その一 糸にすがる
文字数 5,709文字
午前中は曇っていたが、天気は回復した。今、窓の外に見えるのは、青い海と同じくらい青い空。
せっかくレストランにいるのに、ジュース一杯しか頼んでいない。ここは待ち合わせ場所だからだ。だから首を横に振れば入り口をすぐに確認できる席に着いた。
「お、来た来た」
三つ編みで、メガネをかけた女性が一人、入って来た。この人を待っていた。
「こんな場所に呼び出すなんて、何かあったのかしら? 社会人の忙しさを少しは考えなさいよ!」
彼女の名前は剣持 鈴茄 。大学生の時、同じ学科にいた。
「会社勤めだと二年目で自由がなくなるのかい? だとしたらすまんな。俺も祈裡も、そんな経験ないから」
「あんたたちはバイトもしてなかったから、絶対わからないでしょうね!」
「まあそうカッカしないで」
そう言うと、ノートパソコンを開いた。
「そういえば要件をまだ聞いてないわ。話があるって言うから一応来てはみたけど、どんな話?」
キーボードを打ちながら会話をする。タッチタイピングはできないので、画面とキーボードを交互に見る。
「ああ、話があるのは俺じゃなくて、君の方なんだ」
それを聞いて鈴茄は、
「はあ?」
ちょっと声のボリュームを上げた。
「正確には、君の話が聞きたいんだ。ほら、よく飲み会の席で話してたアレ」
鈴茄は立ち上がった。
「バカバカしいわ! そんなことのためだけに私を呼び出したの? もう帰る!」
歩き始めようとしたら、
「ちゃんと聞いてよ。今回のは俺の仕事なんだ。仕事で君の話が必要なんだ」
と声をかけて止めた。すると鈴茄は席に着いた。
「…じゃあ、依頼料とか発生するの? 別にお金に困ってるわけじゃないけど」
懐から封筒を取り出した。それをテーブルの上に置いた。
「詳しく教えてくれるなら、コレ」
少し二人は黙っていた。自分は話を聞きたいと思っていた。鈴茄は、話すべきかどうか考えているのだろう。
「あの内容でいいんなら、話せるわ。でもあなたの知っている以上のことはもうないかも。それでいい?」
「いいよ。記事にするかは、俺の判断だ」
俺…天ヶ崎 氷威 がそう言うと、鈴茄は話し始めた。
あれは四年前の出来事。でも、本当のことかどうか、自分の目で見たはずなのに自信が持てない。
「おうしゅうふじわら? の、平泉の、金ぴかな寺…」
「中尊寺金色堂ね。受験の時覚えたわ」
「行きたかったのに…」
藤島 萌々花 が嘆いている。
「しょうがないだろう? 私だって行きたかった。あれが無ければ、親から許可も金も出たはずだったんだ!」
大声で怒鳴り返したのは安原 飛鳥 。二人と私は、大学に入って出会った気の合う仲間だ。よく釣りに出かける。今も桟橋を目指して歩いている。
「本当に残念。地震さえ来なければ、誰も何も言わなかったのに」
「放射能があーだこーだだろう? もう聞き飽きた。うんざりだよ」
本当はこの夏休みに、東北に旅行に行こうと計画を立てていた。春休みには免許を取るために合宿に行っていたから、その時には行けなかった。その合宿で計画を少しずつ立てていた。それが全部、無駄になった。
「アタシは沖縄本島から出るなって言われたよ。ちょっとオーバーじゃない?」
萌々花の親って厳しいらしい。
「そんなこと言うのなら、私は実家に帰ることすらできないな。実家にぐらい、帰りたいぞ」
飛鳥は鹿児島出身だ。確か出身校は鹿児島ラサールって言ってた。
「そういうことは今日は忘れて、釣りを楽しみましょう。そのために今日、桟橋に来たんだから!」
桟橋の先っちょに到達した。釣りの道具一式をカバンから出す。
「暑いねえ。今日は真夏日になるそうだ」
「確か天気はずっと晴れだって、ニュースで言ってた」
今、私はしまったと思った。二人は帽子をかぶっている。自分は、忘れてきた。腕時計で時間を確認すると午後二時を少し回ったところ。まだまだ暑くなりそうなのに、日焼け止めも塗って来なかった気がする…。
「さあ、さっそく始めよう。今日は私が一番最初に大物を釣り上げてやる!」
「あ、それ、アタシの台詞~」
いつも通りに釣りを始める。
もう二、三時間は経っただろうか。暑さを忘れて釣りに夢中になっている。
「また釣れたわ!」
急いでリールを巻く。
「また鈴茄か~。今日はずいぶんと調子がいいね」
「萌々花、そんな事言ってないで手伝ったらどうだ? 鈴茄は結構健闘してるみたいだぞ?」
「アタシは網しか手を貸してあげなーい。自力で釣り上げられないなら、釣ったことにならないでしょう?」
そんな議論しなくていいから少しでも手伝ってよ、って言いたいけど、言う余裕もないぐらいの大物。
水面に魚影が見えた。一気に釣り上げる。
「よし、やったわ! これで今日四匹目よ!」
魚はクーラーボックスに入れた。
「あ、そう言えばさ、ここら辺って、あのガリガリベアが沈んだところだっけ?」
萌々花が言い出した。
「何だいその痩せこけた熊のような名前は?」
萌々花は間違えて覚えているようだ。針に餌を付けながら話す。
「正しくはガンガリディア号よ。飛鳥は知らないんだろうけど、三年前に事故で沈んだ豪華客船のこと」
確かにこの海域の近くだったはずだ。当時、連日ニュースで紹介されていた。乗員乗客は全員死亡または行方不明。事故の原因は過労で、船長たちは一か月に休日がわずか二日しか与えられていなかったらしい。その旅行会社は事故の後、すぐに潰れた。そしてその後、ワールドカップが始まったので、誰も話題にしなかった。
「今スマホで検索してみたら出てきたぞ。この近くでそんなことがあったなんて知らなかったなあ。時刻は午後二時、天気は曇り。全員で三百七十九名…。もっと記事がある」
ルアーを海に投げ込んだ。
「曇りって言うと、今みたいな感じ?」
「え?」
萌々花の言葉に違和感を覚えた。そして反射的に顔を上げた。
「あれ、天気…。いつの間に雲が出てる…って今日は終日晴れじゃなかったの?」
萌々花が言っていたことで自分で確認していなかったが、今日の天気は晴れだったはずだ。飛鳥も真夏日になるって言っていた。なのに雲が出てきている。青空が見えない。そこまで暑くない。
「まあ天気予報が外れるなんてよくあることだろう? それより鈴茄の竿、また魚がかかったんじゃないのか?」
確かに握っている竿に、力を感じる。でもそっちに集中できないくらい、気になる。
「少しは曇っても、雨は降らないわよねぇ?」
私がそんな心配をするのは、辺りが暗くなってきたからだ。天気予報を信じたために、雨具の類は何も持ってきていない。
「そんな事よりも鈴茄、竿!」
飛鳥に促されてリールを巻いた。とても強い手ごたえを感じる。
「今度のは、かなりの大物ね…。ってアレ?」
左腕の腕時計に目が行った。
「どうーしたの?」
萌々花がそう聞く。鈴茄のリールを巻く手が止まったからだ。
「今、何時?」
「んー。多分三時間ぐらいは経ってるんじゃない…?」
萌々花がスマホの画面を確認する。すると、
「あれぇ? 電波悪かったっけここ? 何度も来てるけど。それにアタシのスマホ、バグってるかも」
今手が離せないので自分のスマホを見ることができないが、電波は悪くはないはずだ。だってさっき、飛鳥がインターネットで検索していたんだから。
「どうしたんだ二人とも?」
飛鳥が聞くので、私が返す。
「今何時?」
「何時って、時計見りゃすぐにわかるだろう? 今は、午後二時――」
飛鳥はあっという顔をした。
「おかしくない? ここに集合したのが二時じゃなかった? 何で時計止まってるの?」
誰もその問いに答えることができない。
竿を引く力が急に強くなりだした。これに鈴茄は違和感を感じた。
「…ここにこんな力が出せる大物なんて、いないはず…」
何度も来たことがあるからわかる。女性でも一人で釣り上げられるような魚しか、ここでは釣れない。
「ねえ、もう帰らない?」
萌々花が言った。
「そうだ。何か今日は、雰囲気が悪い。鈴茄、早くそれを釣り上げなよ」
飛鳥が言う。
「いいえ、これは逃がすわ…」
そう言ったにもかかわらず、リールを巻く手が止まらない。自分の意志と関係なく、動いてる。
「何やってるんだ! 早く帰るぞ!」
飛鳥が乱暴に私の手を叩くが、竿を放そうとしない。いや、手が開かない。
「鈴茄、どうしたの?」
「て、手が勝手に…!」
リールを巻き続ける。
私は自分の手を睨みつけていた。そこで萌々花が叫んだ。
「あ、アレ!」
萌々花が指をさしているのは、釣り糸の先の海面。その下…海の中に、影が見える。
「人影だ…!」
飛鳥が後ろに下がった。無理もない。この釣り竿にかかっているのは、それかもしれないから…。
「で、でも、事故は三年前でしょ? 未だに生存者がいるワケないじゃん!」
萌々花が言う。当たり前だ。捜索だってとっくの昔に打ち切られた。
「じゃあこの竿にかかってるのは何なのよ!」
叫んだ。すると糸を引く力が弱くなっていく。それでも手は止まらない。そして少しリールを巻くと、それは海面から姿を現した。
青白い人が、糸を掴んでいる…。顔をこちらに向けて、口を動かした。
「タスケテクレ…」
「いやああああああ!」
悲鳴を上げた時、手が言うことを聞いた。釣り竿を放して海に捨てると、萌々花と飛鳥を連れて、荷物を置いて一目散に逃げだした。
近くのコンビニまで走った。走るのに必死で、誰も何も言わなかった。コンビニにつくと急いで店内に入った。しばらく店内にいて気を落ち着かせ、腕時計を確認した。
「六時…」
店内の時計も六時だった。それを確認して外に出ると、空はすっかり晴れていた。
「…なるほど。それはやっぱり聞いたことある通りか。ま、そんなものだろうね」
鈴茄から聞いた話を氷威はノートパソコンに打ち込んだ。
「いや。まだ続きが少しだけあるの」
鈴茄が切り出した。
それは次の日のこと。
荷物を全て置いてきてしまったので、取りに行くことになった。他の誰かに頼もうという話も出てはいたが、誰にも信じてもらえそうにないこと、同じことが起きたらその人に失礼なことを考えると、三人で行くことにした。
萌々花は食塩を袋一杯に持って来た。飛鳥はお守りを握りしめていた。私は腕に数珠を付けていた。
「昨日の、ままだね」
あの桟橋には、誰も近づいていないらしい。荷物は取られてなかった。
でも私は、自分のクーラーボックスに目が行った。
開けっ放しにはしてなかったと思うけど、閉めた記憶もない。クーラーボックスは閉じられている。
「中にいる魚はどうする? 言っておくが私は、食べるのはごめんだぞ?」
「全部逃がすわ。生きてればだけど。死んでたら…いや死んでても、海に帰ってもらう」
私はクーラーボックスを開けた。
「え?」
中の魚は全て、死んでいた…。でも酸欠じゃなくて、全部骨だけになっていた。まるで誰かが食べたみたいに、食い荒らされていた。
「鳥か猫が、食べたんじゃないのか?」
「でも、今蓋を開けたじゃん?」
私たちは、何も言えなかった。
カチャン、と音が桟橋の先でした。三人が振り向くと、地面には海に捨てたはずの釣り竿が落ちていた。
その側に立っていた…。ずぶ濡れの、男性――昨日見た水死体の幽霊…。
私たちはソレに、塩もお守りも数珠も投げつけると、また一目散に逃げだした。
「その後は、どうだったの?」
鈴茄は下を向いて、
「わからないわ。だってその後、あの桟橋には行かないことにしたから」
そりゃあ、あんな体験をしたら二度と行かなくなるよな…。
「これで終わりよ。萌々花と飛鳥とはまだ連絡取り合ってるけど、釣りには行かなくなった。これでお終い」
「そうか。ありがとう。じゃあこれ」
俺は封筒を渡した。
「これで中尊寺金色堂でも行ってみたら? 流石にもう放射能とか、言われないだろうし」
鈴茄は黙って受け取った。
「氷威はどうするの?」
と聞かれた。
「俺か? 俺はなあ…」
再びレストランの外を見る。
「今まで沖縄から出たことがなかったから、色々な所に行ってみようかな。きっと怖い話を持っている人がいるはずだし」
「じゃあ本気なのね…?」
本気さ。孤児院にいた時、大神 岬 って人が孤児のリーダーだった。その人から怪談話について聞かされ、それから怪談話を書いた本を作ってみたいと思っていた。その夢を実現したい。
「祈裡も行くの?」
和島 祈裡 。孤児院の院長の娘で、小さいころから院に来て遊んでいた。高校時代から付き合っている。この旅にも付き合ってくれるらしい。
「あんたたちはいつもそうやって、よくわからないことしたがるわよね…。正直ついていけないわ」
「鈴茄が来る必要はないよ。祈裡が来るから」
そう言うと鈴茄はテーブルとバンと叩いて乗り出し、
「そういう意味じゃなくて!」
レストラン中の視線を一撃で集めた鈴茄。少し恥ずかしくなったのか、素直に座った。
「頑張っては欲しいけど、無理そうだったら帰ってきなさいよ。あんたも一応大学を卒業してるし、成績も悪くなかったし、こっちで生活するのには困らないでしょう?」
鈴茄は言うが、氷威にやめる気はない。もう準備が済んでいる。
「応援してくれるなら、できた本を買ってよ」
鈴茄はため息を吐いた。
「それとさ。…さっきからあの窓から覗いているずぶ濡れの男は、鈴茄が釣り上げた獲物なの?」
氷威が鈴茄の後ろの窓を指差した。
「は!」
鈴茄が驚いて振り向いたが、そこには何もいない。
「もう! そんな事ばっかり!」
せっかくレストランにいるのに、ジュース一杯しか頼んでいない。ここは待ち合わせ場所だからだ。だから首を横に振れば入り口をすぐに確認できる席に着いた。
「お、来た来た」
三つ編みで、メガネをかけた女性が一人、入って来た。この人を待っていた。
「こんな場所に呼び出すなんて、何かあったのかしら? 社会人の忙しさを少しは考えなさいよ!」
彼女の名前は
「会社勤めだと二年目で自由がなくなるのかい? だとしたらすまんな。俺も祈裡も、そんな経験ないから」
「あんたたちはバイトもしてなかったから、絶対わからないでしょうね!」
「まあそうカッカしないで」
そう言うと、ノートパソコンを開いた。
「そういえば要件をまだ聞いてないわ。話があるって言うから一応来てはみたけど、どんな話?」
キーボードを打ちながら会話をする。タッチタイピングはできないので、画面とキーボードを交互に見る。
「ああ、話があるのは俺じゃなくて、君の方なんだ」
それを聞いて鈴茄は、
「はあ?」
ちょっと声のボリュームを上げた。
「正確には、君の話が聞きたいんだ。ほら、よく飲み会の席で話してたアレ」
鈴茄は立ち上がった。
「バカバカしいわ! そんなことのためだけに私を呼び出したの? もう帰る!」
歩き始めようとしたら、
「ちゃんと聞いてよ。今回のは俺の仕事なんだ。仕事で君の話が必要なんだ」
と声をかけて止めた。すると鈴茄は席に着いた。
「…じゃあ、依頼料とか発生するの? 別にお金に困ってるわけじゃないけど」
懐から封筒を取り出した。それをテーブルの上に置いた。
「詳しく教えてくれるなら、コレ」
少し二人は黙っていた。自分は話を聞きたいと思っていた。鈴茄は、話すべきかどうか考えているのだろう。
「あの内容でいいんなら、話せるわ。でもあなたの知っている以上のことはもうないかも。それでいい?」
「いいよ。記事にするかは、俺の判断だ」
俺…
あれは四年前の出来事。でも、本当のことかどうか、自分の目で見たはずなのに自信が持てない。
「おうしゅうふじわら? の、平泉の、金ぴかな寺…」
「中尊寺金色堂ね。受験の時覚えたわ」
「行きたかったのに…」
「しょうがないだろう? 私だって行きたかった。あれが無ければ、親から許可も金も出たはずだったんだ!」
大声で怒鳴り返したのは
「本当に残念。地震さえ来なければ、誰も何も言わなかったのに」
「放射能があーだこーだだろう? もう聞き飽きた。うんざりだよ」
本当はこの夏休みに、東北に旅行に行こうと計画を立てていた。春休みには免許を取るために合宿に行っていたから、その時には行けなかった。その合宿で計画を少しずつ立てていた。それが全部、無駄になった。
「アタシは沖縄本島から出るなって言われたよ。ちょっとオーバーじゃない?」
萌々花の親って厳しいらしい。
「そんなこと言うのなら、私は実家に帰ることすらできないな。実家にぐらい、帰りたいぞ」
飛鳥は鹿児島出身だ。確か出身校は鹿児島ラサールって言ってた。
「そういうことは今日は忘れて、釣りを楽しみましょう。そのために今日、桟橋に来たんだから!」
桟橋の先っちょに到達した。釣りの道具一式をカバンから出す。
「暑いねえ。今日は真夏日になるそうだ」
「確か天気はずっと晴れだって、ニュースで言ってた」
今、私はしまったと思った。二人は帽子をかぶっている。自分は、忘れてきた。腕時計で時間を確認すると午後二時を少し回ったところ。まだまだ暑くなりそうなのに、日焼け止めも塗って来なかった気がする…。
「さあ、さっそく始めよう。今日は私が一番最初に大物を釣り上げてやる!」
「あ、それ、アタシの台詞~」
いつも通りに釣りを始める。
もう二、三時間は経っただろうか。暑さを忘れて釣りに夢中になっている。
「また釣れたわ!」
急いでリールを巻く。
「また鈴茄か~。今日はずいぶんと調子がいいね」
「萌々花、そんな事言ってないで手伝ったらどうだ? 鈴茄は結構健闘してるみたいだぞ?」
「アタシは網しか手を貸してあげなーい。自力で釣り上げられないなら、釣ったことにならないでしょう?」
そんな議論しなくていいから少しでも手伝ってよ、って言いたいけど、言う余裕もないぐらいの大物。
水面に魚影が見えた。一気に釣り上げる。
「よし、やったわ! これで今日四匹目よ!」
魚はクーラーボックスに入れた。
「あ、そう言えばさ、ここら辺って、あのガリガリベアが沈んだところだっけ?」
萌々花が言い出した。
「何だいその痩せこけた熊のような名前は?」
萌々花は間違えて覚えているようだ。針に餌を付けながら話す。
「正しくはガンガリディア号よ。飛鳥は知らないんだろうけど、三年前に事故で沈んだ豪華客船のこと」
確かにこの海域の近くだったはずだ。当時、連日ニュースで紹介されていた。乗員乗客は全員死亡または行方不明。事故の原因は過労で、船長たちは一か月に休日がわずか二日しか与えられていなかったらしい。その旅行会社は事故の後、すぐに潰れた。そしてその後、ワールドカップが始まったので、誰も話題にしなかった。
「今スマホで検索してみたら出てきたぞ。この近くでそんなことがあったなんて知らなかったなあ。時刻は午後二時、天気は曇り。全員で三百七十九名…。もっと記事がある」
ルアーを海に投げ込んだ。
「曇りって言うと、今みたいな感じ?」
「え?」
萌々花の言葉に違和感を覚えた。そして反射的に顔を上げた。
「あれ、天気…。いつの間に雲が出てる…って今日は終日晴れじゃなかったの?」
萌々花が言っていたことで自分で確認していなかったが、今日の天気は晴れだったはずだ。飛鳥も真夏日になるって言っていた。なのに雲が出てきている。青空が見えない。そこまで暑くない。
「まあ天気予報が外れるなんてよくあることだろう? それより鈴茄の竿、また魚がかかったんじゃないのか?」
確かに握っている竿に、力を感じる。でもそっちに集中できないくらい、気になる。
「少しは曇っても、雨は降らないわよねぇ?」
私がそんな心配をするのは、辺りが暗くなってきたからだ。天気予報を信じたために、雨具の類は何も持ってきていない。
「そんな事よりも鈴茄、竿!」
飛鳥に促されてリールを巻いた。とても強い手ごたえを感じる。
「今度のは、かなりの大物ね…。ってアレ?」
左腕の腕時計に目が行った。
「どうーしたの?」
萌々花がそう聞く。鈴茄のリールを巻く手が止まったからだ。
「今、何時?」
「んー。多分三時間ぐらいは経ってるんじゃない…?」
萌々花がスマホの画面を確認する。すると、
「あれぇ? 電波悪かったっけここ? 何度も来てるけど。それにアタシのスマホ、バグってるかも」
今手が離せないので自分のスマホを見ることができないが、電波は悪くはないはずだ。だってさっき、飛鳥がインターネットで検索していたんだから。
「どうしたんだ二人とも?」
飛鳥が聞くので、私が返す。
「今何時?」
「何時って、時計見りゃすぐにわかるだろう? 今は、午後二時――」
飛鳥はあっという顔をした。
「おかしくない? ここに集合したのが二時じゃなかった? 何で時計止まってるの?」
誰もその問いに答えることができない。
竿を引く力が急に強くなりだした。これに鈴茄は違和感を感じた。
「…ここにこんな力が出せる大物なんて、いないはず…」
何度も来たことがあるからわかる。女性でも一人で釣り上げられるような魚しか、ここでは釣れない。
「ねえ、もう帰らない?」
萌々花が言った。
「そうだ。何か今日は、雰囲気が悪い。鈴茄、早くそれを釣り上げなよ」
飛鳥が言う。
「いいえ、これは逃がすわ…」
そう言ったにもかかわらず、リールを巻く手が止まらない。自分の意志と関係なく、動いてる。
「何やってるんだ! 早く帰るぞ!」
飛鳥が乱暴に私の手を叩くが、竿を放そうとしない。いや、手が開かない。
「鈴茄、どうしたの?」
「て、手が勝手に…!」
リールを巻き続ける。
私は自分の手を睨みつけていた。そこで萌々花が叫んだ。
「あ、アレ!」
萌々花が指をさしているのは、釣り糸の先の海面。その下…海の中に、影が見える。
「人影だ…!」
飛鳥が後ろに下がった。無理もない。この釣り竿にかかっているのは、それかもしれないから…。
「で、でも、事故は三年前でしょ? 未だに生存者がいるワケないじゃん!」
萌々花が言う。当たり前だ。捜索だってとっくの昔に打ち切られた。
「じゃあこの竿にかかってるのは何なのよ!」
叫んだ。すると糸を引く力が弱くなっていく。それでも手は止まらない。そして少しリールを巻くと、それは海面から姿を現した。
青白い人が、糸を掴んでいる…。顔をこちらに向けて、口を動かした。
「タスケテクレ…」
「いやああああああ!」
悲鳴を上げた時、手が言うことを聞いた。釣り竿を放して海に捨てると、萌々花と飛鳥を連れて、荷物を置いて一目散に逃げだした。
近くのコンビニまで走った。走るのに必死で、誰も何も言わなかった。コンビニにつくと急いで店内に入った。しばらく店内にいて気を落ち着かせ、腕時計を確認した。
「六時…」
店内の時計も六時だった。それを確認して外に出ると、空はすっかり晴れていた。
「…なるほど。それはやっぱり聞いたことある通りか。ま、そんなものだろうね」
鈴茄から聞いた話を氷威はノートパソコンに打ち込んだ。
「いや。まだ続きが少しだけあるの」
鈴茄が切り出した。
それは次の日のこと。
荷物を全て置いてきてしまったので、取りに行くことになった。他の誰かに頼もうという話も出てはいたが、誰にも信じてもらえそうにないこと、同じことが起きたらその人に失礼なことを考えると、三人で行くことにした。
萌々花は食塩を袋一杯に持って来た。飛鳥はお守りを握りしめていた。私は腕に数珠を付けていた。
「昨日の、ままだね」
あの桟橋には、誰も近づいていないらしい。荷物は取られてなかった。
でも私は、自分のクーラーボックスに目が行った。
開けっ放しにはしてなかったと思うけど、閉めた記憶もない。クーラーボックスは閉じられている。
「中にいる魚はどうする? 言っておくが私は、食べるのはごめんだぞ?」
「全部逃がすわ。生きてればだけど。死んでたら…いや死んでても、海に帰ってもらう」
私はクーラーボックスを開けた。
「え?」
中の魚は全て、死んでいた…。でも酸欠じゃなくて、全部骨だけになっていた。まるで誰かが食べたみたいに、食い荒らされていた。
「鳥か猫が、食べたんじゃないのか?」
「でも、今蓋を開けたじゃん?」
私たちは、何も言えなかった。
カチャン、と音が桟橋の先でした。三人が振り向くと、地面には海に捨てたはずの釣り竿が落ちていた。
その側に立っていた…。ずぶ濡れの、男性――昨日見た水死体の幽霊…。
私たちはソレに、塩もお守りも数珠も投げつけると、また一目散に逃げだした。
「その後は、どうだったの?」
鈴茄は下を向いて、
「わからないわ。だってその後、あの桟橋には行かないことにしたから」
そりゃあ、あんな体験をしたら二度と行かなくなるよな…。
「これで終わりよ。萌々花と飛鳥とはまだ連絡取り合ってるけど、釣りには行かなくなった。これでお終い」
「そうか。ありがとう。じゃあこれ」
俺は封筒を渡した。
「これで中尊寺金色堂でも行ってみたら? 流石にもう放射能とか、言われないだろうし」
鈴茄は黙って受け取った。
「氷威はどうするの?」
と聞かれた。
「俺か? 俺はなあ…」
再びレストランの外を見る。
「今まで沖縄から出たことがなかったから、色々な所に行ってみようかな。きっと怖い話を持っている人がいるはずだし」
「じゃあ本気なのね…?」
本気さ。孤児院にいた時、
「祈裡も行くの?」
「あんたたちはいつもそうやって、よくわからないことしたがるわよね…。正直ついていけないわ」
「鈴茄が来る必要はないよ。祈裡が来るから」
そう言うと鈴茄はテーブルとバンと叩いて乗り出し、
「そういう意味じゃなくて!」
レストラン中の視線を一撃で集めた鈴茄。少し恥ずかしくなったのか、素直に座った。
「頑張っては欲しいけど、無理そうだったら帰ってきなさいよ。あんたも一応大学を卒業してるし、成績も悪くなかったし、こっちで生活するのには困らないでしょう?」
鈴茄は言うが、氷威にやめる気はない。もう準備が済んでいる。
「応援してくれるなら、できた本を買ってよ」
鈴茄はため息を吐いた。
「それとさ。…さっきからあの窓から覗いているずぶ濡れの男は、鈴茄が釣り上げた獲物なの?」
氷威が鈴茄の後ろの窓を指差した。
「は!」
鈴茄が驚いて振り向いたが、そこには何もいない。
「もう! そんな事ばっかり!」