その七十二 戦禍の爪痕

文字数 6,482文字

 悲しいことに戦争はいつの時代も起こり得ることだ。人類には知能があるはずだが、どうも暴力的にそれを使いたがる者が一定はいるらしい。
「一番悔しいのはさ、どうやっても一人一人の生活を破壊してしまうことだよな。そうだろう、氷威?」
 俺にそう言うのは、勢力(せいりき)基雄(もとお)。企業戦士として社会で戦っているサラリーマンだ。今日は仕事帰りでたまたま立ち寄った居酒屋で、俺と出会った。
 基雄は結構高めの日本酒を注文すると、
「君は沖縄出身らしいから、ご先祖様もさぞ大変だっただろう。墓参りは毎年しているか?」
「いいえ……。俺は孤児院出身なので親の顔も知らんのです」
「おっと、失礼なことを聞いたな…」
「気にしないでください。そんなことよりも…!」
 俺が急かさなければ、話が始まらないようだ。だから世間話はもう切り上げてしまって、
「では、そろそろお願いしますよ。休暇の出来事、でしたっけ?」
「ああ、そうだ」
 彼の体験した話を聞こう。

 先に言っておくが、私は本土生まれ本土育ちだ。だから北海道や四国、九州なんかには、旅行か出張の時くらいにしか行かない。
「今度の休暇はどこに行こうかな?」
 パンフレットを広げ、そんな呑気なことを呟いていた。ただ、旅行シーズンなので、他の観光客で混み合うところは避けたい。穴場を狙うんだ。
「思い切って海外! は、流石に金がないな……」
 観光地を訪れるとか、温泉に入るとか……。やりたいことはいっぱいある。だが私は、
「のんびり過ごすだけ、っていうのも良さそうだ」
 今回はしっかりと目的を建てた。田舎の方が空いてそうだ。だからパンフレットの端っこを見る。
「ここ、いいかも」
 住んでいるところとは結構離れた地域の民宿だ。海の近くらしい。軍資金と相談しても十分余裕が持てる。
「よし、決めた!」
 私は民宿に電話をかけ、宿泊の予約を取った。

 迎えた休暇、天候には恵まれた。早めに出発したおかげか、何度か電車を乗り継いでも到着までに時間はあまりかからなかった。バスに乗って、目的の民宿がある町に到着した。
「まだ早いよな…?」
 荷物を預けてぶらぶら歩くか? そんな欲に駆られた。
「ごめんください」
 民宿に上がり、部屋に荷物を置くと、私は一旦民宿を出た。散歩をすれば、潮風が心地よい香りを運んで来る。海に出たい衝動も生まれたが、水着がない。
「おや?」
 港にボートが停泊していた。船長はかなり暇そうで、
「乗っていくかい? 向こうの島まで。釣り具も貸せるよ。安くするし」
「あっちの島には何がありますか?」
「穴場スポットなんだ、釣りの!」
 私は特にそういう趣味はないが、
「行くだけ、ではどうですか?」
「ああ、いいよそれでも!」
 暇を潰すために、船長がおすすめするその離島へ行ってみることにした。

 離島に着いた。
「夕方七時頃までなら、迎えに来れる。帰りたくなったら、ここに連絡を入れてくれ」
 電話番号を教えてもらった。私は再び海に出る船長を見送り、この島の散策を開始した。
 ちらほらと民家がある。植木鉢のひまわりが鮮やかだから、ちゃんと生活している形跡もある。よく見ると、桟橋の方に釣り人が何人か見える。
(釣り具、借りればよかったかな?)
 あの船長の言葉に甘えれば、今頃は大漁で、夕食も豪華になっていたかもしれない。
「ま、いっか。のんびり無計画に歩こう」
 釣り人に借りれば良かったかもしれないが、それはできなかった。
「暗くなってきた……?」
 まだ日中だが、太陽光が弱くなっていくのを目と肌で感じた。上を見ると、分厚そうな雲が空を覆い尽くしている。今にも降り出しそうだ。
 海が荒れると民宿に戻れなくなるかもしれない。私は心配になって、船長に電話をした。すると港の役員が電話に出て、
「海が荒れ過ぎで船が出せません……」
 申し訳なさそうにそう宣言された。私は、
「そうですか……」
 とだけ返した。文句の一つを入れても良かったが、そもそも私が船長の誘いに乗ったからこうなっているので、クレームを言う資格がない気がしたのでやめた。
 しかしそうなると困るのが、民宿に戻れないことだ。私はすぐに民宿の女将に電話をし、戻ることがかなり遅くなる可能性があることを話した。
「あっ……」
 ポツポツと大きめの雨粒が降り出した。もうこれは、今日中には戻れないだろう。天気予報を信じて傘すら持ち歩いていない私にさらに、雨宿りする場所を探す必要が生じた。
 おまけに、この離島で一夜を明かさなければいけないのである。
 非常に困った。この島にも民家はあるが、民宿として機能しているかはわからない。親切な人ならいいのだが、知らない人が急に、
「雨宿りさせてください。できれば泊めてくれませんか?」
 なんて訪ねてきたら、誰だって門前払いするだろう。
 雨が酷くなり出した。もう悩んでいる時間はない。私は財布を開き、お金を確認する。現金はきちんと持って来ている。最悪、現金で頼み込んでみる。
 ダメもとで一軒目…ちょうど近くにあった民家のドアを叩いた。
「すみませーん。誰かいませんかー!」
 すると数秒後、ガラガラと横開きのドアが開いた。
「どうしましたかね?」
 家主は五十代くらいの男性で、簡単に頑固なイメージを抱けてしまう雰囲気だった。
(これは駄目だな…)
 一応、事情を話して頼んでみる。すると、
「上がりなさい」
 何と、許可が出たのだ。

 この家主の家は、とても古かった。私が当時抱いた感覚だが、戦前からあるのではないだろうか。
「本当に申し訳ございません」
「気にするな。きっとこの雨は、夜が明けるまで止まないだろう。それまでここでゆっくりしていけ」
 家主の言葉は、私に今夜はここに泊まることを促していた。正直、この時の私にはそれ以外の選択肢はなく、
「これ、先に払っておきます」
 現金を渡した。が、
「すまないが、それは受け取れない」
 と、拒まれた。
(お金がかからない、わけがないだろう? 明日になったら、請求してくるか……?)
 今は雰囲気を壊したくないから、お金を受け取れない。勝手にそう判断した。
 私は居間に通された。ちゃぶ台の側には座布団が二つ敷いてあった。
「妻には先立たれてな……」
「それは、お気の毒に……。他に家族はいないのですか?」
「息子が一人」
 どうやら、一緒に暮らしてはいないようだ。家主は夕ご飯を運んでくれた。
「いただきます」
「ああ、食え。遠慮するな」
 素直な感想を言うと、かなり簡素な料理だった。慣れていないのか、それとも材料が足りなかったのか。我儘は言えないので、私は、
「とても美味しいですね」
 お世辞で誤魔化した。すると家主は、
「美味い酒ならある」
 と言って、一升瓶を持って来たのだ。
「ちょっと待って! 流石に飲めませんよ、そんなものは!」
 よく考えると、私は泊めてもらっている客で、家主は予定外の来客を抱えている。雨宿りしつつ寝床を提供してもらい、さらにご飯までごちそうになっているのに、もうこれ以上の贅沢は精神的に無理がある。
「いいじゃないか。たまには人と語り合いながら飲みたいんだ。私は体が弱くてな、外出はほとんどできないから」
 しかも家主はお金を絶対に受け取らない。私はそんな家主のことを少し不審に思い、
(もしかして、お酒で私を酔わせて金目の物を根こそぎ奪う気では?)
 疑った。
 家主はあまりにもしつこく湯のみを私に押し付けてくるので、
「一杯だけ、ですよ」
 流石の私も少量なら大丈夫だ。覚悟して飲む。すると家主は満足したのか、自分は湯のみに大量に注いで、
「ご機嫌だ。こんな夜はいつぶりだろうか」
 飲んで、すぐに顔を赤くしていた。
 強い警戒心が芽生えていた私は、瓶を家主の代わりに持ち、
「もっと、ぐっといきましょうよ」
 湯のみに注いで煽った。家主の企みは知らないが、逆に相手を酔わせてしまえば、何も手を出せないはずだからだ。
 夕食を食べ終わる頃には、もう家主はろれつが回らず千鳥足になるほどに酔っ払っていた。

「ああ、すまん。へあにもろる。かた、かしてくえ」
「はい、どうぞ」
 家主を自室に送る際、肩を貸した。家の奥に書斎があり、そこの椅子に腰かけたいらしく、指で指示を出された。
「よいしょっと!」
 座ると、すぐに根息が聞こえ出した。私は布団か毛布をかけてやろうと思い、部屋を見回した。
「ない、な……」
 この部屋では寝ないのだろうか? それらしいものが見当たらない。
 ただ、気になる物が一つあった。それは机の上の日記だ。ほとんど話すこともなく食事が終わってしまったことと、私が家主のことを怪しんだこともあって、私は家主がどんな人なのかほとんど知らないのだ。小賢しい悪人なのか、それとも本当は善良な住人なのか、白黒つけたい。
 家主が目を閉じ完全に眠っていることを確認すると、私は日記に手を伸ばした。適当にめくってみる。
「今日は妻が亡くなって、十七年が経つ。まだ妻の温もりを求めている自分がいる。息子は自分とは違い、泣かない。冷たいのではない、強いのだ。我が子はもう精神的に成長している。それが嬉しい。今日はその成熟を祝って、夕飯のおかずを多めにしよう」
 目に留まった文章に、そう書かれていた。どうやら家主は子供に甘い性格らしい。次の日もその次の日も、息子に関する事柄だらけだ。
 ちょっと飛ばしてみる。
「今朝、新聞を読んで驚いた。まさか我が国は、米英とも戦争を始めてしまったのだ。こうなってしまったからには、勝たなければいけない。一国民として、勝利に貢献しなければ。だが私は、体が悪い。この体で戦地に赴くのは無理だろう。悔しい限りである」
 私は驚いた。一瞬、温度の下がった血液が全身を駆け巡った。日記の内容はきっと、真珠湾攻撃に関しての批難だ。だがそれは、もう何十年も前のこと。
(この日記……。書き始めは、いつだ?)
 ページを前の方にめくっていく。最初に現れた年号は、昭和十五年。太平洋戦争が始まる一年前だ。
(ああ、そうか! これはきっと、ご先祖様の日記だ!)
 あり得ないことがあり得るには、そうなっている必要がある。だから私はそう解釈した。
 ページをめくっていく。戦争への批判は当時の情勢もあってか控え目だが、反比例して息子を賛美する記載が徐々に増えていく。
「今日、息子あてに赤紙が来た」
 だが、その日が来てしまう。ご自慢の息子が、兵隊になって戦場に行くことが決まったのだ。その日を境に日記は、
「息子に会いたい」
「早く帰って来てほしい」
「腹いっぱい食わせてあげたい」
 という感じに、息子の無事を願う短冊と化した。
(ん……?)
 次のページをめくったが、白紙だ。この日記は、一九四五年の六月中旬で途切れていた。
 理由は一つしか考えられない。書き手に、書けなくなる事情が生じたのだ。それはきっと、当時を思うに、死……。
 私は一瞬、頭の中がこんがらがった。というのもこの日記の書き手、家主に似ている気がしたからだ。体は悪い、奥さんに先立たれた、息子が一人いるが一緒に暮らしていない。それ以外にも、家が古いことや料理が貧しいことなど。
 だが、家主は今を生きている。見た目は五十代なのだ、半世紀以上も前のことを書き記すことなんて、できるわけがない。
「えっ……」
 私は椅子に座っている家主の方を見た。そこに家主の姿は、なかった。
「あ、あ、あ、あり得ない! こんなこと!」
 すぐに首を振って探したが、家主の姿がない。いいや今は、ある方が都合が悪そうだ。
 とにかく、逃げたい衝動に駆られた。すぐに今に戻って荷物をまとめ、玄関を出る。
「晴れ……てる…?」
 太陽が東の海から顔を出していた。空には雲一つない。日記を読んでいる間に夜が明けたらしい。

「おーい、何そこで突っ立ってるんだ?」
 ボートから降りた船長が声をかけてくれた。
「昨日は迎えに行けず、申し訳ない! 帰りの分は料金、タダでいいよ」
「……すみません。この島の住民について、詳しく知っていますか?」
「へ? いいや、全然」
 この不思議な感覚について、何か安心できる物事が欲しかった。だから私は民宿には寄らず、真っ直ぐ実家に戻った。
「ただいま」
 玄関を開け靴を脱いで上がった時、やっと生きている心地がしたのを覚えている。
 父が、
「旅行はどうだった?」
 と聞くので、私は実際に体験したことを包み隠さず報告した。すると、
「ちょっと待て。じいさんなら何か知っているかもしれない」
 と言うのだ。祖父も呼んで話をする。祖父は話を聞きながら、仏壇の横の押入れを開け何かを探した。
「あったぞ! やっぱりこれに挟まっていたか!」
 それは写真だった。白黒の写真であり、男性が二人写っている。
「こっちの若くてハンサムで、軍服を着ているのが俺だ。出兵のちょっと前に撮ったんだ。戦地でお守りのようにいつもカバンに入れていた写真だ。横の頑固おやじが、ひいじいさんだな」
 驚くべきことに、その頑固おやじは私が旅先で出会ったあの家主と瓜二つなのだ。
「じいさん、どういうこと?」
「うむ……。いつかは話したいと思っていたことだ」
 それは、祖父の後悔だった。
「実は俺は、戦地に送られたが生き残れた。でも終戦後、捕虜になってしまってすぐに日本に戻れなくてな……。戻ってくれたのは十年ぐらい経った後で、しかもひいじいさんは俺が戦場で戦っている間にポックリ死んでいた。他の家族はいなかったし、家も取り壊されて代わりに墓がそこに一つ。遺品は何も受け継げなかった。ひいじいさんとは、「戦争が終わって帰ってきたら、美味い酒を一緒に飲もう」と約束していたのにな、それを果たせなかったんだ」
 祖父はその後、本土の親戚を頼って、生まれ故郷を離れて生きていくことにしたようだ。
「そうだったのか」
 私も後悔した。あの旅行で困った自分を温かく迎えてくれたのは、曾祖父だったのだ。知らなかったとはいえ、どうして冷たい態度を取ってしまったのだろうか。
 私は後日、またあの島に向かった。近所の酒屋で一番高い日本酒を買い、それと湯のみを二つ、持ってだ。
 民家があるはずの場所には、薄汚れた墓石が一つ、ポツンとあった。苗字は私の家のもので間違いない。
「ひいじいさん……。この前は失礼しました」
 私は詫びを入れた。もちろん返事はない。そのまま日本酒を開け、一つの湯のみを墓石に置き、お酒を注いだ。もう一つの湯のみに私の分を注ぎ、
「祖父の代わりに来ました。一緒に飲みましょう」
 私は酒をその場で飲んだ。残りの日本酒は瓶に酒蓋を戻し、墓の横に供えた。

「今思うと、あの旅行の時に天気が悪くなったのは、曾祖父が私に会いたがったが故だったのかもしれないな」
 基雄は日本酒をグイーっと飲み、話を終えた。
「戦争がなければ、二人は約束を果たせたのに……」
 俺にも、悔しい思いが伝わってきた。それを紛らわせるように、俺はビールを飲んだ。
「きっと、息子さん……おじいさんが徴兵されたのが余程ショックで、それで一気に弱ってしまったのでしょう……。病は気から、って言いますし」
「でも、もともと曾祖父は体が丈夫じゃなかったらしいし、いつかは病気で亡くなる運命だったんだと思うぞ? それが戦争のせいで早まったと考えるなら、君の推理も正しい、か…」
 戦争が残した傷跡は大きく深く、そして回復し切れない。誰かの人生は一度狂うと、もう元には戻せないのだろう。
「いやぁそれにしても美味い酒だな、これ! 一本、買おう」
「何故です?」
「ひいじいさんにあげるんだ。またあの島に行くんだよ、その時に湯のみに注ぐんだ」
 なるほど、それが曾祖父への供養になるのだろう。
「おじいさんは一緒には行かないのですか?」
「どうだろう? 誘ったことはあったが、会わせる顔がない、って。プライドの問題らしい。頑固おやじだったらしいし、怒られるのが怖いのかもな~」
 基雄の祖父はずっと約束のことを気にしているのだろう。だが俺は、曾祖父と再会しても叱られないと思うのだ。その約束は子孫……基雄が、時を世代を越えて果たしたのだから。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み