その四十二 人と狼の間
文字数 5,563文字
狼男という単語を知らない人はいないと思う。実在するかどうかは怪しいのだが、結構有名だから。別名ワーウルフやライカンスロープとでも言おうか? 海の向こうでも語り継がれているのである。
その性質は、何もここで詳しく解説することもないだろう。満月を見ると狼に変身してしまう。以上だ。
何でこんなことを一々説明を? と思うかもしれない。しかし、俺が出会った獣医、白雪 蓮花 は、
「嘘じゃないわ!」
と強く主張する。でも証拠はない。曰く、
「私の体験したことが全て! 全部実話なのよ」
らしい。
「でもにわかには信じられないな…。狼男と恋をしたって?」
でも、そういう信じがたい話=怪談なので、もちろん金を払って聞かせてもらう。
「いい? 人と狼の間には壁なんてないのよ! まずは出会いから…」
ちょっと長くなりそうだが、付き合うことにしよう。
私が高校生の時、彼と出会った。名前は波島 希一 。第一印象はごく普通の男子って感じで、決して表立って活躍したりはないけど、かといって暗い性格というわけでもない。それに私は隣の席になったりもしなかったので、特別意識する相手でもなかった。
でも、気になる点が一つ。彼は放課後、全く教室に残ろうとしない。部活にも入っておらず、帰りのホームルームが終わると誰よりも先に家に帰ってしまう帰宅部のチャンピオンだ。クラスの雰囲気に馴染めないわけではなく、当時の友人たちによれば休日、遊びに誘えば喜んで参加してくれたとのこと。でも門限が厳しいとか言って、早めに帰るらしい。
正直、この時期の私は完全に彼のことなど頭に入っていなかった。
けれども、期末テストが近づいた頃のこと。
私は放課後、暗くなるまで残って勉強をしていた。希一も中間で赤点を取ってしまい、補講に強制参加させられていた。
「次のテストは、しくじれない…」
そこでも赤点だと、夏休みがなくなるレベルの夏期講習に参加しないといけなくなる。だから私も彼も、クラスメイトと共に頑張っていた。
そして数日後のことだ。学校を出ると結構暗くなってしまった。
「あちゃ~。速く帰んないとドラマが始まる…」
私は夜道を歩いていた。すると、
「あれ、蓮花さんじゃない?」
希一が話しかけて来たのだ。
「わ、ビックリ! こっち方面に家があるの?」
そうではないらしい。その日は用事があるようで、いつもと違う道を行くことになったとか。
彼と二人きりだったのでいくらか話した。教室での雰囲気とは違い、結構会話が続くタイプだった。
「おい!」
そんな私たちの前に現れたのは、三人組の不良。当初無視しようとしたが、私の腕を掴んで、
「遊びに行こうぜ、お嬢ちゃん?」
と、強引に引っ張る。
「やめてよ!」
「うるせえ!」
日本語は話せるらしいが、会話はできないようだった。そこで希一が、
「君たち、やめなよ。困っているじゃないか」
と言ったがそれは火に油。
「ああ? てめえは黙ってやがれ!」
彼は不良に殴られた。地面に崩れた希一にさらに不良は追い打ちを仕掛け、腹に蹴りを入れる。
「うぜえ野郎だな! 雑魚のくせに!」
「さ、行こうぜ? まずはホテルか?」
私はこの時、もう終わったと思った。
だが、信じられないことが起きる。
「………今日は起きると思ったんだ。匂いがするからな。それで来てみて正解だった! お前たちにとっての不幸は、今日が満月だということ!」
そう叫んだ希一は空を見上げ、月を目にする。
「何言ってんだコイツ? 頭大丈夫か?」
不良たちはとても調子がいい。しかし、すぐに青ざめることになる。
何と、満月を見た希一の体が、急に変化し始めたのだ。白色の肌に、獣のような毛が生え、頭の形も変わり、そして腕を地面の上に下ろした。
「な、何だコイツは?」
その変化はあっという間に終わった。
そこにいたのは、人間ではない。狼だ。
「ワオオオ…」
鋭い目で不良たちを睨むと、同時に飛びかかる。
「うぎゃあああああああ!」
まず一人が、腕を噛まれた。ボキッと骨が折れる音がした。
「何だあコイツは!」
一瞬で危険性を判断した不良は、近くに落ちていた鉄パイプを持ってその狼に挑んだ。だが、素早い動きに翻弄されて全く当たらない。逆にわき腹を噛まれて悶絶。
「ああああああママああああああ!」
凄まじい戦闘力だ。私は恐怖で声が出せなかった。
「あ、あああ……」
最後の三人目は、逃げることを選んだ。そして負傷した二人も、その後を追って逃げた。
「ど、どうなっているの…?」
私は目の前で起きたことがまるで理解できていない。
「グルル…」
狼は、そのままどこかへ去ってしまった。現場には希一のカバンだけが残されていた。
私は次の日、彼のカバンを持って学校に行ったが、肝心の希一は欠席だった。
(何かあるに決まっている…)
そう感じた私は担任に聞いて希一の住所を教えてもらうと、放課後の補講をサボって彼の家に直行した。
彼は、アパートに住んでいた。インターフォンを鳴らすと、
「荷物だけ置いて帰ってくれない?」
と言われたが、
「昨日のことを教えてくれないと帰らない!」
私は強引にそう言い、そして扉を開けて中に入った。
希一は一人暮らしであるらしい。でも家具をダンボールに仕舞う作業をしていたのだ。
「あの不良たちはどうでもいい。でも、知人の蓮花さんに見られてしまった。もうこの辺にはいられない」
訳アリの様子だったので、私は、誰にも話さないから昨日何があったのかを教えてくれ、と頼んだ。
「……いいよ」
彼は答えた。そして全てを教えてくれた。
「僕は……狼男だ。昨日は満月を見たから、狼になったんだ。あの状況で蓮花さんを救うには、それしかないと思った。でも、正体がバレてはもう学校には通えない…」
事態は結構深刻で、彼はこの町から出て行くつもりだったのだ。
「待ってよ! 私は誰にも言わないよ? なのにどうして…」
いなくなっちゃうの? と言おうとしたが彼に妨げられた。
「一族で、そう決めているんだ。僕らは一般人に正体を教えちゃいけない。本当はこの日本に溶け込んで生活する権利もない。でも、僕は一人の人間として社会を学びたいと思っていた。それが昨日で終わり」
完全に私のせいだ。だからどうしても希一に謝るべきだと思ったのだが、
「蓮花さんの責任じゃないよ。いずれはバレる……いつまでも隠し通せることじゃないんだ。それが速かっただけのこと」
彼はもう、決意を済ませていた。
私はちょっと混乱していて、
「もしいなくなるって言うなら、今から希一の正体を学校中にバラすよ? このアパートの人たちにも! だからお願い、いなくならないで!」
無茶苦茶な脅しをしてしまった。
「できるのかい? 僕が狼になれば、君を黙らせるなんてワケないよ? 昨日見ただろ? 狼になれば、人なんて敵でも何でもない…」
彼も引かない態度。でも、
「満月は昨日! 次は一か月後ね。違う?」
希一は一晩しか狼にはなれない。それがわかっていたので彼の脅しは怖くなかった。
「…………結構度胸があるね…」
先に折れたのは彼だ。
「本当に、秘密にしてくれる?」
もちろん、と私は首を縦に振った。
「じゃあ、もうちょっとだけ学校にも通おうかな…」
そう言うと、梱包していた家具を取り出し始めた。
「まずはテスト勉強しないとね。赤点取りたくないでしょ?」
強引に話題を変え、私は彼に深刻に考える暇を与えなかった。それが功を奏したのか、彼も普通の会話をしてくれたし、次の日も元気に学校に来てくれた。
テストは私も彼も、何とか乗り切った。その夏休みに私は彼の家に行った。狼男というものに興味が湧いたためだ。当初は脅してでも聞き出そうとしたが、
「蓮花さんになら安心して教えられるよ」
と言うので、聞かせてもらった。
彼が言うには、普段は普通の人間と全く同じであるらしい。驚異的な力はなく、かと言って著しく知能が低いわけでもない。
しかし、満月を見ると話は別だ。どういう原理かは彼自身もわかっていないらしいが、月が真円を描く時、狼へと姿を変える。この時、ヒグマ並みの力を出すことができるが、頭の方は人をぼんやりと認識できるレベルまでガクッと落ちるそうだ。
「……だからあの時、不良たちを退けたら逃げるしかなかった。そうしないと蓮花さんにも襲い掛かりかねないから。そういうことはしたくはない」
そんな優しさも狼になると失うらしい。
「すごく不思議なんだけど、希一君はどうやって生まれたの?」
失礼な質問だということは十分に把握している。でも気になって仕方ないのだ。彼が存在しているということは、両親がいないとおかしい。
「まさか、食べちゃったとか……?」
「そんなまさか。生きている」
私の言葉は冗談で済んだ。
が、
「でもね、元気ではないんだ」
深刻そうに言うのだ。
「どういうこと?」
その先を彼は教えてくれた。
「実はね……。ある時が過ぎると、狼になって人間に戻れなくなってしまうんだ。だから僕の親は、海の向こうの動物園で飼育されている。人間だった頃の記憶はなくなってしまうのか、僕が顔を見せても反応がない…」
そんな残酷な運命が、彼には待っているのだ。
「じゃあ、私と出会ったこともいつかは忘れちゃうの?」
目を逸らして彼は頷いた。
「こればっかりは、変えようがないんだ……」
いつか、人間の姿を捨てて狼になる。それは彼にとってとても辛いことだろう。本当の自分の姿は人間ではなく、狼であることの証明にもなってしまうし、今までの人生が否定されている感覚もあるのだ。
「だから、蓮花さんも僕のことは忘れていいよ」
悲しいことを言う彼。私は、
「なら、今のうちに人であったことの幸福を味わおうよ!」
その未来から目を背け、彼を連れ出した。
私は彼の秘密を知ってから、とても彼に興味関心を抱いていた。そんな彼が、いつの日か獣の姿になって記憶もなくしてしまう。そう思うと嫌な感情ばかりが心の中で生まれる。
「今日は思いっ切り遊びましょ!」
遊園地に二人で行った。彼はそういうところには行かないような性格であったらしく、
「面白いね」
と喜んでくれた。私はいつまでも一緒にいられたら、と思った。でもそれは、叶わない夢。
(なら、せめて希一が狼になってしまうその日までは…)
そう思って、私は彼と一緒にいた。学校でも一緒に行動していたので同級生にからかわれたが、それでも構わなかった。彼も気にしていなかった。
大学受験の時期、私は彼に、獣医になると宣言した。
「何でさ…?」
彼は困惑している様子だった。私の成績なら獣医学部には十分合格はできることは知っていても、どうして獣医になりたいのかまではわからないらしい。
「だってそれになれれば、狼になった希一の治療とかできるじゃない? 健康状態のチェックもできるだろうし、そうすれば長く一緒にいられるでしょ?」
私の原動力は、純粋だった。ただ、彼と最後まで一緒にいたい。それだけだ。
彼は私の宣言に驚いていたが、
「蓮花がそう言うのなら、頑張って!」
最後には励ましてくれた。
受験は無事に終わり、私はある夜に彼のことを呼び出した。
「でも、今夜は……」
彼は渋った。当たり前だ、この日は満月。彼の本当の姿が露わになる夜。
けれども私は強引に彼を人気のない公園に連れ出した。
「もし僕が蓮花を傷つけるようなら、容赦なく殺して構わない…」
彼は覚悟を決めて、満月を見た。するとすぐにその姿が狼に変わる。
「ガブウ…!」
凶暴な外見だったが、私は彼の頭を撫でた。
「ウガ?」
それに反応し、構える彼。でも敵でないと判断してくれたのか、大人しく座ってくれた。
「本当の姿でも、必ず愛してみせるわ…」
私は狼の彼を抱きしめると、そう言って泣いた。
普通の人間と狼男。決して結ばれるべきではない関係だが、その間に溝はなかった。
「……というワケよ」
蓮花の言葉は説得力があり、嘘を言っている目でもない。
「狼男か……」
俺は当初、話に説得力を持たせたいなら最初からその希一とやらを連れてくればいい、と思っていたが、
「最後には、狼になってしまうとはね…」
そんな事情があるなら、それはできない。
結局、蓮花の想いは無駄になってしまった。
「違うわよ?」
意外にも、俺の考えを察したらしく彼女はそう言う。
「え? だって彼をここに連れてこれなかったのは、彼がもう狼になって人間に戻れなくなったからじゃないの?」
違うらしい。
「私の想いを受けて、彼も前向きにことを考えてくれたのよ。今、海外にいるわ」
「それは、両親と同じ動物園?」
「違う違う! 確かドイツの……えーと何て言ったかなあ? まあ今は修行に行ってるのよ。そこには狼人間が今でも暮らしているらしく、もしかしたら人間の姿を保つ術を知っているんじゃないかって」
なるほどそれは希望に満ちているな。
「でもさ……ダメだったらどうするんだい?」
「大丈夫よ、彼は必ず人のままで日本に帰ってくるわ」
蓮花は、彼のことを信じているらしい。その自信の源は間違いなく純粋な愛だろう。
人の想いというものは、とても神秘的なものだ。もしも希一が人間に戻れなくたって、蓮花は最後まで側にいてくれるのだろう。
その性質は、何もここで詳しく解説することもないだろう。満月を見ると狼に変身してしまう。以上だ。
何でこんなことを一々説明を? と思うかもしれない。しかし、俺が出会った獣医、
「嘘じゃないわ!」
と強く主張する。でも証拠はない。曰く、
「私の体験したことが全て! 全部実話なのよ」
らしい。
「でもにわかには信じられないな…。狼男と恋をしたって?」
でも、そういう信じがたい話=怪談なので、もちろん金を払って聞かせてもらう。
「いい? 人と狼の間には壁なんてないのよ! まずは出会いから…」
ちょっと長くなりそうだが、付き合うことにしよう。
私が高校生の時、彼と出会った。名前は
でも、気になる点が一つ。彼は放課後、全く教室に残ろうとしない。部活にも入っておらず、帰りのホームルームが終わると誰よりも先に家に帰ってしまう帰宅部のチャンピオンだ。クラスの雰囲気に馴染めないわけではなく、当時の友人たちによれば休日、遊びに誘えば喜んで参加してくれたとのこと。でも門限が厳しいとか言って、早めに帰るらしい。
正直、この時期の私は完全に彼のことなど頭に入っていなかった。
けれども、期末テストが近づいた頃のこと。
私は放課後、暗くなるまで残って勉強をしていた。希一も中間で赤点を取ってしまい、補講に強制参加させられていた。
「次のテストは、しくじれない…」
そこでも赤点だと、夏休みがなくなるレベルの夏期講習に参加しないといけなくなる。だから私も彼も、クラスメイトと共に頑張っていた。
そして数日後のことだ。学校を出ると結構暗くなってしまった。
「あちゃ~。速く帰んないとドラマが始まる…」
私は夜道を歩いていた。すると、
「あれ、蓮花さんじゃない?」
希一が話しかけて来たのだ。
「わ、ビックリ! こっち方面に家があるの?」
そうではないらしい。その日は用事があるようで、いつもと違う道を行くことになったとか。
彼と二人きりだったのでいくらか話した。教室での雰囲気とは違い、結構会話が続くタイプだった。
「おい!」
そんな私たちの前に現れたのは、三人組の不良。当初無視しようとしたが、私の腕を掴んで、
「遊びに行こうぜ、お嬢ちゃん?」
と、強引に引っ張る。
「やめてよ!」
「うるせえ!」
日本語は話せるらしいが、会話はできないようだった。そこで希一が、
「君たち、やめなよ。困っているじゃないか」
と言ったがそれは火に油。
「ああ? てめえは黙ってやがれ!」
彼は不良に殴られた。地面に崩れた希一にさらに不良は追い打ちを仕掛け、腹に蹴りを入れる。
「うぜえ野郎だな! 雑魚のくせに!」
「さ、行こうぜ? まずはホテルか?」
私はこの時、もう終わったと思った。
だが、信じられないことが起きる。
「………今日は起きると思ったんだ。匂いがするからな。それで来てみて正解だった! お前たちにとっての不幸は、今日が満月だということ!」
そう叫んだ希一は空を見上げ、月を目にする。
「何言ってんだコイツ? 頭大丈夫か?」
不良たちはとても調子がいい。しかし、すぐに青ざめることになる。
何と、満月を見た希一の体が、急に変化し始めたのだ。白色の肌に、獣のような毛が生え、頭の形も変わり、そして腕を地面の上に下ろした。
「な、何だコイツは?」
その変化はあっという間に終わった。
そこにいたのは、人間ではない。狼だ。
「ワオオオ…」
鋭い目で不良たちを睨むと、同時に飛びかかる。
「うぎゃあああああああ!」
まず一人が、腕を噛まれた。ボキッと骨が折れる音がした。
「何だあコイツは!」
一瞬で危険性を判断した不良は、近くに落ちていた鉄パイプを持ってその狼に挑んだ。だが、素早い動きに翻弄されて全く当たらない。逆にわき腹を噛まれて悶絶。
「ああああああママああああああ!」
凄まじい戦闘力だ。私は恐怖で声が出せなかった。
「あ、あああ……」
最後の三人目は、逃げることを選んだ。そして負傷した二人も、その後を追って逃げた。
「ど、どうなっているの…?」
私は目の前で起きたことがまるで理解できていない。
「グルル…」
狼は、そのままどこかへ去ってしまった。現場には希一のカバンだけが残されていた。
私は次の日、彼のカバンを持って学校に行ったが、肝心の希一は欠席だった。
(何かあるに決まっている…)
そう感じた私は担任に聞いて希一の住所を教えてもらうと、放課後の補講をサボって彼の家に直行した。
彼は、アパートに住んでいた。インターフォンを鳴らすと、
「荷物だけ置いて帰ってくれない?」
と言われたが、
「昨日のことを教えてくれないと帰らない!」
私は強引にそう言い、そして扉を開けて中に入った。
希一は一人暮らしであるらしい。でも家具をダンボールに仕舞う作業をしていたのだ。
「あの不良たちはどうでもいい。でも、知人の蓮花さんに見られてしまった。もうこの辺にはいられない」
訳アリの様子だったので、私は、誰にも話さないから昨日何があったのかを教えてくれ、と頼んだ。
「……いいよ」
彼は答えた。そして全てを教えてくれた。
「僕は……狼男だ。昨日は満月を見たから、狼になったんだ。あの状況で蓮花さんを救うには、それしかないと思った。でも、正体がバレてはもう学校には通えない…」
事態は結構深刻で、彼はこの町から出て行くつもりだったのだ。
「待ってよ! 私は誰にも言わないよ? なのにどうして…」
いなくなっちゃうの? と言おうとしたが彼に妨げられた。
「一族で、そう決めているんだ。僕らは一般人に正体を教えちゃいけない。本当はこの日本に溶け込んで生活する権利もない。でも、僕は一人の人間として社会を学びたいと思っていた。それが昨日で終わり」
完全に私のせいだ。だからどうしても希一に謝るべきだと思ったのだが、
「蓮花さんの責任じゃないよ。いずれはバレる……いつまでも隠し通せることじゃないんだ。それが速かっただけのこと」
彼はもう、決意を済ませていた。
私はちょっと混乱していて、
「もしいなくなるって言うなら、今から希一の正体を学校中にバラすよ? このアパートの人たちにも! だからお願い、いなくならないで!」
無茶苦茶な脅しをしてしまった。
「できるのかい? 僕が狼になれば、君を黙らせるなんてワケないよ? 昨日見ただろ? 狼になれば、人なんて敵でも何でもない…」
彼も引かない態度。でも、
「満月は昨日! 次は一か月後ね。違う?」
希一は一晩しか狼にはなれない。それがわかっていたので彼の脅しは怖くなかった。
「…………結構度胸があるね…」
先に折れたのは彼だ。
「本当に、秘密にしてくれる?」
もちろん、と私は首を縦に振った。
「じゃあ、もうちょっとだけ学校にも通おうかな…」
そう言うと、梱包していた家具を取り出し始めた。
「まずはテスト勉強しないとね。赤点取りたくないでしょ?」
強引に話題を変え、私は彼に深刻に考える暇を与えなかった。それが功を奏したのか、彼も普通の会話をしてくれたし、次の日も元気に学校に来てくれた。
テストは私も彼も、何とか乗り切った。その夏休みに私は彼の家に行った。狼男というものに興味が湧いたためだ。当初は脅してでも聞き出そうとしたが、
「蓮花さんになら安心して教えられるよ」
と言うので、聞かせてもらった。
彼が言うには、普段は普通の人間と全く同じであるらしい。驚異的な力はなく、かと言って著しく知能が低いわけでもない。
しかし、満月を見ると話は別だ。どういう原理かは彼自身もわかっていないらしいが、月が真円を描く時、狼へと姿を変える。この時、ヒグマ並みの力を出すことができるが、頭の方は人をぼんやりと認識できるレベルまでガクッと落ちるそうだ。
「……だからあの時、不良たちを退けたら逃げるしかなかった。そうしないと蓮花さんにも襲い掛かりかねないから。そういうことはしたくはない」
そんな優しさも狼になると失うらしい。
「すごく不思議なんだけど、希一君はどうやって生まれたの?」
失礼な質問だということは十分に把握している。でも気になって仕方ないのだ。彼が存在しているということは、両親がいないとおかしい。
「まさか、食べちゃったとか……?」
「そんなまさか。生きている」
私の言葉は冗談で済んだ。
が、
「でもね、元気ではないんだ」
深刻そうに言うのだ。
「どういうこと?」
その先を彼は教えてくれた。
「実はね……。ある時が過ぎると、狼になって人間に戻れなくなってしまうんだ。だから僕の親は、海の向こうの動物園で飼育されている。人間だった頃の記憶はなくなってしまうのか、僕が顔を見せても反応がない…」
そんな残酷な運命が、彼には待っているのだ。
「じゃあ、私と出会ったこともいつかは忘れちゃうの?」
目を逸らして彼は頷いた。
「こればっかりは、変えようがないんだ……」
いつか、人間の姿を捨てて狼になる。それは彼にとってとても辛いことだろう。本当の自分の姿は人間ではなく、狼であることの証明にもなってしまうし、今までの人生が否定されている感覚もあるのだ。
「だから、蓮花さんも僕のことは忘れていいよ」
悲しいことを言う彼。私は、
「なら、今のうちに人であったことの幸福を味わおうよ!」
その未来から目を背け、彼を連れ出した。
私は彼の秘密を知ってから、とても彼に興味関心を抱いていた。そんな彼が、いつの日か獣の姿になって記憶もなくしてしまう。そう思うと嫌な感情ばかりが心の中で生まれる。
「今日は思いっ切り遊びましょ!」
遊園地に二人で行った。彼はそういうところには行かないような性格であったらしく、
「面白いね」
と喜んでくれた。私はいつまでも一緒にいられたら、と思った。でもそれは、叶わない夢。
(なら、せめて希一が狼になってしまうその日までは…)
そう思って、私は彼と一緒にいた。学校でも一緒に行動していたので同級生にからかわれたが、それでも構わなかった。彼も気にしていなかった。
大学受験の時期、私は彼に、獣医になると宣言した。
「何でさ…?」
彼は困惑している様子だった。私の成績なら獣医学部には十分合格はできることは知っていても、どうして獣医になりたいのかまではわからないらしい。
「だってそれになれれば、狼になった希一の治療とかできるじゃない? 健康状態のチェックもできるだろうし、そうすれば長く一緒にいられるでしょ?」
私の原動力は、純粋だった。ただ、彼と最後まで一緒にいたい。それだけだ。
彼は私の宣言に驚いていたが、
「蓮花がそう言うのなら、頑張って!」
最後には励ましてくれた。
受験は無事に終わり、私はある夜に彼のことを呼び出した。
「でも、今夜は……」
彼は渋った。当たり前だ、この日は満月。彼の本当の姿が露わになる夜。
けれども私は強引に彼を人気のない公園に連れ出した。
「もし僕が蓮花を傷つけるようなら、容赦なく殺して構わない…」
彼は覚悟を決めて、満月を見た。するとすぐにその姿が狼に変わる。
「ガブウ…!」
凶暴な外見だったが、私は彼の頭を撫でた。
「ウガ?」
それに反応し、構える彼。でも敵でないと判断してくれたのか、大人しく座ってくれた。
「本当の姿でも、必ず愛してみせるわ…」
私は狼の彼を抱きしめると、そう言って泣いた。
普通の人間と狼男。決して結ばれるべきではない関係だが、その間に溝はなかった。
「……というワケよ」
蓮花の言葉は説得力があり、嘘を言っている目でもない。
「狼男か……」
俺は当初、話に説得力を持たせたいなら最初からその希一とやらを連れてくればいい、と思っていたが、
「最後には、狼になってしまうとはね…」
そんな事情があるなら、それはできない。
結局、蓮花の想いは無駄になってしまった。
「違うわよ?」
意外にも、俺の考えを察したらしく彼女はそう言う。
「え? だって彼をここに連れてこれなかったのは、彼がもう狼になって人間に戻れなくなったからじゃないの?」
違うらしい。
「私の想いを受けて、彼も前向きにことを考えてくれたのよ。今、海外にいるわ」
「それは、両親と同じ動物園?」
「違う違う! 確かドイツの……えーと何て言ったかなあ? まあ今は修行に行ってるのよ。そこには狼人間が今でも暮らしているらしく、もしかしたら人間の姿を保つ術を知っているんじゃないかって」
なるほどそれは希望に満ちているな。
「でもさ……ダメだったらどうするんだい?」
「大丈夫よ、彼は必ず人のままで日本に帰ってくるわ」
蓮花は、彼のことを信じているらしい。その自信の源は間違いなく純粋な愛だろう。
人の想いというものは、とても神秘的なものだ。もしも希一が人間に戻れなくたって、蓮花は最後まで側にいてくれるのだろう。