その二十一 緑色の魂

文字数 6,511文字

「おいおい…。相手はパソコン初心者か?」
 今度の話を聞かせてくれる人物は、すめらぎやえと言うらしい。几帳面に情報を記入してくれているのはいいんだけど、全て平仮名という暴挙。
「氷威も人のこと言えないぐらいにはメカ音痴でしょ!」
「でも、これは比べるのが酷いレベルだぜ…」
 まあ実際に会ってみた。
「よろしく。あちきは(すめらぎ)八重(やえ)じゃ。そなたが天ヶ崎氷威か?」
「ああ」
 八重は、昭和の時代に取り残されたかのような外見の少女だった。でも流行りの楽曲とか普通にスマートフォンで聞いていたり、大学の講義にもちゃんと出て、最新の農学について学んでいたりするらしい。
「済まぬな。あちきは機械が苦手で…。この前も履修登録がちゃんとできてないと学務課に呼び出されてしまった…」
「よくいるよ、そういう人。単位は大丈夫なのかい?」
「心配は無用じゃ。これでも未だに落単はしておらぬ!」
 成績の方は問題ないらしい。なら心配するのは余計なお世話だ。
「ところで氷威よ、魂の存在を信じるか?」
「そりゃそうよ? まあ国によっては魂=心の場所は胸だったり頭だったり…。そこんところはよくわからないけど、とにかく科学で証明できなくても、存在しているさ!」
 と言うと八重は頷き、
「そうか。それは良い心構えじゃ。これからあちきがそなたに教えるは、動物だけではなく植物にも魂があるということ…!」
 そして語り出した。

 話の舞台は、八重が高校生の時に遡る。その夏休み、八重は田舎の祖父母の家に帰省した。
 その地域では、次のことが語り継がれていた。
「あの森に入っては行けない。木々の呪いで殺されてしまう」
 その話の詳細は、良くわかっていない。神話か伝説か、きっと遥か昔に何かがあった。それで地元の人たちは、森に近寄ることすらしない。
「霧子、入ってみたいとは思わんか?」
 八重には、同い年の従妹がいた。(すめらぎ)霧子(きりこ)だ。八重とはまた違う地方に住んでいるため、会えるのは年に数回、しかも霧子の方も帰省してこの地方に来た時だけだ。八重が昭和な服装なら、霧子は大正時代の女学生の恰好。二人とも、そういう服が気に入っている。
「行ってはならぬと言われておるではないか。そなたもちゃんと覚えておるだろう? なあ八重」
 しかし、八重は引き下がらない。
「行くなと言われると、行きたくなるのが人の性。そうは思わんか?」
「思うぞ」
 意気投合した怖いもの知らずの二人は、その森に行くことにした。

 森への道は、ない。だから二人は雑草を踏み倒して道を作りながら歩いた。
「虫が飛んでいるな…。スプレーかけてくればよかった」
「まあ気にするでない。血なんぞ欲しいだけくれてやれ、蚊だって生きるのに必死なんじゃ」
 そんな会話をしながら、二人は森の中を進む。気がつけば既に日は落ち、辺りは暗闇に包まれる。
 携帯の照明を頼りに歩いていると、木々が開けている場所に遭遇する。
「何じゃ、ここは…?」
 その中央には、池があった。池の湖面は、一切の揺れも生じていない。それほどにその空間は、落ち着いた雰囲気なのだ。
 八重が池に近づき、手を入れてみる。程よい冷たさの水だ。しかも、とてもよく透き通っており、底まで見える。
「おかしいな…?」
「どうしたのじゃ、八重?」
 霧子も池に近づいた。
「見てみよ。池の中には生き物一匹、おらん。森の中のオアシスのようなところなのに、じゃ」
「ああ、言われてみれば…」
 八重が気付いたおかしな点。それは、この池の水が、生き物に使われていないことだ。さっき、蚊が飛んでいた。この森には、蚊の幼虫である孑孑が生息できる水辺があるはずなのに、それはここではないらしい。
 霧子が空を見上げてみると、雲一つない星空がそこにあった。
「客人は、あなたたちでしたか…」
 急に、森の奥から声が聞こえるのだ。
「誰じゃ!」
 二人は同時に、声の方を向いた。
 そこにいたのは、人ではなかった。緑の毛に包まれた、獣。角があっても鹿ではない。爪はあっても熊ではない。尻尾があっても猿ではない。
「何じゃ、コイツ……」
 だが、八重はその獣の出現よりも、自分たちが奇怪な野生動物に遭遇したというのに、あまり焦っていないことに驚いていた。
(見ていると、心が安らぐ…。もっと見ていたいと思ってしまう。あれは本当に何者なんじゃ?)
 霧子も同じ気持ちだったのかもしれない。実際に、二人は足を後ろに動かさなかった。寧ろ、獣に近づこうとした。
「来てはいけません」
 獣はそう言った。
「人間が来ることは、あってはいけない。ここは森の聖域です。愚かな人間に汚されてしまっては、森が死んでしまう。今すぐ帰って下さい」
「なるほど…」
 八重は、どうしてこの森に入ってはいけないと言われているのか悟った。
(森が汚れると、死ぬ。そしてそれは人間のせい。だから足を踏み入れた人を呪って、命を奪う…)
 すると、
「その通りです」
 なんと、獣は八重が心の中だけで思ったことについて返答したのだ。
「私には、森を守る義務がある。日本は、いや世界中はかつて、緑が豊かだった。それを人間が、手を加えて破壊した。違いますか?」
「そうじゃが…」
 霧子が答えた。
「でも、わらわたちは何も、不法投棄とか森林伐採に来たのではない。それは信じてもらえるか?」
「しかし、入ったのは事実でしょう? 人間は賢い。一度足を踏み入れた場所には、必ずと言っていいほど文明を築く。だからこそ、私はあなたたちを逃がせない…」
「そういう事じゃったか」
 八重は疑問に思っていた。そんなに大切な森の聖域に、どうして自分たちが足を踏み入れることができたのか。答えは簡単で、森の獣が、自分たちを逃がさないためだ。
「だが、それは愚かな発想であるぞ。わらわとそなた、どちらが優れているか、証明してみせよう」
 霧子が一歩、前に出た。八重も、
「そうじゃ。あちきたちが愚か者と言うのなら、森の頭脳を測ってやろうぞ」
 と言って一緒に動いた。獣の戦闘力は未知数だが、ここまで来た二人はやる時はやらないといけないと認識していた。
「いいえ、しません」
 獣は、そう言うのだ。
「何て?」
「お二人の命は奪いません」
 驚くことに、獣の方が後ろに下がった。
「何故じゃ? 人間が憎いのであろう? ならばお互い、血を流すしかあるまい?」
「そのやり方は、人間には通じない。私にはわかるのです。一つ一つの森に、聖域があります。しかし、他の獣たちは、守ることができなかった。命を奪おうとする暴力的な方法では、人間には勝てないのです」
 獣は、賢かった。
「人間は愚かです。生きるために必要な自然を、自分たちで潰してしまっている。かつては世界中に存在した聖域も、今となっては数えるばかり。私は他の獣とは違う。私たちが消えるなら、人間もどうせ滅びるのです。自業自得な結末が待っているのなら、それでいい。森は守れなくても、仲間たちの仇は討てる」
 二人は、獣の話を聞いていると複雑な気分になった。先ほど言ったように、二人は自然を破壊しに来たのではない。だが人類を代表して、文句を言われている気がするのだ。
「そうか…。ならばあちきたちは、そなたには何もできぬのか?」
「八重、何を言うのじゃ?」
 霧子が驚いた。しかし八重の瞳は真っ直ぐだ。
「あちきも自然はあった方がいいと思うのじゃ。あの獣は森の魂。森の代弁者じゃろう? 人間とわかり合うことはできぬのか…?」
 すると獣は、
「驚きです。そんなことを言う人間がいるとは…」
 獣によれば、人間が一方的に自然を破壊するだけであるらしい。だから八重のケースは珍しいのだ。
「人間の言うことは、基本的に信じられません。ですが、本当にこの森を守りたいというのなら、そう動いてみせてください。私にあなたを、信用させてください」
 八重は、わかったと言って首を縦に振ると、聖域から出て行った。霧子も一緒に出た。
「八重よ、あんなことを言って大丈夫なのか? あんな存在、信じられんぞ? もしかしたらわらわたち、幻覚を見ていたのかもしれん」
「可能性はあるであろうな。じゃが霧子、あちきは思うんじゃ。森の言い分も正しいと。こうなったら全力で守ってみせようぞ!」
 森から出ると、外は雨が降っていた。

 そして八重は動く。まずは村長の元を訪ねるのだ。そして森の開発計画の有無を聞き出した。ないとわかると、
「なら、あの森は手つかずのままにしておいてくれぬか?」
 と釘を刺した。
 また、次の日には森に自生している木の種類を調べ、同じ木を植林した。この時八重は自然に興味を持ち、そして様々な知識を自分のものにする。

 高二の時、今度は八重だけだが、この地方にやって来ると、森に向かった。
「あの村長なら、この森は安泰であろう」
 森林伐採も開発も、計画されていないことを確かめた。そして八重も霧子も、獣のことを誰にも喋っていない。だから森に足を運ぶ人はいなかった。
 そしてその森は、今年も人を拒んでいた様子だ。できる限り雑草を避けながら歩き、まずは森林浴をした。
「………」
 気持ちいいのかどうかは、良くわからない。だが八重には、この森に存在する、植物の魂の温もりが手に取るようにわかった。
「生きておるのだな、この森は…!」
 その温もりを追いながら歩いていると、木々が開けている場所が目に入る。八重は迷わずそこに向かった。
「今度は、速くたどり着けたな…」
 そこは、間違いない。森の聖域だった。
「あなたは追い返すと、ずっとここを探して森を歩き回るでしょう?」
 森の獣は、池の側にいた。
「獣よ、あちきはしてみせたぞ。小さな事かもしれぬ。が、その一歩が重要であろう?」
「そうですね。あなたには驚きました。この森を構成する、草木もそのことを称え、喜んでおります」
 八重は思った。この森を守りきることができたのなら、きっと人間は自然とわかり合える。
「少し、くつろいでもいいか?」
「構いませんよ」
 八重は地面の上に寝転がった。見上げた空は晴天で、太陽の暑い日差しが聖域に差し込んでいた。次に、立ち上がって池の水を飲んだ。
「美味じゃな…」
 今まで口にした天然水の中で、一番良い味だった。それも自然が為せる技。八重は日が暮れるまで森の聖域にいた。
 そして帰る時に、言った。
「あちきは明日、家に戻らねばならぬ。じゃが、来年もここに来よう。そしてそなたと心を通わせる。なあに心配はいらぬ。ここのこともそなたの存在も、誰にも言っておらん」
「そうですか。ではまた一年後にお会いしましょう」
 獣は歓迎の態度を見せた。そして八重が聖域を出て、もののニ、三歩歩いただけで、あっという間に森を抜けていた。

 だが、次の年に様子がおかしいことに八重は気づく。
「村長が死んだ…?」
 祖母から聞いた。癌だったらしい。そして新しく就任した村長は、その息子だという。
「森を切り開く事業を始めるそうよ」
 祖母の言葉が、鋭い包丁のように八重の心に突き刺さる。本当に血が流れたと思ったぐらいだ。
「そんな馬鹿な?」
 八重は家を飛び出していた。そして森に向かった。去年まではなかったフェンスが立っている。一部ではもう既に、木を切り倒している。
「まさか本気で、森を切り開くつもりか!」
 だとしたら、聖域はどうなる? 消えてなくなるのだろうか。自分は森と人間がわかり合えると言ったのに、森を裏切るのか。
 焦る気持ちが、八重に森の中を走らせた。しかし、一向に聖域が見えてこない。
「そうか、森は思っておるのだな? あちきが裏切ったと!」
 だから、自分を聖域に入れないつもりなのだ。
「森よ、聞け!」
 八重は大きな声で叫んだ。
「あちきは、そなたを裏切ってなどいない! 森の開発は、この村の者が勝手に行ったことじゃ! あちきは関わっておらん! 信じてくれ!」
 だが、返事はない。一度失った信頼は、もう取り戻せないのだろう。八重は諦めようとした。その時、一滴の涙が流れた。その涙の一粒が森を潤した時、八重の目の前に道が出現した。
「そこにおるのか…」
 八重は確信した。この道を通れば、聖域にたどり着けると。
 そして、その通りだった。聖域には獣もいたのだ。
「正直、裏切られたと思いました。でもあなたは違うんですね。あなたの涙を受けた時、その思いが伝わってきました」
「そうじゃ! 今からでもあちきが、皆を説得して…」
「いいんです」
 獣は言った。
「あなたのような人に会えたのは、奇跡でしょう。ですが、そう都合の良いことは何度も起きません。この森はなくなるのです。それはもう、避けられそうにない。鉄の刃が私の体を引っかき、緑を汚すのです。自分が、森が、殺されていく。私には、それを黙って見届けるしかないのです」
 八重も思った。もう、どうしようもないと。
「済まぬ…」
 八重は泣きながら、獣の体をさすった。確かに、傷のようなものがある。毛も抜け落ちており、緑色の肌が露出している。
「本当に済まぬ。獣よ、あちきの努力は無駄だったのだろうか…」
「私は、無駄にはしたくない。ですが、暴力はあまり良い方法ではない。あなたからそれを学びました」
「あるのか?」
 八重はそこに食いついた。暴力というワードに、だ。
「ですが…」
「構わん! このまま何もできず、消えてしまっていいのか! 最後ぐらい、鼠でも噛みつくんじゃ!」
 すると、
「わかりました。ならば、やって消えます」
 と獣は返事をした。
 その後数時間八重は、獣とできるだけ長く一緒にいた。
「消えるのが怖いか?」
「いいえ、ちっとも。仲間も消えたのです。私の番が来ないわけがありません。覚悟はしていましたよ、最初から」
 最後の会話を交わす。その内、重機の音が森の外から響いて来る。
「ああ、また削られました。この森が、消えていく。私にはわかるのです。もう数分も、持ちそうにありません」
 八重にもそれがわかった。聖域が段々、ただの林に変わっていく。池の水が、ものすごいスピードで干上がっていく。
「さようならです。最後に、あなたの名前が聞きたい」
「八重。皇八重じゃ」
「八重…。絶対に忘れません。ですからあなたも覚えていてください。私のように、消えゆく森が存在することを。その森にだって、魂があるということを」
「絶対に忘れぬよ…」
 この時、八重は目を瞑って獣の体に触れていた。が、急にその体の感触が消える。そして目を開くと、木々の中に八重は立っていた。

 八重は聖域がなくなった後数日間、祖父母の家に滞在していた。その間に、新村長は亡くなった。遺体は所々体が削られた。八重は思った。森の獣の魂が、最後に新村長を討ったのだ、と。一部の人は、木々の呪いを受けて死んだと言っていた。
 しかし事件が起きても、人々は森を切り開いてしまうのだった。

「あちきは今でも、森を見つけては歩いておる。じゃが、聖域にはそれっきり入れておらん。きっと、もう日本にはないんじゃろうな」
「そんなことがあったのか」
 俺は、切り開かれてしまった大地を見ていた。ゴルフ場になる前、そんな森があったことに驚いた。
「獣は緑色じゃった。その緑を汚したのは、あちきら人間じゃ。氷威よ、悲しきものじゃな。人と森は、わかり合うことはできない関係なんじゃ…」
 今でも八重はこの地方に来ると、植林を欠かさないという。俺も手伝い、一本の苗木を植えた。
 もしまだ森の聖域があるのなら、その緑色の魂に問いかけてみたい。
 俺らの今の行為は、無駄なんだろうか? 復活できるのなら、戻って来てくれないか? その日が実現できたら俺たち人間も、そんなに愚かじゃないと胸を張って言える気がするんだ。
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