その二十三 最後の授業
文字数 6,784文字
金沢には始めて来たぞ。でも目的は観光ではないのが残念だ。祈裡はまあ、温泉に向かってしまった。民宿で合流するからいいか。
さて、今日の話は学校での出来事だ。意外にも、学舎で起きる怪談話は少なかった気がする。怪談って結構、学校で語り継がれてるイメージがあるのに。七不思議だってそうだろう? 俺のいた学校では聞かなかったけど、それが普通なのかね…?
「こんにちは」
相手は磐井 摩耶 。三児の母とは思えない美魔女だ。この地方で教師をしている。公立の小学校に勤務しているらしく、依頼料は受け取れないとのこと。でも、自分の身の回りで起きたことは伝えたいという、強い意志を持っている。
私が小学校に勤め始めた、まさに最初の年。私は、三年生のあるクラスの担任だった。
「磐井先生、期待してますよ」
新米教師だったため、校長からかけられた期待は大きかった。
「任せて下さい!」
私は元気よく返事をした。そして職員室を出て、自分の教室に向かった。
(この扉の向こうに、最初の生徒たちが待っている…)
緊張しながら取っ手に手をかけた。扉越しに、生徒たちの声が聞こえる。新学期にクラス替えと不安要素があったが、とても元気がいい。
私が少し躊躇っている間、隣のクラスの担任はガラガラと扉を開けて教室の中に入っていく。
(負けていられない…!)
勝手に闘志を燃やし、私は扉を開いた。中に入ると、生徒たちの視線を一斉に浴びた。でも汗の一粒も流さない。注目されるのは、慣れている。
黒板の前に来ると、名前を書いた。三年生には難しい漢字が使われているので、隣にフリガナも書いた。
「今日からみんなの担任の、磐井摩耶です。みんな、よろしくね」
「はーい!」
幼さを隠しきれない生徒たちの返事は大きかった。私はみんなから元気をもらえ、この日の授業を、とは言ってもほとんど自分と生徒たちの自己紹介だけだったけど、無事に終えることができた。
授業が終わっても、だから帰宅とはいかない。教師という職業は少々ブラックで、時間外の仕事も山よりある。今日やるべきことを明日に引き伸ばすことを嫌う私は、まずは生徒全員の顔と名前を覚えることにした。そうでないと生徒と先生の間の信頼関係を築けないからだ。
「彼が吾妻 君で、次は井上 さん…」
写真と座席表を照らし合わせ、一緒に覚える。生徒一人一人の特徴は、昼間の自己紹介の時に頭に叩きこんだ。だから覚えるのは難しいことではない。一晩もあれば十分だった。
次の日から、本格的に授業は始まる。まだ中学年なのに予習をしっかりしてくる子や、ちょっと成績が怪しい子など、様々だった。私は給食を教室に一台ある先生の机で食べることもできたけど、早くみんなと仲良くなりたいから、生徒たちの班に混ざって一緒に食べた。
「へえ、松本君は勉強熱心なんだね!」
「はい、磐井先生! 僕は大きくなったら博士になります!」
松本 敬幸 という生徒は、一番強く印象に残った。
(確かこの子は、さっきの授業でも積極的に手を挙げてくれた子。明るくて思いやりもあるみたいだし、本当に将来は勉学を極めそう!)
この日から数日間の授業でも敬幸君は、真面目だった。というのも三年生なら、授業中にうるさくしたりトイレに行こうとしたりと、集中力がまだ出来上がっていない子が多い中、彼は違った。私が黒板に書けば、必ずノートに書く。口で解説しただけでも、すかさずメモを残す。他にも、誰も嫌がってやりたがらないであろう掃除係や給食当番に真っ先に名乗る。私は彼の母親ではないけれど、本当に将来が楽しみな子だった。
ある日の放課後、昨年敬幸君を受け持った先生に話を聞いてみた。
「ああ…敬幸がですか? 確かに真面目な子ではありますが、僕が担任だった時はそこそこって感じの児童でしたよ? 成績も真ん中ぐらいで、運動能力も飛びぬけているわけではなかったですし…。あまり目立つ子ではなかったですね…」
意外にも、私が感じた印象とは違った。
「なら、僕には本当の姿を見せてくれなかったんでしょうね。心を開いてくれなかったってことです…。でも磐井先生はすごいですね、敬幸に本気にさせるなんて!」
「私は何も、特別なことは…」
返答に困った。まだ三年生が始まって一週間しか経っていない。生徒たち全員が、私に心を開いてくれているとは限らない。これから私の態度一つで裏切られることもあり得るのだ。
「きっと、先生が綺麗だからじゃないですかね? 敬幸って確か、特別仲の良い女子児童はいませんでしたから、女性慣れなんてしていないでしょう。磐井先生を見てドキッとしてしまったのでしょうね…」
冗談交じりに前任の先生は言った。
次の日も、敬幸君の声は大きかった。朝の挨拶から始まり、授業は真面目に受け、ちょっとした手伝いにもすぐに名乗り出る。これが内申点のためじゃなければ、やはり理由は一つしかないだろう。きっと、私に気に入られたいのだ。
敬幸君は放課後、教室にわざわざ残って宿題をした。それが終われば自前の問題集を広げて、自習に励んだ。まだ小さな子なのに、下校には積極的ではなかった。私には、早く帰りたいのではないように見えた。
「お世話になっています、松本です」
「敬幸君の担任です」
家庭訪問の時期が始まった。そして出席番号順で生徒たちの家を回り、いよいよ敬幸君の番となった。
「敬幸君は非常に真面目です。放課後も残って勉強している児童は、同じ学年では他にいませんよ」
彼の家庭は、普通だった。父親は仕事、母親は専業主婦で、弟と四人暮らし。
「先生の話は息子から聞いてますよ。すっごい美人の先生で、優しくて…。家に帰れば先生の話題ばかり!」
「そうなんですか? でも学校では大人しい子でして、それでいて手伝いに抵抗がないんですよ」
「まさか! 敬幸は家の手伝いもしないのに!」
その後も、母親と敬幸君のことで盛り上がった。彼は問題児ではなかったので、肝心の話すことは少なかった。学校でいじめに遭っているわけでもなく、虐待の心配もない。だから用事が終わると、すぐに次の子の家に向かった。
そして、事件は夏休みに起きる……。
私はその時、非番だったので家にいた。録画していたドラマを見ていたのだ。電話が鳴り響いた。
「はい磐井です」
「大変です、磐井先生!」
電話の相手は、学校だった。私は支度をすぐに済ませると、職員室に飛んだ。
「はあ、はあ…。本当なんですか?」
「はい…」
それは、敬幸君の家族が事故に遭ったという内容だった。
「未だに安否不明者がいるそうです。もしかしたら…」
今とは違い、これは二十年ぐらい前の話。だから保護者や生徒たちがメールを送るようなことはないし、ネットも普及してないので情報も全然入って来ない。どこで、誰といる時に事故に遭ったかすらわからないのだ。
「とにかく、情報を待ちましょう」
職員室でできることは、それしかなかった。
次の日も非番だったが、私は朝から学校に向かった。敬幸君の安否が気になってほとんど寝られなかった。
「どうなんでしょう…? 無事を祈りましょう…」
と、教頭先生が言ったまさにその時、機を見計らったように電話が鳴り響いた。
「はい…」
教頭先生が受話器を手に取った。数回頷くと、突然泣き崩れた。
「敬幸君の………死亡が、確認されたそうです………」
私は、目の前が真っ暗になった。
気がつくと私は、宿直室で横になっていた。同僚によると、急にぶっ倒れたらしい。
「あの敬幸君が……」
私はそう簡単に現実を受け入れられなかった。夢の中にいて、幻を見ているんじゃないかと思っていた。そして偽りであって欲しかった。
しかし次の日の新聞に、事件のことは載っていた。当然、敬幸君の名前も。どうやら相手の車は飲酒運転で、敬幸君の乗る車に突っ込んだらしい。そして場所が悪かったのか、敬幸君だけが死亡し、他の家族は不幸中の幸い、命を落とさずに済んだ。
私は家に帰ると、大声で叫んだ。
「どうして! どうしてなの!」
あんなに真面目で、自分を慕ってくれた子が、何故理不尽に命を奪われないといけなかったのだろうか? 私はまるで自分が敬幸君の母親であるかのように、怒り狂った。
「ふざけないで! どうしてなのよ!」
でも、その怒りを受け止める人は誰もいない。空しく部屋の中をうるさくしただけだ。
一時間も叫ぶと、疲れ果ててベッドの上で横になった。そして涙を流した。
数日後、敬幸君の葬儀は行われた。遺影は、一学期に撮った集合写真の切り抜きだった。まだ幼い彼は、笑っていた。
敬幸君の棺の窓は、閉じていた。遺体の損傷が激しかったらしく、見せることができないそうだ。最後の顔を見ることすら、拒まれている気がしてより一層悲しくなった。
クラスメイトはみんな、泣いていた。もちろん私も泣いた。
二学期になると、敬幸君の席には菊の花の小瓶が置かれた。
「みんなも知ってるけど、敬幸君のこと……」
私はこの時のために考えていた文章を教卓の前でみんなに言った。一つは敬幸君を決して忘れないこと。もう一つはありもしない悪口を言わないこと。三つ目は、事故で傷ついたのは敬幸君だけではなく、同じ教室の仲間を失ったみんなもなので、その傷口を広げたり、塩を塗ったりしないことだ。
「もう、してあげられることはないけど、でも落ち込まないで。みんなの元気な笑顔は、敬幸君の宝物だから…」
一学期とはまた違う空気が、教室に流れていた。
でも、一か月、二か月と経つと、立ち直れる子も多くなってくる。最初の頃は休み時間も教室で黙って座っていたが、今では元気に校庭でボール遊びをしているほどだ。
「あの中に、本当なら敬幸君も…」
いや、立ち直れていない人が一人いた。
私自身だ。あんなに懐いてくれていた敬幸君は、もういない。あの元気な返事は、もう聞けない。敬幸君の死に顔を見ていないのだから、未だに嘘であって欲しいと心の中で思う自分がいた。
月命日には、敬幸君の家を訪れた。仏壇に線香をあげた。
「ありがとうございます、先生…。よくクラスメイトが来て線香をあげてくれますよ。思い出話も聞かせてもらっています…」
親御さんの心中は複雑だっただろう。事件のことなど、すぐに忘れたいはずだ。でも敬幸君が学校で生きた証は、同級生と私しか知らない。嫌でも仏壇に向き合う姿を見なければならないのだ。
私は線香をあげた。親御さんは、
「敬幸も天国で喜んでくれているでしょう」
と言った。
「はい。きっと笑顔で見守ってくれてます」
私は返した。
冬休みも目前という時に、それは起きた。
「あら?」
敬幸君の机の椅子が、ズレていることに気がついた。誰かがいじったと最初は思ったが、彼の机に触る人はほとんどいないし、掃除の後は私がキチンと並んでいるかチェックしている。朝の時間で誰かが座ったりも、していない様子だ。
私は椅子を直したが、次の日もその次の日も椅子は、まるで敬幸君が座ったかのようにズレているのだ。
(これは何か、おかしい…?)
私は直感した。連日の勤務で疲れていたが、放課後、誰かが机に触れているのではないかと思い、教室の机に座って雑務をこなしながら見張っていた。
「先生、さようなら。また明日!」
しかし、最後の生徒が帰った。この時椅子を確認したが、動いてはいない。ということは、この後、誰かが触れる。
私は自分の机に戻った。そして疲労が溜まっていたから、少しだけ眠ることにし、机の上にうつ伏せで寝た。
「あっ!」
気がつくと、窓の外も教室も真っ暗だ。どうやら予定よりちょっと長く寝てしまったらしい。
「職員室に戻って家に帰らないと…」
と思い、荷物をまとめようとしたその時、ある異変に気がついた。
「きゃっ…!」
敬幸君の席に、誰かが座っているのだ。しかもよく見れば、血の気のない青白い顔をしている。
でも、私にはそれが誰だかわかった。
「た、敬幸君…?」
尋ねると、私の方に顔を向けてニコッと笑う。席も間違いない。
死んだ敬幸君が、幽霊になってこの教室に戻って来たのだ。
私は驚いた。すぐに逃げるべきと思った。が、敬幸君は机から動かない。どうやら私に襲い掛かる意思はないらしい。
よく観察していると、どこから調達したのやら、ノートと鉛筆を持っている。
「まさか、授業を受けに来たの?」
敬幸君は頷いた。
「……………」
私は言葉を失った。こんなことが、あり得るのだろうか? 疲れすぎて、幻覚を見ているんじゃないのか?
でも、恐る恐る敬幸君に近づいて手に触れると、確かな感触があったのだ。血は通っていないが、そこに存在しているのだ。
(私は…)
どうするべきか、悩んだ。状況的を冷静に考えれば、逃げた方がいいのは一目瞭然。だがそれは、敬幸君に失礼な気がしたのだ。
最近になってここに現れたのには、きっと理由がある。それこそ体のようにバラバラになってしまった魂を元の姿に戻すのに時間がかかったとか、事故現場からここまで歩いて移動したとか。
(やりましょう。敬幸君の、最後の授業を…!)
私は決断した。彼の魂の供養のためにも、授業をすべきだと。
「敬幸君、一時間目は国語でいい?」
すると、敬幸君は頷いた。どうやら声は出せないらしいが、意思疎通は図れる。
「では、始めましょう。日直さん?」
形式だけ、整えようとした。すると敬幸君は立ち上がり、口をパクパクさせると私に向かって一礼した。私も、授業開始の礼をした。
敬幸君が最後に受けた授業は、夏休みの前。だから授業内容はその時に戻した。黒板に重要事項を書くと、敬幸君も指を動かす。言葉は聞き取れないが、指名するとちゃんと挙手し、立って答える。暗くて静かな教室だが、一対一の授業はちゃんと成り立っていた。
二時間目は算数だ。これも難なく終える。その時、敬幸君の姿が薄っすらとなりつつあることに気がついた。
(そうか…。この授業が終わったら敬幸君は、天国に逝ってしまう。だから授業が終わっていくと、この世に未練がないから、消えてしまうのね…)
これが終われば、本当に永遠のお別れ。私は、悲しみを堪え三時間目の理科を始めた。敬幸君の目はまるで生きているかのような情熱的な輝きを放っていた。それが痛いほど、まだ生きていたかった、と伝えて来る。もし彼が生きていたら、来年も担任になれたかもしれない。そう思うとまた、悲しみが心に湧き上がる。
四時間目の社会に突入した。もう敬幸君の姿は、後ろの席がハッキリと見えるぐらい薄い。どうにか引き伸ばせないかとあれこれ考えたが、何も思いつかない。主要教科を終えたら敬幸君は、本当に逝くつもりなのだ。
(彼の意思を邪魔するわけにもいかないわね…)
私はそう思った。本当なら、死者はこの世に留まってはいけないのだ。多分、この世にいるだけで苦しいんだろう。でもそれを我慢して、授業を受けてくれている。だから、主要教科だけで十分だし、最後まで気を抜かずに授業をやり通した。
「では、日直さん……。これで四時間目の授業を終わります…」
私は涙声で言った。すると敬幸君は立ち上がり、授業終了の挨拶をした。
そして、その姿が暗闇に溶けて行くのだ。その時、敬幸君は涙を流しながら何かを言っているように口を動かした。
「敬幸君!」
私はすぐに彼の席に向かったが、遅かった。私がたどり着くころには、もう消えてなくなっていた。ただ、後ろに下がった椅子があり、そして机は、敬幸君の流した涙で濡れていた。
「以上よ。参考になった?」
摩耶はそこで話を切り上げた。
「その生徒を失ったことは…気の毒ですね……」
悲しい話だ。これが教員一年目に経験することか? ハードルが高すぎる。でも、摩耶はそうは思っていない。
「それは敬幸君を失ったことは、とても辛い思い出だけど…。私は、最後に授業ができて本当に良かったと思うわ」
そうだろうね、と俺は相槌を打った。
「だって敬幸君、最後にこう言いたかったのよ、『先生、ありがとう』って」
俺も、感動のあまり少し涙を流してしまった。
幽霊や怪談話と聞くと、大半の人が悪いイメージしか持っていないだろう。でも、違うと俺は言いたい。摩耶の話のような幽霊も必ず存在するのだ。そういう美談こそ、誰かに伝えるべきなのだ。
さて、今日の話は学校での出来事だ。意外にも、学舎で起きる怪談話は少なかった気がする。怪談って結構、学校で語り継がれてるイメージがあるのに。七不思議だってそうだろう? 俺のいた学校では聞かなかったけど、それが普通なのかね…?
「こんにちは」
相手は
私が小学校に勤め始めた、まさに最初の年。私は、三年生のあるクラスの担任だった。
「磐井先生、期待してますよ」
新米教師だったため、校長からかけられた期待は大きかった。
「任せて下さい!」
私は元気よく返事をした。そして職員室を出て、自分の教室に向かった。
(この扉の向こうに、最初の生徒たちが待っている…)
緊張しながら取っ手に手をかけた。扉越しに、生徒たちの声が聞こえる。新学期にクラス替えと不安要素があったが、とても元気がいい。
私が少し躊躇っている間、隣のクラスの担任はガラガラと扉を開けて教室の中に入っていく。
(負けていられない…!)
勝手に闘志を燃やし、私は扉を開いた。中に入ると、生徒たちの視線を一斉に浴びた。でも汗の一粒も流さない。注目されるのは、慣れている。
黒板の前に来ると、名前を書いた。三年生には難しい漢字が使われているので、隣にフリガナも書いた。
「今日からみんなの担任の、磐井摩耶です。みんな、よろしくね」
「はーい!」
幼さを隠しきれない生徒たちの返事は大きかった。私はみんなから元気をもらえ、この日の授業を、とは言ってもほとんど自分と生徒たちの自己紹介だけだったけど、無事に終えることができた。
授業が終わっても、だから帰宅とはいかない。教師という職業は少々ブラックで、時間外の仕事も山よりある。今日やるべきことを明日に引き伸ばすことを嫌う私は、まずは生徒全員の顔と名前を覚えることにした。そうでないと生徒と先生の間の信頼関係を築けないからだ。
「彼が
写真と座席表を照らし合わせ、一緒に覚える。生徒一人一人の特徴は、昼間の自己紹介の時に頭に叩きこんだ。だから覚えるのは難しいことではない。一晩もあれば十分だった。
次の日から、本格的に授業は始まる。まだ中学年なのに予習をしっかりしてくる子や、ちょっと成績が怪しい子など、様々だった。私は給食を教室に一台ある先生の机で食べることもできたけど、早くみんなと仲良くなりたいから、生徒たちの班に混ざって一緒に食べた。
「へえ、松本君は勉強熱心なんだね!」
「はい、磐井先生! 僕は大きくなったら博士になります!」
(確かこの子は、さっきの授業でも積極的に手を挙げてくれた子。明るくて思いやりもあるみたいだし、本当に将来は勉学を極めそう!)
この日から数日間の授業でも敬幸君は、真面目だった。というのも三年生なら、授業中にうるさくしたりトイレに行こうとしたりと、集中力がまだ出来上がっていない子が多い中、彼は違った。私が黒板に書けば、必ずノートに書く。口で解説しただけでも、すかさずメモを残す。他にも、誰も嫌がってやりたがらないであろう掃除係や給食当番に真っ先に名乗る。私は彼の母親ではないけれど、本当に将来が楽しみな子だった。
ある日の放課後、昨年敬幸君を受け持った先生に話を聞いてみた。
「ああ…敬幸がですか? 確かに真面目な子ではありますが、僕が担任だった時はそこそこって感じの児童でしたよ? 成績も真ん中ぐらいで、運動能力も飛びぬけているわけではなかったですし…。あまり目立つ子ではなかったですね…」
意外にも、私が感じた印象とは違った。
「なら、僕には本当の姿を見せてくれなかったんでしょうね。心を開いてくれなかったってことです…。でも磐井先生はすごいですね、敬幸に本気にさせるなんて!」
「私は何も、特別なことは…」
返答に困った。まだ三年生が始まって一週間しか経っていない。生徒たち全員が、私に心を開いてくれているとは限らない。これから私の態度一つで裏切られることもあり得るのだ。
「きっと、先生が綺麗だからじゃないですかね? 敬幸って確か、特別仲の良い女子児童はいませんでしたから、女性慣れなんてしていないでしょう。磐井先生を見てドキッとしてしまったのでしょうね…」
冗談交じりに前任の先生は言った。
次の日も、敬幸君の声は大きかった。朝の挨拶から始まり、授業は真面目に受け、ちょっとした手伝いにもすぐに名乗り出る。これが内申点のためじゃなければ、やはり理由は一つしかないだろう。きっと、私に気に入られたいのだ。
敬幸君は放課後、教室にわざわざ残って宿題をした。それが終われば自前の問題集を広げて、自習に励んだ。まだ小さな子なのに、下校には積極的ではなかった。私には、早く帰りたいのではないように見えた。
「お世話になっています、松本です」
「敬幸君の担任です」
家庭訪問の時期が始まった。そして出席番号順で生徒たちの家を回り、いよいよ敬幸君の番となった。
「敬幸君は非常に真面目です。放課後も残って勉強している児童は、同じ学年では他にいませんよ」
彼の家庭は、普通だった。父親は仕事、母親は専業主婦で、弟と四人暮らし。
「先生の話は息子から聞いてますよ。すっごい美人の先生で、優しくて…。家に帰れば先生の話題ばかり!」
「そうなんですか? でも学校では大人しい子でして、それでいて手伝いに抵抗がないんですよ」
「まさか! 敬幸は家の手伝いもしないのに!」
その後も、母親と敬幸君のことで盛り上がった。彼は問題児ではなかったので、肝心の話すことは少なかった。学校でいじめに遭っているわけでもなく、虐待の心配もない。だから用事が終わると、すぐに次の子の家に向かった。
そして、事件は夏休みに起きる……。
私はその時、非番だったので家にいた。録画していたドラマを見ていたのだ。電話が鳴り響いた。
「はい磐井です」
「大変です、磐井先生!」
電話の相手は、学校だった。私は支度をすぐに済ませると、職員室に飛んだ。
「はあ、はあ…。本当なんですか?」
「はい…」
それは、敬幸君の家族が事故に遭ったという内容だった。
「未だに安否不明者がいるそうです。もしかしたら…」
今とは違い、これは二十年ぐらい前の話。だから保護者や生徒たちがメールを送るようなことはないし、ネットも普及してないので情報も全然入って来ない。どこで、誰といる時に事故に遭ったかすらわからないのだ。
「とにかく、情報を待ちましょう」
職員室でできることは、それしかなかった。
次の日も非番だったが、私は朝から学校に向かった。敬幸君の安否が気になってほとんど寝られなかった。
「どうなんでしょう…? 無事を祈りましょう…」
と、教頭先生が言ったまさにその時、機を見計らったように電話が鳴り響いた。
「はい…」
教頭先生が受話器を手に取った。数回頷くと、突然泣き崩れた。
「敬幸君の………死亡が、確認されたそうです………」
私は、目の前が真っ暗になった。
気がつくと私は、宿直室で横になっていた。同僚によると、急にぶっ倒れたらしい。
「あの敬幸君が……」
私はそう簡単に現実を受け入れられなかった。夢の中にいて、幻を見ているんじゃないかと思っていた。そして偽りであって欲しかった。
しかし次の日の新聞に、事件のことは載っていた。当然、敬幸君の名前も。どうやら相手の車は飲酒運転で、敬幸君の乗る車に突っ込んだらしい。そして場所が悪かったのか、敬幸君だけが死亡し、他の家族は不幸中の幸い、命を落とさずに済んだ。
私は家に帰ると、大声で叫んだ。
「どうして! どうしてなの!」
あんなに真面目で、自分を慕ってくれた子が、何故理不尽に命を奪われないといけなかったのだろうか? 私はまるで自分が敬幸君の母親であるかのように、怒り狂った。
「ふざけないで! どうしてなのよ!」
でも、その怒りを受け止める人は誰もいない。空しく部屋の中をうるさくしただけだ。
一時間も叫ぶと、疲れ果ててベッドの上で横になった。そして涙を流した。
数日後、敬幸君の葬儀は行われた。遺影は、一学期に撮った集合写真の切り抜きだった。まだ幼い彼は、笑っていた。
敬幸君の棺の窓は、閉じていた。遺体の損傷が激しかったらしく、見せることができないそうだ。最後の顔を見ることすら、拒まれている気がしてより一層悲しくなった。
クラスメイトはみんな、泣いていた。もちろん私も泣いた。
二学期になると、敬幸君の席には菊の花の小瓶が置かれた。
「みんなも知ってるけど、敬幸君のこと……」
私はこの時のために考えていた文章を教卓の前でみんなに言った。一つは敬幸君を決して忘れないこと。もう一つはありもしない悪口を言わないこと。三つ目は、事故で傷ついたのは敬幸君だけではなく、同じ教室の仲間を失ったみんなもなので、その傷口を広げたり、塩を塗ったりしないことだ。
「もう、してあげられることはないけど、でも落ち込まないで。みんなの元気な笑顔は、敬幸君の宝物だから…」
一学期とはまた違う空気が、教室に流れていた。
でも、一か月、二か月と経つと、立ち直れる子も多くなってくる。最初の頃は休み時間も教室で黙って座っていたが、今では元気に校庭でボール遊びをしているほどだ。
「あの中に、本当なら敬幸君も…」
いや、立ち直れていない人が一人いた。
私自身だ。あんなに懐いてくれていた敬幸君は、もういない。あの元気な返事は、もう聞けない。敬幸君の死に顔を見ていないのだから、未だに嘘であって欲しいと心の中で思う自分がいた。
月命日には、敬幸君の家を訪れた。仏壇に線香をあげた。
「ありがとうございます、先生…。よくクラスメイトが来て線香をあげてくれますよ。思い出話も聞かせてもらっています…」
親御さんの心中は複雑だっただろう。事件のことなど、すぐに忘れたいはずだ。でも敬幸君が学校で生きた証は、同級生と私しか知らない。嫌でも仏壇に向き合う姿を見なければならないのだ。
私は線香をあげた。親御さんは、
「敬幸も天国で喜んでくれているでしょう」
と言った。
「はい。きっと笑顔で見守ってくれてます」
私は返した。
冬休みも目前という時に、それは起きた。
「あら?」
敬幸君の机の椅子が、ズレていることに気がついた。誰かがいじったと最初は思ったが、彼の机に触る人はほとんどいないし、掃除の後は私がキチンと並んでいるかチェックしている。朝の時間で誰かが座ったりも、していない様子だ。
私は椅子を直したが、次の日もその次の日も椅子は、まるで敬幸君が座ったかのようにズレているのだ。
(これは何か、おかしい…?)
私は直感した。連日の勤務で疲れていたが、放課後、誰かが机に触れているのではないかと思い、教室の机に座って雑務をこなしながら見張っていた。
「先生、さようなら。また明日!」
しかし、最後の生徒が帰った。この時椅子を確認したが、動いてはいない。ということは、この後、誰かが触れる。
私は自分の机に戻った。そして疲労が溜まっていたから、少しだけ眠ることにし、机の上にうつ伏せで寝た。
「あっ!」
気がつくと、窓の外も教室も真っ暗だ。どうやら予定よりちょっと長く寝てしまったらしい。
「職員室に戻って家に帰らないと…」
と思い、荷物をまとめようとしたその時、ある異変に気がついた。
「きゃっ…!」
敬幸君の席に、誰かが座っているのだ。しかもよく見れば、血の気のない青白い顔をしている。
でも、私にはそれが誰だかわかった。
「た、敬幸君…?」
尋ねると、私の方に顔を向けてニコッと笑う。席も間違いない。
死んだ敬幸君が、幽霊になってこの教室に戻って来たのだ。
私は驚いた。すぐに逃げるべきと思った。が、敬幸君は机から動かない。どうやら私に襲い掛かる意思はないらしい。
よく観察していると、どこから調達したのやら、ノートと鉛筆を持っている。
「まさか、授業を受けに来たの?」
敬幸君は頷いた。
「……………」
私は言葉を失った。こんなことが、あり得るのだろうか? 疲れすぎて、幻覚を見ているんじゃないのか?
でも、恐る恐る敬幸君に近づいて手に触れると、確かな感触があったのだ。血は通っていないが、そこに存在しているのだ。
(私は…)
どうするべきか、悩んだ。状況的を冷静に考えれば、逃げた方がいいのは一目瞭然。だがそれは、敬幸君に失礼な気がしたのだ。
最近になってここに現れたのには、きっと理由がある。それこそ体のようにバラバラになってしまった魂を元の姿に戻すのに時間がかかったとか、事故現場からここまで歩いて移動したとか。
(やりましょう。敬幸君の、最後の授業を…!)
私は決断した。彼の魂の供養のためにも、授業をすべきだと。
「敬幸君、一時間目は国語でいい?」
すると、敬幸君は頷いた。どうやら声は出せないらしいが、意思疎通は図れる。
「では、始めましょう。日直さん?」
形式だけ、整えようとした。すると敬幸君は立ち上がり、口をパクパクさせると私に向かって一礼した。私も、授業開始の礼をした。
敬幸君が最後に受けた授業は、夏休みの前。だから授業内容はその時に戻した。黒板に重要事項を書くと、敬幸君も指を動かす。言葉は聞き取れないが、指名するとちゃんと挙手し、立って答える。暗くて静かな教室だが、一対一の授業はちゃんと成り立っていた。
二時間目は算数だ。これも難なく終える。その時、敬幸君の姿が薄っすらとなりつつあることに気がついた。
(そうか…。この授業が終わったら敬幸君は、天国に逝ってしまう。だから授業が終わっていくと、この世に未練がないから、消えてしまうのね…)
これが終われば、本当に永遠のお別れ。私は、悲しみを堪え三時間目の理科を始めた。敬幸君の目はまるで生きているかのような情熱的な輝きを放っていた。それが痛いほど、まだ生きていたかった、と伝えて来る。もし彼が生きていたら、来年も担任になれたかもしれない。そう思うとまた、悲しみが心に湧き上がる。
四時間目の社会に突入した。もう敬幸君の姿は、後ろの席がハッキリと見えるぐらい薄い。どうにか引き伸ばせないかとあれこれ考えたが、何も思いつかない。主要教科を終えたら敬幸君は、本当に逝くつもりなのだ。
(彼の意思を邪魔するわけにもいかないわね…)
私はそう思った。本当なら、死者はこの世に留まってはいけないのだ。多分、この世にいるだけで苦しいんだろう。でもそれを我慢して、授業を受けてくれている。だから、主要教科だけで十分だし、最後まで気を抜かずに授業をやり通した。
「では、日直さん……。これで四時間目の授業を終わります…」
私は涙声で言った。すると敬幸君は立ち上がり、授業終了の挨拶をした。
そして、その姿が暗闇に溶けて行くのだ。その時、敬幸君は涙を流しながら何かを言っているように口を動かした。
「敬幸君!」
私はすぐに彼の席に向かったが、遅かった。私がたどり着くころには、もう消えてなくなっていた。ただ、後ろに下がった椅子があり、そして机は、敬幸君の流した涙で濡れていた。
「以上よ。参考になった?」
摩耶はそこで話を切り上げた。
「その生徒を失ったことは…気の毒ですね……」
悲しい話だ。これが教員一年目に経験することか? ハードルが高すぎる。でも、摩耶はそうは思っていない。
「それは敬幸君を失ったことは、とても辛い思い出だけど…。私は、最後に授業ができて本当に良かったと思うわ」
そうだろうね、と俺は相槌を打った。
「だって敬幸君、最後にこう言いたかったのよ、『先生、ありがとう』って」
俺も、感動のあまり少し涙を流してしまった。
幽霊や怪談話と聞くと、大半の人が悪いイメージしか持っていないだろう。でも、違うと俺は言いたい。摩耶の話のような幽霊も必ず存在するのだ。そういう美談こそ、誰かに伝えるべきなのだ。