は頷いた。
「その幽霊については、本当に何もわかってなくて……。だから黒い何か、としか言えません…」
「しかし、それで十分だよ」
霊能力者を除いた場合に幽霊の名前について詳しいヤツがいるだろうか? 素人からすれば、
「悪い霊に取り憑かれた」
とだけ言えばいいのだ。
「その後は、本当に大丈夫?」
念を押すと、
「はい。毎年妹と墓参りするようになったので、もう黒い何かとは遭遇はしてないです。ただ……」
「ただ?」
匂わせる発言をしたので、追及すると、
「科学的な方の金縛りは、何度かありますね。やっぱりストレスや疲労はよくないですね」
俺は感じた。桜姫の味わった黒い何かも、ただの金縛りであればいい、と。
同じことを彼女も感じたらしく、桜姫は頷いて答えた。
失礼を承知で、俺は言った。今日の話相手である
「金縛りについてなんですが…」
というものだったためだ。
ここで解説を加えておく。
金縛りとは、霊的な現象で幽霊が体を押さえつけるから動かせなくなる現象である……というのは真っ赤な嘘だ。その正体は生理現象。
「医学に詳しくはないけどさ、調べればすぐにわかるよ。確か、頭は起きているけど体は寝ている状態…だっけか? だから腕も足も動かないんだ。そして実は頭もちゃんと起きているわけじゃないから、幻覚を見るらしい。そしていきなり起きるわけではなく、ジーンジーンや、ザザァ、ザワザワ…って耳鳴りに近い音がする」
インターネットの扱いに弱い俺でも調べられたんだから、桜姫でもわかるはずである。
しかし、
「私も最初はそう思ったんですが、でも……」
恥ずかしがりながらスマートフォンに保存されている写真を数枚見せてくれた。
「……! これは…!」
被写体は彼女の腕と足だ。何かに押さえつけられたかのように、手の痕がハッキリと残っている。
「先に言っておきますが、私の家は母と妹しかいません。父は単身赴任中ですので…」
その二人が力一杯押さえたんじゃないか? そう最初は俺も思ったが、どう見ても手の数が足りないし、右と左の順番もバラバラだ。大体、そんなことをする理由もないので不自然。
「私だって、あれが勘違いか夢だったらどんなに幸せかって思いますよ! でも、区別がつかないから怖いんです……」
話は、彼女が高校生の時に遡る。
当時私はもちろん高校生で、勉学に忙しい時期。
「は~。またテストか、もう疲れたよ~。金剛、代わって~」
「嫌だよ。俺はこの試験が終わったら、
「桜姫の母さんも確か、先生だろう? 勉学のコツを教えてもらったらどうだ? ついでに俺にも伝授してくれ、愛宕にいい顔を見せたい」
「駄目だよ。母さんも小学生の教師! 私たちは高校生! 専門外。同じスポーツ選手でも野球とサッカーの両方万能にできる人がこの世にいるとでも? あんたの母親でも不可能でしょうが!」
結局今回も一夜漬けになりそうだ。
次の日は日曜日で休み。いつも休日は午後になってから起きて試験勉強を始める。
「んんん?」
ここで私は、腕に違和感を覚えた。肘から先、手首までの間が痛むのだ。
「筋肉痛かな?」
パジャマの上から腕を揉んでみた。すると痛みは段々引いていく。
「もうちょっとマッサージしてから勉強……」
その時、袖がめくれた。そして右手を見て、ビックリした。
手で掴まれた痕がクッキリあったのだ。
「え……?」
私の頭の動きが一瞬で止まった。
よく考えてみれば、筋肉痛になるのも変だ。運動部には入っていないし、直前に体育の授業があったわけでもない。あったとしてもそんなに激しく動かさない。
そもそも、この腕の手痕を説明できない。
「多分夢でも見たんだね。寝相が悪かったかな?」
そう解釈した。そして半袖に着替えて一階に降り、食卓で勉強をする。自分の試験対策と、
「おはよう椿姫。昨日の塾の課題はわかった?」
「うん、おはようお姉ちゃん。言われた通りにしてみたらすぐに解けたよ! ありがとうね!」
「ようしようし! 次は相似の証明をやろうね」
「うん!」
妹は先に起きて問題集を広げ、わからない問題に印をつけていた。
「この問題は……」
でも私なら解ける。その文章に指を伸ばした時、
「お姉ちゃん? どうしたの、その腕!」
妹が私の右手を掴んで言った。
「ああ、これね。寝ている間にぶつけたのかな? 変な夢でも見たんだと思うよ?」
「そうか……」
それで納得したのは妹の方。一気に疑問が膨らんだのは私の方だ。
私は右手で問題集を指差している。妹が私の腕を掴んだのも右手。そして、その手痕は妹の手とピッタリ重なった。
(ええ! そんな、馬鹿なことってある?)
それの何が問題か? 私は、寝ている間に自分の左手で右腕を掴んでいた、と思っていた。
でも、違う。手痕は掴んだ手が右手であることを証明している。
(右手で右腕を掴んだ? そんなこと、骨が折れたってできるはずがないじゃん!)
何か、言い表せられない不気味な感覚を味わった。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「ううん、何でもない……」
気を紛らわすかのように私は、妹に勉強を教えた。
だけど、その日の夜にぶり返した。
「誰かが私の腕を掴んでいる…?」
私は寝る時に部屋に鍵をかける派なので、家族ではない。この部屋には私しかいないのだ。
でもその私の左手は、手痕と重ならない。
(そもそも痕が残るほど強く掴んだのなら、右じゃなく左腕が筋肉痛になるんじゃないの…?)
そうも考える。そして自分の両腕を見て、
(今夜も同じことが起きなければいいんだけど……)
不安を抱きながら布団に入った。
「う……ん…」
急に息が苦しくなった。
「なに、これ………?」
体が動かない。でも目は動く。
私はどうやら、部屋にいるらしい。ベッドの上で寝ているようだ。
「だい、じょうぶ……?」
視線を腕に送る。動かせないことに変わりはないが、右も左も離れている。
「ふ、ふう……?」
しかし、脚の方を見ると、ギョッとした。
黒い何かが、脚の足の上にいるのだ。
「…………………………………………………」
よく聞こえないが、何か呟いている。
「な……に?」
これは一体? 大きさから、人間ではない。でも家ではペットを飼ってないので、生き物でもない。じゃあ何だ?
(誰か、来て……! あ、声が…!)
私は大声で叫んだつもりだった。でも声は出ない。口が動かないのだ。
(あ、ああ、あああ……)
そして急に意識が遠くなった。
「はあっ!」
次の日、目覚まし時計よりも速く飛び起きた。全身汗びっしょりで、布団まで濡れている。
「黒いのは……いない! ふう、良かった」
部屋全体を隈なくチェックしたが、私以外は何もいない。窓の鍵も閉まっている。
(アレは夢だったんだ…)
そう思うことにし、部屋で制服に着替える際、
「あっ!」
左太ももにそれはあった。
手痕だ。今度は両手分。
「また寝ている間に? 寝相?」
そうではない。私はその手痕をよく見た。
私から見て、太ももの右側には左手が、左側には右手が重なる痕だ。つまり向かい合って誰かがその部分を握ったということ。
寝相のせいにしたくても、この手の痕はどう考えてもおかしい。指は下ではなく上に向かっているし、もし仮に寝ている間に体が動いたとしても、起き上がらないと無理な動きだ。
「何だろう、これ…?」
季節にそぐわないのだが、黒タイツをはいてその手痕を隠した。
「それ、金縛りじゃない?」
学校で金剛が私にそう言った。
「あの、四ターン同じ技が出せなくなるヤツ?」
「それはゲームのし過ぎ! 俺が言ってるのは、睡眠麻痺だよ!」
曰く、疲れた時やストレスが原因で起きるのだとか。
「耳鳴りがしなかったか?」
「え~と、してないかな?」
「圧迫感を感じたりは?」
「それもない」
「なら原因は不明だな」
「えええ~!」
いきなり投げ出されたので変な声が飛んだ。
「だって、俺もバイトで疲れた時によくなるけどよ……。ちゃんと前触れは感じるぞ?」
「前触れ?」
聞き返すと、金剛が尋ねたその症状がそうらしい。
「横になっていると、耳元で、ザザーとかジジーとか聞こえるんだ。そして体が圧迫感を覚える。そうなると、急に手足が動かせなくなって……って感じだ」
「それとは違う……」
私の金縛りは、金剛の言うそれに合致しない。
「それに、私のところに現れたあの黒い何か。それと手痕。説明ができないよ?」
「だから! 俺に頼るなよ! 説明できないってば、それは!」
結局学校では何もわからなかった。
家に帰ってご飯を食べテレビを見ている時、妹に、
「ねえ椿姫? 夜中に私の部屋に入ったりしてないよね?」
「う? カギ持ってないからできないよ? それに入る用事もないし、金剛さんと愛宕じゃないんだからそんなことしないよ?」
「だよねー」
母にも同じことを聞いたが、返事も同じだ。
寝る前にパソコンを立ち上げて調べてみた。
「金縛り……。これね」
確かに金剛から聞いた通り、金縛りになる時には前兆があるらしい。しかし思い返してみても、それに当てはまりそうなことはなかった。
「じゃあ、何なの?」
わからない。それは、私が呟いた内容ではない。実際にインターネット上に書かれていたことだ。
「就寝中の金縛りは科学で説明できる。でも、そうでない場合は原因は不明である…」
私も寝ている時にそれは起きたけど、ハッキリと周りを認識できた。予兆もなく、疲れもないのに生じるわけがないのだ。
もし仮に科学的な金縛りだったとしても、じゃあ腕や脚の手痕はどうやって説明するのか?
「原因は不明だね……」
私も匙を投げた。もう気にしないことにしよう。パソコンの電源を切ろうとマウスカーソルを動かそうとした、その時だ。
(あれ………?)
腕が動かない。
(何で……? え?)
腕だけじゃない。脚も動かせないのだ。それだけじゃなく、声も出ない。
だが、うめき声のような音が机の下から聞こえるのだ。
「ううう、うううううううう……」
それは私のふくらはぎを掴み、這い出てくる。奇妙なことに感覚は生きている。
今度は膝を掴まれた。私の視線は嫌でも足元に落ちる。
(ひ、ひえええええええええええ!)
黒い何かが、机の下から顔を覗かせたのだ。それの赤く充血した目と、私の目が合ってしまった。
「よこせ……。体………」
ハッキリと、何を言っているかがわかった。
「よこせ、腕、脚、腹、胸、頭……。よこせ、体……」
もうそれは、私の胸にしがみついている。
(や、やだ……)
瞬きはできない。目も閉じれない。でも恐怖からか涙は流れた。
「もらう……。体……!」
その手が私の首に伸びた。絞め殺そうとでも言うのだろうか?
「やだあああ!」
「いて!」
気がつくと私は、自分の部屋で転げ落ちていた。どうやら椅子から落ちたらしい。
「何だったの、今の?」
黒い何かは、もういない。だから私は、机にうつ伏せになって悪い夢を見た、と思った。
「お姉ちゃん、大丈夫……?」
妹が部屋に入って来た。どうやら結構な音を出してしまったらしい。
「大丈夫だよ、椿姫…」
「嘘じゃん、それ!」
妹はそう言って私を姿見鏡の前に連れて来た。
「げっ!」
私の体のいたるところに、手痕がビッシリと残っていた。妹が私のスマートフォンを使ってその写真を撮り、
「お姉ちゃん、お寺に行こうよ」
提案してきたのですぐに頷いた。
近くの寺に駆け込み、写真を見せながら説明する。すると住職の見立てでは、
「そりゃあ~浮遊霊の類ですな。あなたたち、数年の間、墓参りに行ってないのでは?」
「ど、どうしてそれを…?」
勉学で忙しく、疎かになっていたことを彼は見抜いたのだ。
「先祖の加護が弱くなると現れる幽霊だ。ちょうどあなたの先祖、山繭家の墓はこの寺にある。こんな遅くだが、弔ってやろうね」
夜の墓場は不気味だったが、住職が同行してくれたので怖くはなかった。
墓は、手入れが全然されてなかった。最低限水をかけて花を供えると住職が、
「これで十分だ。明日、私が代わりに墓石を綺麗にしておいてあげるから。今日はもう寝なさい。あと、夜更かしはやめなさい」
それだけで厄除けや除霊の類はなされなかった。でも効果があり、それ以降、私は黒い何かとは遭っていないのだ。
「なるほど、そういうわけか」
俺は頷いた。
「その幽霊については、本当に何もわかってなくて……。だから黒い何か、としか言えません…」
「しかし、それで十分だよ」
霊能力者を除いた場合に幽霊の名前について詳しいヤツがいるだろうか? 素人からすれば、
「悪い霊に取り憑かれた」
とだけ言えばいいのだ。
「その後は、本当に大丈夫?」
念を押すと、
「はい。毎年妹と墓参りするようになったので、もう黒い何かとは遭遇はしてないです。ただ……」
「ただ?」
匂わせる発言をしたので、追及すると、
「科学的な方の金縛りは、何度かありますね。やっぱりストレスや疲労はよくないですね」
俺は感じた。桜姫の味わった黒い何かも、ただの金縛りであればいい、と。
同じことを彼女も感じたらしく、桜姫は頷いて答えた。