その十六 階段と足

文字数 5,718文字

「祈裡、失礼のないようにな」
 俺はそう注意した。何せ今日会う相手は足が不自由な人なのだ。メールで聞いたことが正しいのなら、生まれた時はそうじゃなかったらしい。しかし、車いすに座ってもう十年が経つんだとか。
「でも、自分で起こした事故のせいなんでしょ? だったら自業自得じゃないの?」
「それは無礼の免罪符にはならないからな?」
 そんなことを言う態度を改めて欲しかったので、祈裡の頭をやさしく叩いた。
 さて、祈裡の言ったことも正しい。話の全てを聞くために俺は、メールでやり取りをしていた相手である佐久間(さくま)数彦(かずひこ)に会いに行った。

 あれは、僕が小学生だった時の話。学校で噂が流れていた。でもそういうのって、全国の学校でもよくあって、実際に見たことがある人はほとんどいないけど、学年に一人はいる怪談好きが語り継いでいる話だった。
「校舎の北の階段で、三階から二階に降りる時、段を飛ばして降りてはいけない」
 今思えば、意味がわからない噂だし、当時は曰くなんて聞いたことがなかった。だから馬鹿馬鹿しいと思っていたんだ。
「もし飛ばしてしまうと、どうなるんだい?」
 僕が同級生に聞くと、
「足を取られるらしいよ?」
 と返って来た。
 誰に? どうやって? その答えは、誰も知らない。
 でもそういう噂を信じてしまう齢故か、みんな急いでいても一段一段律儀に下っていくのだ。まあその階段はそんな話があったから、ほとんどの児童や先生が避けて通っていくわけで…。噂の存在もあって人気がなく、立地もあってか薄暗い階段だった。
「僕もみんなに習って飛ばして降りたりはしなかったよ、僕以外もそうしてたもちろん、登ったりもだ。でもあの頃はその手の話がみんな大好きでさ、何組の誰誰がスキップしたとか、ジャンプしたとかいう話は何度も聞いた。そのたびに僕は、その人に直接聞きに行って真偽を確かめた。するとみんな、そんなことはしてない、とか、そもそもそこを通っていない、って答えるんだ」

 僕も小学六年になって、もう卒業間近って頃、その事件は起きた。

 僕は校舎の掃除の時間に、雑巾がけを命じられた。その場所はというと、北階段。それも二階から三階にかけて。
 噂を全く信じてなかった僕は、他に同じ場所を掃除することになったクラスメイトと一緒に掃除に赴いた。何も怯えたり構えたりすることはない。いつも通り掃除すればいいだけだ。箒係が掃き終わると僕は、一段ずつ雑巾で丁寧に拭いた。
「あ!」
 位置関係で言うと上にいた箒係がそう叫んだ。どうやら手を滑らせて、箒を落としてしまったらしい。
「あぶな…」
 僕は横に移動して箒をかわした。のは、よかったんだけど、その時手を置いたのが、既に水拭きした段だった。
「いい!」
 手が滑った。同時に体も階段から転げ落ちた。僕の足は、階段を数段飛ばして、踊り場に着地した。
「飛ばした…」
 その場にいた誰かが、そう呟いた。同時に、校舎全体が数秒間、停電した。まるでその時、何かが学校に舞い降りたかのように。
 そして、僕の話は学校中に広まった。同級生はもちろん、下は一年生まで。上は何と、先生たちまで。
 その日の僕は、そんなに大袈裟とは思ってなかった。だってよくある怪談話だ。それに、階段を数段、飛ばしただけだ。心配する方がおかしいだろう。
 でも、その余裕はその日の夜までだった。正確には僕が、布団に入るまでだ。

 夜、僕は夢を見た。運動会の夢だ。みんな紅白帽を被り、学校の校庭を走る。徒競走だ。すぐに僕の番がやって来る。夢の中でも僕は、全力で走った。けれども途中で転んだ。
「痛い!」
 僕は目が覚めた。そしてすぐに足に手を伸ばした。というのも、あまりにも痛みがリアルだったために、本当に怪我したと思ったからだ。あの、足をひねった時に感じる痛みは、そう簡単に忘れられるものじゃない。あの痛みは本物だったはずだ。でも、僕の足は無事だった。
「ふう…」

 けれども、それで終わりじゃなかった。
「あっ!」
 僕は、家の階段で転んだ。しかも一度や二度じゃない。何度もだ。数え切れないぐらい、足を踏み外す。不可解なことに、慎重に一歩ずつ、一段ずつ降りても必ずどこかで足が滑るのだ。
 しかも家だけじゃない。学校で、塾で、デパートで…。階段であるならば、場所は選ばなかった。エスカレーターでも転ぶのだ。ただ突っ立ているだけのはずなのに、気がつくと体が崩れている。おかげで、建物にエレベーターがある場合は必ずと言っていいほど利用した。けど、僕が乗ろうとするときに限って定員オーバーだったり、整備中だったりした。だから嫌でも階段を使わないといけないのだ。
 僕は、たったの数日で段差という段差に恐れを抱いていた。卒業式の練習中、ひな壇で何度も転ぶ。わずか三段の段差ですら、僕はまともに降りれなくなっていた。だから本番は、ひな壇に登らない最前列にしてもらったぐらいだ。
 あと、夢も一度じゃ終わらない。場所や内容は違うけれど、絶対にどこかで転ぶんだ。
 そしてこの時、気がついたことがある。
「僕は、足を取られる…」
 あの怪談話。それが本当なら、僕の足は…。
 僕はそれ以上を考えたくなかった。でも、嫌でもその先のことを想像してしまうのだ。

 僕はどうにかして足を守りたかった。当然だ。今まで一緒に歩いてきた足。譲れるわけがない。何にも代えられない、かけがえのない存在だ。
 でも、その方法がわからなかった。今ならば、お祓いしてもらうとかあるだろうし思いつける。でも当時の僕は、中学の入学式を控えた、ひよっこだ。思いつけるはずがない。それに近くの神社にお参りに行こうにも、そこには必ず階段がある。登ろうものなら、必ず転ぶ。幼い僕に、とても行ける場所じゃない。
 そして春休みがどんどん過ぎていく。僕は少々、引きこもり気味だった。何も首を傾げるようなことじゃない。出かければ、絶対に階段がある。僕は既にトラウマ状態だ。視界に入れたくもなかった。幸いにも、僕の部屋は一階にあった。だから外出しなくても、家の中は二階に上がらないのなら、自由だった。
 時間は止まってはくれない。当時は今ほどインターネットが普及してなかったから、対策を調べることもできなかった。何もできずに時間だけが空しく過ぎて行った。

 起死回生の発想は、そんな中発見した。
「懐かしいな。確か小三の時の国語の教科書だ」
 外出ができない僕の唯一の癒しは、読書だった。過去の教科書を掘り出しては、国語の教科書に載っている物語を読んだ。その中に、ある話があったのだ。
「氷威さん、『さんねん峠』って知ってる?」
「ああ。あの話なら、俺も小学生の時にかじったよ。祈裡も覚えてるよな?」
「えっと、氷威、どんな話だっけ?」
『さんねん峠』…。そこで転ぶと、寿命が残り三年になってしまう峠がある。主人公はそこで転んでしまう。絶望の最中、ある若者がどうすればいいかを思いつく。
「僕は感じたんだ。今の状況は、この物語の主人公と一緒なんじゃないかって」
 主人公は残り三年の寿命に怯えている。僕も、足を取られる恐怖に怯えている。両者とも、転んだせいでこうなった。ある意味、同類だ。
「そして僕は、思ったんだ」
『さんねん峠』の主人公は、問題の峠でもう一度転ぶことで、寿命を三年ずつ加算し、現状を打破した。これと同じことを、僕ができないだろうか?
「子供の発想と言えばそこまでなんだけど…。でも僕は思ったんだ。もう一度、あの階段で転ぶ。そうすれば何か、変わるんじゃないかって」
 今なら思う。もう一度転んでも、取られる足が増えるだけではって。でも当時の僕も普通の精神状態じゃない。本当にそれが、解決策になると思っていた。
 根拠もあった。よくある怪談話には、呪われてしまった場合の救済措置がある。この怪談話にもあってもおかしくはない。そしてそれが、もう一度転ぶという馬鹿げたものであったとしても。
 僕は家を出た。卒業生の僕が小学校に入ることは、何も変じゃない。月はまだ三月。僕は書類上はまだ、小学生なんだ。怪しいことなんて何もないし、罰則もない。
 けれども現実は甘くなかった。
「しまった…」
 僕は思い出した。卒業式の後、校舎には入れない。
「確か、工事だった。何の工事かは覚えてないけど、三月中は立ち入れなかったんだ。そうだ、思い出したよ。老朽化対策だった。当時の校舎はオンボロで、場所によっては改修工事が必要だったんだ」
 その箇所には、あの北階段も含まれていた。だから仮に僕が校舎に入れたとしても、もう一度転ぶことは不可能だった。
 僕を取り巻く運命って、よくできているなぁって思ったよ。
「だって、あの階段は工事でなくなったから。もう僕のような犠牲者は、出て来ない。だから僕は、最初で最後の犠牲者だったんだ」
僕は一人で、足を取られる恐怖と戦わないといけなかった。

 そして、夢にとある存在が現れるんだ。それは顔が骸骨で、鎌も持ってていかにも死神って感じ。それが僕に向かって、言うんだ。
「その足をもらう」
 言葉だけじゃない。死神は実際に、僕の足を鎌で切った。
「うわあああ!」
 僕の足、それも足首から先が、血を流しながら宙に飛んだ。
「ああああああああ!」
 叫びながら僕は目が覚めた。

 その夢は、一度しか見てない。けど僕にあることを確信させた。
「足を切断するレベルの事故が、僕を襲う?」
 予知夢ってヤツなのだろう。それか正夢になるか。とにかく僕は、そう直感したんだ。
「足を取られるって、そういうことか…」
 もうどうしようもなかった。守ることはできないし、呪いを解くことも不可能。後は黙って、足が取られるのを待つだけ。家から出ないって選択肢はなかった。もう一週間もすれば中学の入学式で、中学生活が始まるんだ。引きこもるわけにはいかない。それにもし引きこもっても、家が火事になったりしたら、出なければいけない。出なくてもだ、その事件が僕の足を奪うのだろう。

 ことが動いた、いや、僕が動かしたのはその直後だった。
「どうせ切られるくらいなら…」
 切り落とされるくらいなら、最初から使えないようにしてやる。僕の狂った思考回路がそんな発想を閃いた。健康な足だから、持って行かれるのが惜しいんだ。なら、使い物にならない足なら、いくらでも持って行けよ。
 僕は迷わなかった。家を出て、あることを実行した。僕の家の近くには池があって、外周は二キロほどだ。
 僕が行ったこと、それは絶対に真似してはいけない危険な運動だ。僕は自分の足を、無理に動かして潰してやろうと思った。休みに入って全く動かしてない足に、ワザと大きな負担をかければ、確実に駄目になる。
 準備運動もしないで、最初から全速力で、大きく足を動かしながら池のほとりを走った。これが、僕の足の最期の煌めき。
「うっ!」
 突然の痛みが、両足を襲った。僕は立っていられず、地面に崩れ落ちた。同時に意識も飛んだ。

 気がついたら、ベッドの上だった。足はギプスで固定されていて、動かせなかった。そして医者が家族と話しているのだ。
「アキレス腱が、切れてしまっています…」
 僕の家族は、とてもショックと言いたげな顔だった。でも僕は違った。僕が、意図的にアキレス腱を切ったのだ。それでいい、と思っていた。
 そしてその夜、病院で夢を見た。また例の死神が出て来た夢だ。今度は僕の方から、死神に語り掛けた。
「動かない足が必要か? 興味があるか? 意味あるか?」
 すると死神は、一旦考えた後に、鎌を手放しこう答えるのだ。
「そういう結末も悪くない」

 普通、アキレス腱は切断しても、しっかりとリハビリをしていけば、個人差はあるにしろ、五ヶ月くらいで元のスポーツに完全復帰できるらしい。
 でも僕の場合は、それに当てはまらなかった。四日後にはリハビリが始まったが、上手くいかない。何回同じ手順を踏んでも駄目だ。一向に良くならない。
 何かがおかしいことに、医者は気づく。そして再検査。すると、最初に観た時には無事だったはずの運動神経がプッツリと切れていた。それは、僕の足首から下が、もう動かないことを意味していた。
 その日から、僕は車いすなしでは生きていけない身となった。
 そして、今日までに至るのだ。

「…僕は、誰のせいでもないと思っているよ。だって、踏み外したのは僕だ。それに、アキレス腱を切断したのも僕。もし死神がもう一度夢に出てきたら、僕は聞くよ、『これで満足か』って。そして多分、死神も笑って頷くんだ」
 数彦はそう言った。
「死神ね…。でも何でそうすると思うんだい?」
 俺は疑問をぶつけた。だってそうだろう? 数彦の話が正しいのなら、夢に出て来たのは死神。普通なら、人を殺める存在だ。
「いいや、そうするさ」
 彼は自信満々に答える。
「あの死神は…僕自身なんだ。僕は足を切断せずに済んだ。だから当初は足を守ったと思ったけど、違うんだ。それは誤りさ」
「なるほどね…」
 そう言えば、夢に出て来た死神。鎌で切ったのは足首だったか。数彦が失ったのは、足首から先の自由。それを失わせたのは、数彦自身の行為。
「あの階段で転んだ時僕は、呪われてしまったと感じたんだ。その思い込みが、呪われたと思った自分自身が、足を奪ったんだよ」
 数彦はそう言い、依頼料を受け取ると帰ると言った。だから祈裡が近くの駅まで車いすを押した。俺はただ、彼が前向きに生きていけることを願っていた。
 呪いっていうのは、目には見えない。けれども信じてしまう。その想いは、人を不幸にする。だから、俺は祈ったのだ。足を差し出したから、彼はその呪いから、もう解放されているだろう。でも呪われたと思う心が自分を呪縛することがある。それを自覚することができれば、足が動かなくても前には進めるのだ。
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