その七十 くだん

文字数 8,408文字

「おお、早いね」
 今日話を聞かせてもらう予定の相手、米沢(よねざわ)蔵人(くらひと)は既にコンビニの前で待ってくれていた。
「イートインがありますので、そこで。コーヒーでも買えば店員に邪険にされることはないでしょう」
 まあ俺もイートインでノートパソコンを無断で開くほど常識外れではない。入店時に店員に話をして許可を得た。大きな声を出したり他の客に迷惑をかけたりしなければ良い、とのお墨付きを得たぞ。
「妖怪に関する話、だったっけ?」
「はい。氷威さんは信じますか、そういうのは?」
「信じないタイプだったら、君から話を聞こうとしないよ。……見たことはないんだけど」
 この世ならざる存在については、世界中で囁かれている。その多くは神だ。その次に悪魔や精霊が来るか。しかし日本には、妖怪という概念がある。
「神様の類か、和風の悪魔か……」
 判断が難しいのだ。というのも妖怪の中には、人間に害を及ぼすものもいるが、同時に危険はないタイプや寧ろ利益をもたらすありがたいものもいるためだ。
「妖怪が味方サイドの創作物があるくらいなのだから、この日本では完全な悪としては捉えられていないのだろう」
 俺と蔵人はそんな結論を出した。
「そろそろ始めますね」
「うん、頼むよ」

 あれは僕が小学生の頃の話です。当時田舎に住んでいました。田園地帯が広がり、夜になれば蛙の合唱が聞こえ、週刊誌の発売は数日遅れる……。よく言えばのどかですが、悪く言うと過疎化している場所でした。
 まだ小さい時期ということもあって、何でも遊び道具になるので、暇つぶしには困りませんでした。
 特に僕の興味を鷲掴みにしたのは、牧場でした。子供の足でもちょっと歩けば到着する程度の距離に、牧場があったのです。
「こんにちは!」
 土日、気が向くと僕はその牧場に足を運びました。勝手に見様見真似で仕事の手伝いをしたこともあります。除菌とか滅菌とかに関してはしっかりしていて入る度に消毒し清潔を保ち、危ない場所には入らないという約束で、中を探索したこともあります。
「うわあ、凄い!」
 沢山の牛が、その牧場にはいました。大きな牛が餌を食べる光景には迫力がありました。乳搾りをさせてもらったこともあり、自分が握ることでみんなが飲む牛乳が出ていると思うと、どこか達成感を味わえました。
 ある日のことです。牧場の人たちが慌てていたのを覚えています。僕はその時、
「今忙しいから、明日また来てね」
 と優しく追い返されたのですが、こっそりと入って物陰に隠れながら何が起きるか見ていました。
 牛の出産でした。僕は子牛が母親から出てくるそのシーンを時間を忘れ、ずっと見ていました。
 次の日も牧場に足を運び、僕はそこの大人に聞きました。
「昨日、牛の赤ちゃんが生まれたんだって?」
「ああ、見てみるかい?」
 メスの牛でした。見慣れたはずの大きな牛ではなく、弱々しく足を畳んで座っている、可愛らしい牛でした。
 僕は、自分の家族が増えた気分になりました。週末になれば牧場に行き、牛舎に入ると、
「おーい、モー子!」
 あの牛を呼びました。モー、と鳴く女の子なので、モー子と安直に名付けました。モー子の方も最初の頃は無視していましたが、段々と僕の声に反応するようになりました。一番驚いたのが、僕が名前を呼ぶ前……牛舎に近づいただけで、もうモー子が僕が来る方に歩み寄ってくるのです。
「よしよし! いい子だ! モー子は立派な牛になるぞ!」
 モー子が頭を差し出すので、僕は撫でました。するとモー子は舌で僕の手を舐めました。
(心が通じ合っているんだ、僕とモー子は!)
 モー子が人間の女の子ならどれほど良かったでしょうか。しかし僕とモー子の間には、種族を越えた絆が確かにありました。牧場の人も、
「あの子牛は君に対してだけ、態度が違うんだ。別の子牛だと勘違いしてしまいそうになるよ」
 その絆を認めていました。
 しかしそんな深い仲だったからこそ、とある事件はより悲しいものになりました。
 ある日を境に、モー子から元気がなくなりました。素人の僕でもわかるレベルです。あれだけ大きな声で鳴いていたのに、今やか細いうめき声に思えます。
「モー子……」
 その夜、僕はモー子の牛舎に入って、モー子のことを抱きしめました。しかし奇跡は起きるはずもなく、徐々にモー子の体は冷たくなっていきました。
 次の日には、モー子は火葬され遺骨は牧場のお墓に埋められました。ショックが大き過ぎて僕は、埋葬された後はもう牧場には行きませんでした。

 僕は中学生になると同時に、親の仕事の都合で他県へ引っ越しました。都会は僕の目に映る何から何までもが新鮮で、田舎での生活を忘れてしまうほど充実した日々を送ることになったのです。
 新しくできた友人たちも優しく、そして賢い。僕も彼らのようになりたいと思い、必死に勉強し、そして良く遊びました。
 小学生の時の生活を思い出す暇もない、そんな忙しさの中で、不思議なことが起きました。
「あれ」
 筆箱を漁っている際に、シャー芯が減っていることに気づきました。自分の部屋の机の引き出しの中を探してもなかったので、近くのコンビニに買いに行くことにしました。
 十分くらい歩けば、曲がり角にコンビニが見えます。
(便利だよな~)
 赤信号を待っている時、足に何かが当たりました。
「ん?」
 顔を下に向けると、サッカーボールが転がっていました。拾い上げ周囲を見ると、帽子を被っている小学生くらいの少女が僕のことを見ていました。
「君の、なの?」
 少女は何も言わず首を縦に振って頷きました。
「はい、どうぞ。危ないから道路の近くで遊んじゃ駄目だよ」
 ボールをその子に返しました。すると次の瞬間、
「いて!」
 何とその子は、ボールを僕に向かって両手で投げつけたのです。一瞬、頭が混乱しました。
(相手をして欲しいのかな…?)
 その子の周りには、遊び相手と思しき子供がいませんでした。だからボールが当たった僕と遊びたがっているのではないか、と思いました。
「ここは駄目だから! 向こうで遊ぼう? な?」
 またボールを拾い、その子に渡そうと思ったその時です。違和感に気づいたのです。
(この子、どこで遊んでたんだ……?)
 よく考えると、僕が今立っている場所は横断歩道の前……歩道です。隣はもちろん道路で車が走っています。そして……近くに公園はありません。マンションの駐車場もです。
(一人で遊ぶのに飽きたから、僕を誘ったんだろう? でも、こんなところで遊ぶわけないよな?)
 他の通行人が注意するに決まっています。だから歩道で遊べるわけがありません。
 そもそもこんな幼い子を一人で遊ばせる親がいるでしょうか。
「ちょっと君さ、どこの小学校?」
 僕は向きを変え、その子に近づきました。すると道の奥の方にその子が走っていってしまったので、追いかけました。
「おーい、待ってってば!」
 するとその子は急に足を止め、僕からボールを取り返すと、どこかに走っていってしまいました。
「…………何だったんだ、あの子は?」
 行動や動機にまるで意味を感じません。
 僕は来た道を戻り、コンビニに向かいました。何やら騒がしいことになっていました。
 何と、トラックがコンビニに突っ込んだのです。
 ガラスが割れ、商品が散乱し、さらに誰かが流した赤い血が。後で知った話ですが、その事故で死者が出たそうです。
 巻き込まれなかったことが幸運だったと思いつつ、僕の頭の片隅には、
(あの子が絡んでこなかったら、死んでいたのは僕だった?)
 偶然に感謝しました。
 この時はまだ、偶々だったと思ったのです。

 高校三年生の夏ごろの話です。高校生活では僕は勉強を頑張って内申点を上げまくりました。
「指定校推薦で大学に進みたい」
 そのことは両親も担任の先生も納得してくれました。だから僕は定期試験を頑張り、高得点と好成績を三年間維持しました。
 しかし、推薦で誰がどの大学を受けることになるのかは、成績表では決まりません。僕の通っていた高校では校内模試を行い、その成績順で大学を選べる仕組みでした。ですので良い大学に行きたいのなら、その校内模試で上の順位に食い込む必要があります。
 つまりその日の校内模試は、今までの高校生活の集大成なのです。
 朝から緊張していて、満足に朝食を食べることができなかった記憶があります。
「い、行ってきまぁす……」
 そんな僕の様子を見て両親は、
「車で送ろうか?」
 と提案してくれましたが、僕はいつも通りバスで通学することを選びました。
 バス停までは十分くらい歩きます。単純に足を動かしただけで、心臓がバクンバクンと鼓動を高めます。
「ふ、ふう……」
 たどり着きました。まだバスは来ていません。
「すみません」
 僕の肩をツンツンと指で刺しながら、誰かが声をかけてきました。
「は、はい?」
 振り返ると、そこには女の子がいました。年齢は中学生くらいでしょうか? 捨て切れていない幼さを抱えた制服姿の子です。
「市立図書館に行きたいんですが」
 その子は僕にそう言いました。そこに行きたいのでしょう。
「地図はある? あの図書館へなら、地下鉄で行かないと。駅は……」
 今立っている道を北に進めば、地下鉄の駅があります。そこから電車に乗って、五駅目です。改札を出たところに案内板があったはずなので、歩いて駅に行きさえすれば、それ以上の案内はいらないわけです。
 しかし、
「道を教えてください」
「え? だ、だから、まずはこの道を真っ直ぐ……」
「連れて行ってください」
「は、はあ?」
 その子は地図を広げようとせず、僕がスマートフォンで表示した地図アプリを見もせず、
「連れて行ってください」
 とだけ、言うのです。
(う~ん……)
 僕は悩みました。今日は大事な校内模試なので、それを理由にこの子の要望を無視することもできるわけです。しかしそうやって突き飛ばすのはかわいそう。
(地下鉄を使って高校に行くことはできる…か)
 一番面倒なことにならない方法を選びました。幸いにも僕が通っている高校は、地下鉄でも行けます。最寄り駅も図書館がある駅の一つ隣です。僕はいつも早めに学校に行くようにしていたので、ちょっとは余裕がありました。
「わかった、案内するよ。でも、電車を降りたら一人で行くんだよ?」
「お願いします」
 バス停から離れ、地下鉄の駅に向かいました。階段を降り、切符を買ってその子に渡し、改札を一緒に通過しました。
「あ、あれ?」
 ホームに降りた際に気づいたのですが、さっきまで側にいたあの子がいないのです。改札を通る時は確かにいました。僕は階段の周辺とホームを探しましたが、いません。
「えええ……」
 ほどなくして電車が参ります。仕方なく僕は乗り込み、高校に向かうことにしました。
 電車に揺られながら、僕はある不自然なことについて考えていました。
(あの子……。中学生くらい? でもこんな平日の朝に、どうして中学校じゃなく図書館に行こうとしていた?)
 はぐれてしまった以上真相は聞けないわけですから、もうあれこれ考えても仕方ありません。不登校の子で、学校に行くよりも図書館で勉強した方が身のためになるんだろう、と無理矢理結論付けることにし、僕は校内模試に集中しました。いつもより少し遅れて高校に到着し、試験のためにスマートフォンの電源を切りました。
 帰りのホームルームで電源を入れた時、僕は両親から着信が大量にあったことに気づきました。慌てて家にかけ直すと、
「どうしたの?」
「あんた、大丈夫?」
「何かあったの?」
 母は教えてくれました。僕がいつも通学で使っている時間帯のバスが、事故に遭ったということを。
「今日は電車にしたんだよ」
「なら、良かった……! 無事なんだね!」
 後で知ったのですが、その事故では怪我人こそ数人出ましたが、死者はいなかったそうです。
 僕は、電車で良かったと感じました。事故に巻き込まれたら、激しく動揺してしまい試験に集中できなかったでしょう。遅刻すれば、そもそも受けられなかったでしょう。
(あの子のおかげだ。でも、どこの子なんだろう?)
 あの女子中学生が僕を地下鉄の駅まで向かわせなかったら、僕は……。
 その先を考えようとすると、ゾッとします。

 校内模試で良い成績を取れ、指定校推薦も上手くいき、僕は希望の大学に進学できました。初めての一人暮らしに期待が高まりました。
 その大学生活の一年目の、夏休みのことです。僕は入ったサークルの飲み会に参加する予定がありました。
「六時までまだあるな。ゲームしようぜ」
「いいよ」
 僕の下宿先は大学付近で、飲み会の会場もそこから歩いて行ける場所です。同じサークル仲間の三納(みのう)雄二郎(ゆうじろう)が、僕の部屋にやってきました。
「レポートできた?」
「もう出したけど」
「早っ! 俺なんてまだ一行も書いてないぜ?」
「でも、中身と評価は期待できなさそう」
「おいおい…」
 そんな他愛もない会話をしながら、二人でゲームをします。
「そろそろか?」
 今から出発すれば、余裕をもって会場に到着できる、ふと時計を見るとそんな時刻でした。
「参加費は大丈夫?」
「おう!」
 もとより準備はできていたので、さあ出ようという時です。ピンポーンとインターフォンが鳴りました。
「荷物か?」
「何も頼んだ覚えないけど?」
「親が仕送りしてくれたんじゃねーの?」
「あ、なるほどね」
 住んでいた部屋にはインターフォンはあってもカメラがありませんでした。怪しい訪問販売かもしれないので、ドアスコープを覗いてみました。
「ん?」
 そこには制服姿の女子高校がいました。大学のある地方は初めて訪れた場所でしたので、年下の知り合いなんていません。ですのでかなり不審な訪問者でした。
 数秒、スコープを覗いていると、女子高校が、
「開けてください」
 と僕に向かってドア越しに声をかけてきました。
(もしかして……)
 僕は鍵を開錠し、ドアを開けました。すると女子高校は、
「ありがとうございます」
 と言って、勝手に上がり込んで来ました。
「うわあ、誰?」
 雄二郎が驚いて大声を出しました。
「何? 米沢お前……彼女がいたのか?」
「違うよ」
「じゃあ誰?」
「……知り合い、なのかな?」
「なんだそりゃ?」
 僕は返事に困りました。
 もうこの頃になれば僕は、ある法則に気づいていました。
(女の子が僕を尋ねて来る時、身の回りで何かが起こる。それはほとんどが不幸だ。でも、彼女のおかげで回避できる)
 きっとこの夜も何かを報せに来てくれたのでしょう。
 女子高校はリビングの座椅子に座っています。雄二郎が、
「君、名前は? どこの高校? それって、この辺の制服じゃないよね? 米沢とはどんな関係なの?」
 話しかけましたが、全て無視します。呆れた彼は僕に、
「おい、どうするんだ? もうそろそろ出ないと、飲み会に間に合わないぞ? でもこの子、どうやって追い出す? 親しい仲じゃないんなら、留守番なんてさせられないだろ」
 耳打ちしました。僕は、
「飲み会、僕はキャンセルするよ」
「はあ?」
 キャンセル料を支払ってでも、出ないことにしました。
 この返事に雄二郎は不思議がりました。別に親しい間柄でもない女子高校が突然家を訪ね上がり込んでくるなんて、不気味でしょう。それを受け入れている僕のことも、異常に見えたに違いありません。
「いやいや、ちゃんと説明してくれよ」
「……わかったよ」
 信じてもらえるかどうかはわかりませんが、僕は雄二郎に教えることにしました。中学生の時と高校生の時の二回、女の子に話しかけられたことがキッカケで事件に巻き込まれずに済んだことを、です。
「偶然にしては出来過ぎてるんだよ。だから今回も家を出たら、何か、あるかも……!」
「うむ」
 雄二郎はわかってくれました。そして彼も飲み会を欠席することにしました。先輩に電話をして、急に体調不良に襲われたことにし、こっちの地方に親戚がおらず病院にも詳しくないので、雄二郎が看病に来てくれている、というストーリーを組みました。
 女子高校は僕のベッドの上に腰掛けていました。お茶の入ったペットボトルを差し出すと、飲んでくれました。僕と雄二郎は続けていたゲームをしました。
「お前さ、この話を知ってる?」
「急に何だよ」
 雄二郎が落ち着いたトーンで僕に話を切り出しました。
「妖怪が予言してくれる話」
「うん? 何だそれは?」
 当時の僕の中では、妖怪=人間に害を成す物の怪、というイメージがありました。
「その妖怪は疫病や災害を事前に予言するんだ。それで助かった人もいるんだとか」
「それがどうかしたの?」
「あの子がそうじゃないのか?」
 雄二郎には、そっち方面の知識が少しあったのでしょう。
「いや待ってよ! そんな馬鹿な話があるかい?」
「だけどさー。そう考えると合点が行くんだよな」
「どうして?」
 不幸を予言する妖怪が僕の前に現れ、助けてくれる。雄二郎はそう言いたいのです。根拠は、
(くだん)は女性の格好をしているんだ」
「くだん?」
 初めて聞く名前です。
「何て表現するのかな。顔が人間で体が牛っていう、ミノタウロスの逆バージョン? 予言をしてくれる妖怪って結構いて、その内の一体が件なんだ」
「でもあの子は、体が人間だぞ?」
「ある程度は化けられるのかもな」
「そうだとしても! どうして僕の前に? 僕が預言者に選ばれたとでも言う気?」
「う~む。そこは……」
 僕に推測を聞かせてくれました。
「お前が件にとって、お気に入りだからか? 何か、優しいことでもしたとか? 恩返しみたいな感じに。心当たりはないか、牛に関して」
「牛?」
 真っ先に思い当たったことが一つありました。小学生の時、牧場で可愛がっていたモー子のことです。
「まさか……」
 僕は女子高校の方を向きました。雄二郎の推理が正しければ、死んだモー子が妖怪に生まれ変わって僕の前に現れたことになります。
 そのこと……僕が彼女の正体を察知したことに勘付いた女子高校は、持っていたペットボトルを床に落とすと、何も言わずに家を出て行ってしまいました。
「おい、待ってくれ!」
 急いで追いかけましたが、間に合いません。逃げられてしまいました。
(あの子が……。モー子だったなんて)
 幼い頃を思い出しました。モー子の死はとても悲しかったことです。でも同時に、妖怪になってまで合いに来てくれていたことは嬉しいことでした。
 結局、僕が入っていたサークルはその夏休みに潰れました。あの日の飲み会で出会った他の大学のサークルと意気投合し、そのまま合同の飲み会に発展したらしいのですが、そのサークルが違法薬物を持っていて酔った勢いで吸引してしまい、飲み会参加者が全員、逮捕される事態を引き起こしたからです。もちろん参加しなかった僕と雄二郎は無事でした。

「あの時に雄二郎に彼女の正体を教えられて以降、僕は件には会えていません」
 蔵人はそう、過去の回想を締めくくった。どういう理由があるかはわからないが、出てきてくれなくなってしまったと言う。
「もう一度だけでいい、声が聞きたいんですけどね」
「妖怪が恩を返してくれるとは……」
 俺は思った。子牛は蔵人に、危険な目に遭って欲しくないのだろう。そう望んだからか、そういう能力を持った妖怪に生まれ変わり、そして彼のことをサポートする。
「何で教えてくれなかったんでしょう? 最初に言ってくれれば、もっと仲良くなれたかもしれなかったのに……」
「まあそれは昔話でもよくあることだ」
 鶴だって恩返しの際、正体はバレてはいけない制約があるのだ。件に同じような条件があってもおかしくはないはず。
「でも、僕は未だにモー子が助けてくれていると思うんですよ。姿を見せないだけで、ずっと側にいてくれている気がするんです」
「どうしてそう思うの?」
「時より、牛のことが頭を過るんです。直前に全く関係のないことを考えていても、まるで記憶がフラッシュバックするかのように、です。それってもしかしてモー子が、危ない、って叫んでいるみたいなんです」
 その度に、身の回りで事故が起きると言う。そして事前に警告されているので、蔵人は回避できているらしい。
「なるほど!」
 蔵人は件の正体を知ってしまった。でも彼と件の絆は、そんなことでは決して途切れるものではないのだ。絆は種族を越え、さらに人間と怪異の間にも芽生える。
「それで前には……」
 話の途中で急に言葉が途切れる蔵人。さっきまで俺と視線が合っていたのに、一瞬目が泳いだ。
「……今、まさに牛が鳴きました。氷威さん、この店を今すぐに出ましょう」
「何か起きるってことか? ここで?」
 足早に立ち去る俺たち。
 その日の夜ホテルで、俺たちが話をしていたコンビニに強盗が現れたことを知った。店を出た、ほんの十分後の出来事だった。
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