その四十 ヒグマの悲劇

文字数 5,944文字

 東北地方は雪国だと勝手に俺は思っている。だからスキーをしてみたい。スノーボードでもいい。なんなら子供みたいに雪合戦でも。
「冬にならなきゃ、それは無理だろう」
 そんな幻想を一言でぶち壊してくれたのは、目の前にいる麻倉(あさくら)(れん)
「そんなに雪に憧れてんなら、北海道にでも飛んで行けよ」
「別にいいじゃないか、本州でもさ…」
 まあ雪云々は関係ないので本題に入ろうか。
「俺もね、中学時代……六年ぐらい前か? 修学旅行で聞いた話なんだけど。ソイツは自信満々に、怖がらせるぞ、なんてぬかしてたよ。実際には全然だ。それでもいいのかい?」
 いい、と相槌を打つと、
「じゃ、始めようか。これは北海道の話なんだが…」
 非常にどうでもいいことなんだが、コイツ俺には北海道に行けとか言っておいて、自分は北海道の話するのか…。まあ、関係ないからいいけど?

 太平洋戦争終結から十年。焦土と化した日本は徐々に立ち直りつつあった。そんな年の冬の出来事である。
 井坂(いさか)輝秋(かがあき)というのが、その若者の名前である。戦時中という特異な幼少期を過ごし、二十歳の青年に成長していた彼は、北海道のとある村に家族で暮らしていた。
 今ほどインフラが整っている時代ではない。だから生活は大変だ。それに村も裕福とは言えない。そんな現状を見かねて彼は、近くの町に買い出しによく出かけていた。
「………兄者たちめ…」
 そんな彼にも、不満があった。それは家に同居している、二人の兄である。困ったことにその二人は定職に就かず、家事もしない。用は完全に邪魔ものなのだ。だが末っ子の輝秋が意見できる立場ではないため、文句は口が裂けても言えない。
 この日の買い出しも、本当なら必要がなかった。食料は十分にため込んである。だがそれを我が物顔で消費する二人の兄。
「俺は家長なんだぞ!」
 それが長男の口癖だ。困ったことに次男は完全に腰巾着で、長男の発言に頷くこと以外は何もしない。本来なら、父親が彼らのストッパーとなるべきであろう。しかし彼らの父は、戦争で命を散らした。
 だから、井坂家の癌細胞を止められる人物は本当に誰もいないのだ。

「結局、これしか買えなかったか……」
 輝秋はガッカリした表情で、雪が降り積もる中帰宅することになった。金は昨日の朝までは十分にあった。しかし午後に二人の兄が出かけ、散在してしまったのである。賭博かそれとも売春か。とにかく金銭的な余裕はない。
「うん…?」
 自宅の前に到着した時、彼は奇妙な現象に出会う。なんと子熊が玄関の前に座っているのだ。
(この季節、ヒグマは冬眠しているはずだが? それとも穴がなくて、寝られなかったのか?)
 彼は構えた。当然だ、彼ら道民にとってヒグマは害獣以外の何物ではない。彼の先祖はマタギなので家に戻れば戦えるだけの武器はあるだろう。しかし今は外。持っているはずがない
 輝秋は思った。相手は子熊。ちょっと声をかければ追い払えるかもしれない。
「おい、どけ」
 そう言った。すると、なんと子熊は、
「すいません…」
 にわかには信じがたいことに、人語を話したのである。
「言葉がわかるなら、そこをどいてくれ。今すぐ逃げれば誰にも言わない」
 しかしこんな非常事態にも関わらず、輝秋は動じない。冷静に言葉をかける。
(もしヒグマが村にいるとわかれば、すぐに討伐隊が編成される……。そうなるとこの子熊の命はない…)
 冷たい言葉は、優しさの裏返しだった。
「……お腹が空いているんです。何かくれませんか? もらえたら山に帰れます」
 子熊はそう言った。輝秋は荷物を見た。
(譲れそうな物はない…。貴重な金で買った食糧だ。いや、待てよ?)
 ここにいては目立つ。そう思った輝秋は子熊を家に招き入れた。

 井坂家は、祖母、母、叔母、長男、次男、そして輝秋の構成。祖母は足が悪いために布団からほとんど出られず、母と叔母は昼間、働いている。問題はいつも家にいる二人の兄だったが、上手い具合に留守だった。
「ようし、ここで待っていてくれ」
 玄関に上げると、そこで土台に座らせた。そして輝秋は一度外に出て、農場近くの小屋に行く。そこには収穫しておいたジャガイモを保管してある。家に置いておくと兄が食べてしまうし、母が勝手に売りかねない。だからこの家で農業に従事している輝秋しか立ち寄らない小屋に隠しておくのが一番安全だ。
 ヒグマがジャガイモを食べられるかどうかはこの際は置いておく。とにかく輝秋は子熊に分け与えることにしたのだ。
「ほうら、お食べ」
 二、三個を与えると子熊は、
「ありがとう。いただきます」
 嬉しそうに食べた。相当腹が減っていたのだろう、すぐに食べ尽くしてしまう。
「もうちょっとあげよう」
 そう言うと輝秋は家の蔵に入り、トウモロコシとサケを取り出した。そしてそれも与える。
「ありがとうございます」
 かぶりつく子熊の顔はとても幸せそうだ。
 だが輝秋には、言わねばならないことが。
「君は、もうこの村に来てはいけないよ」
 またも厳しい言葉だ。
「どうしてですか?」
「私たちも、冬は食べ物がなくて苦しい。それは村全体に言えること。それに君はヒグマなんだ、肝や肉、毛皮を目当てに殺されかねない。だいいちヒグマの侵入を許したとなれば、村人たちが安心できなくなってしまう。だからそれを食べ終えたら、山に帰って大人しく春を待つんだ」
 それは、井坂家のこと、村のこと、ヒグマ自身のこと…全てを心配しての言葉だった。
「……わかりました」
 子熊は悲しい目つきでそう言うと、山に大人しく帰っていった。その姿を見ていた輝秋は一言、
「雰囲気が悪い……。何かが起こりそうだ」

 次の日の晩のことだ。輝秋の嫌な予感は、的中してしまう。
「おい輝秋! お前が行ってこい!」
 兄たちは賭け事が本当に好きであり、やる気がなくて手を抜いて負けた輝秋は、肉を買って来るように命じられた。
「日が暮れているのに、売ってくれる人がいるものか……!」
 ぶつくさ文句を言いながらも彼は家を出る。もちろん彼の呟いた文句通り、店は閉まっていて買えるはずがない。手ぶらで帰る羽目になった。
「……妙に騒がしいな?」
 家の近くまで来てみて、違和感を抱いたのだ。いつもは静かなはずの井坂家だが、何やら騒がしい。
「輝秋、お前、無駄骨だったなあ?」
「と言うと?」
 次男は得意気に一頭の子熊の死骸をリアカーに積んでいる。隣にいる長男は、鉄砲を持っている。
「一発で仕留めたんだぜ! 今日は熊鍋だ!」
「ま、まさか!」
 輝秋はその子熊の死骸を見た。間違いない、昨日家にやって来たあの熊だ。
(私が忠告したのに、来てしまったのか……)
 瞬間、怒りが彼の心の中で湧いた。言いつけを守らないから、こういう結果になるとわかっていたから、来てはいけないと言ったのに。
 しかしすぐに別方向へも怒りがこみ上げる。
(兄者たちめ……。この熊は人を襲おうとは考えていなかった! 飢えていたから助けを求めていただけだ! 追い払えばいいものを、殺すなんて!)
 昨日会っただけの子熊だが、会話したこともあってか輝秋は親近感を抱いていた。それがたった一発の弾丸で砕かれたのである。これには怒らずにいられない。
 最後に後悔に襲われる。もし自分が兄たちに賭けで勝って、家に残っていたら……この子熊の相手をしてやれた。兄たちに会わさずに山に帰せた。
(私の責任か……)
 罪悪感を味わった輝秋はこの日の夕飯を抜いた。

 最後の悲劇は二日後に起きる。
 その日の井坂家の食卓は結構豪華だった。子熊の毛皮と肝が高く売れたためである。こたつの上に鍋を置いて、サケを味わう。
「いいか? これも俺のおかげなんだぞ? 俺がマタギの血を受け継いで、その魂が唸ったんだ! だから熊を仕留められて、こんな豪勢な夕飯にできる。有難く思えよ、お前ら!」
 長男は非常に偉そうな口調で喋る。次男は、
「そうだ! 兄さんのおかげで井坂家は回ってるんだ!」
 と、もはや救いようがない。
(正直、箸が進まない…。あの子熊を殺して得られた食材に、価値があるのか…?)
 輝秋の心は揺れていた。だからか彼は、
「食欲がない。ちょっと散歩に行ってくる」
 と言って食卓を抜け出した。それを母が止めようとしたが、
「放っておけよ!」
 長男はそう言った。男が一人いなくなれば、自分の食べれる分が増える。だからそう発言したのだ。
 輝秋は農場近くの小屋に向かった。そこには簡単な料理ぐらい作れる台所がある。そこでジャガイモを焼いて食べるつもりなのだ。
「さて…。私は私で夕食を食べるとしよう」
 彼が適当にイモを切って、そして火をつけようとしたその時である。
「ギャアアアアアアアアア!」
 家の方から悲鳴が聞こえた。
「何事だ…?」
 聞き流すわけにはいかない。輝秋はすぐに家に戻った。

「うう、これは?」
 玄関の扉が完全に破壊されている。人の力でやったとは思えない。
「強盗ではない……。あ、これは…?」
 そこに落ちている、獣の毛を見た。よく見て見ると、外の雪には大きな足跡が残されている。この前の子熊とは比較にならないほど大きな足跡だ。
「親熊か!」
 その直感は当たっている。輝秋はすぐに玄関に上がった。
「あ、あ、輝秋…。無事なのね!」
 叔母が涙を流しながら輝秋を抱きしめた。
「と言うと、他は無事ではないと?」
 コクンと頷く叔母。輝秋は食卓の様子を恐る恐る伺った。
「………」
 そこには長男と次男が黙って座っている。
「おい、何か喋れよ」
 上座には、二メートルはあろう親熊が座っており、鍋の中身を漁っている。
「突然現れて……。一体何が何だか…」
 叔母は完全に混乱しているが、輝秋には事情がすぐにわかった。
(おそらく、子熊は私のこと…食べ物をもらえたことを親熊に話していたのだろう。今度は親の分ももらってこよう。そう考えてあの子熊はまたここに来てしまったに違いない。そして帰って来ないので、親熊が直々にやって来た…というわけだな)
 そして兄たちは喋れないのだろう。そこ子熊を自分たちが殺したということを。そんなことを言えば確実に殺されてしまう。マタギの血や魂が云々と言っておきながら、このざまなのだ。
 輝秋は考えた。この状況を打開する手は、何かないか。もちろん親熊を殺してしまうのが一番早いだろう。しかし、
(側にいる兄者たちが邪魔だ…。私は銃は不慣れ。誤射する自信しかない)
 もしも弾丸を外したら…。兄を殺すことになってしまうし、逆上した親熊に輝秋自身が襲われかねない。
「確か、父が残した軍刀があったはず。どこにしまってある?」
 叔母に聞くと、それは倉庫にあるとのこと。
「ちょっと、どうするつもり?」
「これは、私が撒いた種なのだ。私に責任がある」
 それ以上は答えなかった。輝秋は倉庫の軍刀を握ると、
「隙を突いて、首を切り落とせば流石のヒグマも何もできまい。問題はどうやって気づかれずにはねるかだが…」
 親熊は、廊下を見渡せる席に座っている。輝秋が武器をもって食卓に来たら、絶対にバレる。
「……少し様子を見る」
 そう言って、隠れた。
 食卓では、二人の兄はずっとプルプル震えていた。
「おい、どうした? 寒いのか?」
「………」
「さっきから黙り込んじまって…。俺は息子がどこにいるかを聞いてるんだ。答えてくれればすぐ帰る。のに何だ、その態度は?」
 親熊は明らかに怒りに満ちた表情で、兄たちに聞く。だが、二人は沈黙を貫く。
「そろそろ答えろよ? ここに来てないのか? そうなら他を回るだけだ…」
 その言葉から輝秋は、正確な場所を子熊から聞いていないことを推測した。のだが…。
「とんでも! とっても元気な子でしたよ…」
 次男がついに口を開く。
「でしたよ? まるでもうここにいないような口ぶりだな?」
 それもそのはず。兄たちが殺したので、この世にいないことを知っているのだ。それが自然と口調に現れてしまったのである。
「違います違いますって! とても健康的で、肉も引き締まって…」
「……そうか。食べたんだな?」
「ええ?」
(馬鹿…! 冬眠に失敗した熊が、健康的であるはずがない! 食糧をもらいに来るぐらいだぞ? それにあれではまるで肉を捌いて確かめたと言っているようなもの!)
 親熊は今の発言で完全にキレた。そしてこたつをひっくり返すとその大きな腕を振った。わずか一振りで、長男の首が胴体から離れた。
「ひ、ひえええ!」
 次男は逃げようとしたが、親熊に捕まって首を食いちぎられた。
(まずい! 暴れ出した!)
 完全に説得できる状態ではなくなった。きっとこの家の住民を殺し尽くすまで終わらない。いいや、下手をすれば連帯責任と言い出して、他の村人にも手を下すかもしれない。
(……もう、切るしかない)
 輝秋はタイミングを見計らった。そして親熊が廊下に出た瞬間、居合い抜き。太刀筋は完全に親熊の首を捉え、切り落とした。首がなくなった体は床に崩れ、そして頭は輝秋の足元に転がった。
「お前も犯人だったか…」
 悔しそうに口を動かす親熊。
「私は子熊に、食べ物を分け与えた。それがこんな結果を生むことになるとは、残念で仕方がない」
 輝秋はまた違った悔しさを感じていた。
 最後の抵抗と言わんばかりに親熊の牙が輝秋の足首に噛みついた。だが、出血させられるほど力は残っていないようで、痛みは感じない。
「俺はお前を呪った……。もしも…お前がこの先、子供を設けるようなことがあれば……。俺の息子と同じ苦しみを味わうのだ………。滅べ、滅んでしまえ……」
 苦しそうに呪いの言葉を残す親熊の頭を刀で貫いて、輝秋は楽にしてやった。

 その冬の終わり、輝秋は家を出た。
「呪われたのだから、この家にいては迷惑だろう」
 その後の輝秋の足取りは、誰も知らない。もちろん井坂家がどうなったのかも。

「………確かにファンタジーな? 話ではあるが……怖いかどうかは…」
「微妙だろうね」
 煉は自分で話をしておいて、そう言った。
「だって俺も聞いた時、怖くなかったもの」
 それを言われちゃお終いなのだが…。
「でもさ、その人物の話は本当なのかい?」
「ああ、本当だよ」
 彼はそうも断言した。
「だって俺の父さん、山菜取り行って、食害に遭って死んじまった」
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