その二十六 キラーマーメイド

文字数 5,669文字

 日本海を一望できるカフェで、今日の話相手とは合流する。何でも、海に関する話を教えてくれるらしい。
「お、来たっぽいな…」
 その男は俺と同い年で、上坂(うえさか)俊治(としはる)という。
「僕は…海が嫌いだ」
 会って早々、俊治はそう言った。それはまるで、この最高の景色を全否定するかのようだった。
「何でそうなる? 綺麗な海じゃないか?」
「よく言う、綺麗なバラにはトゲがあるって。僕はそのトゲを知った。心に深々と刺さって抜けない、痛々しいトゲだ」
 では、そのトゲが何であるのか、話を聞いてみよう。

 僕は大学卒業と同時に、ある企業に就職した。その会社は何も特別なことを扱ってはいない、地方によくある小さな会社。親戚の叔父がそこで働いていたこともあって、就活中に早々とそこに決めたのだ。
 しかし、僕が勤務し始めるころになると、事情が少し変わった。でもそれは、不景気になったとか、経営が傾いたとかそういうわけではない。
「いなくなった? 叔父が?」
 社長は、僕にそう言った。
「何も言わず、ある日から来なくなったんだ。上坂君、何か知らないか?」
 相当困っていた様子だった。社長は、叔父が失踪した原因に全く心当たりがなく、職場の叔父の同僚に聞いても、みんなわからないと言う。
「ちょっと、親類に電話してみます」
 僕は席を外し、親戚の家にかけた。
「もしもし…?」
 電話の向こうでも、叔父がいなくなったことに困惑していた。逆に僕に、会社で変なことがなかったかを聞いてきたぐらいだ。
「じゃあ、家では特に何もないの? でもこっちもそうだよ」
 僕は、会社でも嫌な噂はないと伝えた。すると増々困惑してそうだった。
 結局、叔父がどうして失踪したのかは不明だ。置手紙の類もなく、本当に何の前触れもなく蒸発してしまった。

 だが数日後、叔父の遺体が近くの海岸に上がった。その姿は、魚やタコに食われて完全に変わり果てていて、歯形でようやく誰なのかがわかったぐらいだ。
「多分、波にさらわれたんだろう…」
 叔父と親しくない人、主に警察や検死官がそう言った。でも僕も同僚も親戚も、納得できなかった。
「叔父はどうして海に近づいたんだ?」
 誰も説得力のある理由を見い出せなかった。当然だ、第一に、叔父は全く泳げない。それに釣りもしない。だから海に行く用事がないのだ。それに叔父が失踪した季節は、春。暦で言うなら三月の末。そんな時期に、泳げない人間が海でサーフィンでもすると? 馬鹿馬鹿しい。
「じゃあ、波打ち際を散歩していたのでは?」
 しかしそれも、不自然だ。その時期は別に波が高いわけでもない。陸地を歩いていた人間が、高くもない波に飲まれて海に消えるだろうか?
 事件は、最終的に迷宮入りした。

 その後、僕は叔父の発見された場所に行った。人気のあまりない磯辺で花を一束、海に向かって投げた。
「成仏してくれるといいが…」
 僕は死後の世界を信じていない。だが、遺族としてできることはした。
 改めて、その磯辺を見た。子供も来なそうな寂しいところだ。
「さて、帰るか」
 反転して、家に帰ろうと思い立ったその時、後ろで何かが海に落ちる音が聞こえた。反射的に僕は振り向いた。
「あ…?」
 そこには、人魚がいるのだ。突然の事態に僕の脳みそは追いつけていない。
「こっちこっち…」
 人魚は僕のことを手招きした。僕は行くかどうか、迷った。
(本物…? でもまさか、そんな馬鹿な? 現代にいるわけがない!)
 心ではそう思っていた。しかし人魚は悲しい目で僕を見る。その視線をかわすことができず、僕は根負けした。
 恐る恐る近づいた。
「な、何者だ…?」
「私、怪しくない」
 口でそう言われても、この状況に疑問符を書かない人物はいないだろう。
「だから、誰だって聞いているんだ!」
 誰かのコスプレなら、不謹慎極まりない行いだ。だから注意してやろうとした。
「誰もいない…?」
 人魚は、その場に僕以外の人がいないことを確認すると、二本の腕で器用に岩場に上がる。下半身は鱗で覆われ、先っちょにはヒレが生えている。よく見てみると、それは服ではなく生身の体。この時点で、誰かのいたずらの可能性は消えた。
「話、しよう」
 何故人魚が日本語を話せるかは、今は置いておく。僕はその人魚に引き付けられるかのように近づいた。
「本物なのか、これは?」
「疑わないこと。よくない」
 ちょっと片言なのが気になるが、意思疎通は取れそうだ。ここで警戒して、何もしないのは芸がない話。僕は何故人魚がこんなところに来たのかを聞こうとした。
「陸地に用でもあるのか? それとも水族館に展示でもされたいのか?」
「違う。サメから逃げて来た」
 言われてみれば、この辺はシュモクザメが出る。どうやら人魚も人間と同じく、サメには警戒しているらしい。少し親しみが湧いた。
「あなた、花を海に捨てた」
 と言って、僕が投げた花束を拾ってきた。
「違うよ。それは叔父に送ったんだ」
「叔父? 人魚?」
「そうじゃない。最近、海で亡くなって…。よく事故現場に献花台とかあるんだ。そこに花を手向けるようなものさ」
「死んだの。可哀そうに」
 人魚は、僕の叔父の死を悲しんでいるように見えた。
(………)
 よく見ると、凄く綺麗な人魚だ。髪は常時海に浸かっているとは思えないほど手入れが行き届いており、白い肌はついつい見入ってしまう。それに顔も平均以上に整っている。もし下半身が足だったら、間違いなく恋に落ちているだろう。
「あなた、名前は?」
「僕か? 僕は俊治だ」
「としはる……覚えた。また会いたい」
 人魚の方は名乗らなかった。もしかすると、名前を付ける文化がないのかもしれない。それを考慮して僕は、深追いしなかった。

 次の週のことだ。僕は人魚に会えないだろうかと思って、磯辺付近を歩いていた。すると、海の底からブクブクと泡が湧き出ている。もしやと思って声をかけた。
「おーい! 人魚かい?」
 すると、あの顔が海面から僕のことを覗いた。
「としはる!」
 覚えてくれていて、僕は嬉しかった。
 人魚のことは、他の誰にも喋っていない。僕だけの秘密だ。誰かに言っても信じてもらえないだろうから、伝える気すらなかった。
「また会えるとはね、ビックリする反面、嬉しいよ」
「私も私も。としはるに会えて嬉しい」
 彼女が人魚じゃなければと、僕は思った。それを察したのか人魚は、
「違ってもいい。側にいて」
 と言うのだ。僕は顔を少し赤くしながら、いそいそと海面に近づいた。すると手を差し出してきた。
「握って。温もり、感じたい」
 僕は求められるまま、手を差し伸べた。
 その時だ。
「うわあ!」
 人魚が急に体を乗り出して、僕の腕を掴んだ。そして物凄い力で僕のことを引っ張るのだ。
「ちょっと! どうしたんだ一体!」
 僕は混乱しながら、人魚に抗った。このままでは海に落ちてしまう。
「おい、何だって言うんだ!」
 聞いても、人魚は答えない。可愛らしい顔はどこへやら、鬼のような形相で僕のことを睨み、海の中に引きずり込もうとする。
「待てったら!」
 やはり、待ってはくれない。というか、僕の言葉は完全に届いていないのだ。
(このままじゃ…)
 僕は思った。海に落ちたら死ぬ。叔父がそれで死んだのだ、僕は嫌でも最悪の事態を想定した。
「くっ…!」
 あの美しい肌を傷つけるのは、本当に忍びない。でも、やならきゃ僕の身が危険なのだ。仕方がないと言い聞かせる。僕は人魚の手に噛みついた。
「あぎゃー!」
 そして、下顎を何度も横に動かした。痛みに我慢できなかったのか、人魚は僕の腕を放し、海の中に逃げて行った。
「何だったんだあれは…?」
 一人磯辺に残された僕は、ただ水平線の向こう側に沈む太陽を眺めていた。

 そんなことがあって海にあまり近づかないようにしていて、時は過ぎる。その年の夏のことだ。この日僕は、町の図書館に来ていた。
「おや?」
 まだ読んでいない本を探していると、その本の存在に気がついた。まるで隠すように本棚の一番上に置かれ、埃まみれのそのタイトルは…。
「『日本人魚記』…?」
 あんなことがなければ、埃を払って本棚に戻すだろう。でも僕は、読むべきだと思った。とても古い本であり、平然と旧仮名遣いが出てくる本だ。
 そして、その内容にショックを受けるのだった。

「この島国の周りの海域には、人魚が生息している。その人魚たちは、人語を話す。しかしこれにはワケがあり…」
 その本によれば、人魚は子孫を残すために陸地の人間を捕まえ、一度溺死させてから住処に連れて行き、新鮮なうちに死体と交尾をするという。人魚同士では優れた個体を残せないので、どうしても人間を捕えようとするのだそう。そしてその容姿が奇怪で、狙った人間の好みに合致するように顔の組織を組み替えるらしい。人語を話すのは、もちろん人間をおびき寄せるためだが、声帯が人間と多少異なるそうで、言葉は決して流暢な言語にはならない。しかし人間と交雑を重ねれば、この問題は解決できるらしく、だからより一層人間を捕まえようと躍起になるらしい。
 僕の全身から、汗が流れるのがハッキリとわかった。あのまま連れて行かれたら、溺れて死んでいたのだ。
「そう言えば、叔父は独身だったような…」
 僕の推理が正しければ、叔父は僕と同じように人魚に恋をし、そして海の底に連れ去られ、用が済んだのでそのまま捨てられたのだろう。人魚は決して人肉を漁らないらしく、それは人間の肉が不味いことを知っているから。寧ろ魚を捕るための餌として使う方が、効率が良いことを熟知しているそうな。
 恐ろしいのは、洞察力だ。人魚は人間にパートナーがいるかいないか、一目でわかると言う。容姿を変える能力もあって、人魚に声をかけられたが最後、その人の運命は決まったようなものらしい。
 他の人に言えばいい、と思うかもしれない。だが人魚は狡猾で、自分たちの存在が、人間にとって未知・未開であることを知っている。だから人間が自分たちの存在を広めないとわかっているのだ。
「なんて野郎だ…」
 他にも、恐ろしいことが書かれていた。人魚は物が人工物かそうでないかを見分けられる。だから僕が投げた花束を拾ったのだろう。そして人工物とわかれば、周囲の人間の気配を探り、見つけ出す。それが一人であるなら、姿を見せる。
 本当に賢いことができると感じたのが、その先だ。
 最初に獲物を見つけても、いきなり捕まえようとはしない。まずは話しかけて様子をうかがい、行けるかどうかを判断する。もし捕まえられそうと感じたら、再びその人の近くに姿を見せる。人を嗅覚で判別できるらしく、絶対に狙った獲物は間違えない。そして二回目以降に捕獲する。この時の言わば猶予回数は、個体によって変化するらしい。気長でずる賢いと数回に分けるらしいが、老いて気が短くなると、焦りからかすぐに捕まえようとする傾向がみられる。信頼関係を十分に築けたと判断した場合は例外。
「これが、人魚なのか…?」
 おおよそ、僕が思っていた人魚のイメージからかなりかけ離れている。でも体験したのは僕自身だ。記載されているような行為を人魚から受けたので、その本の内容を信じるしかなかった。そうするとファンタジーな幻想は、音を出して崩れ落ちた。
 本を読んでいると、僕は僕自身が嫌になった。少しでも人魚と心を通わせられたと思った自分が馬鹿で仕方がない。人魚にとって僕は、ただの子孫を残すための道具でしかなかったし、僕が人魚に連れて行かれたら、より優秀な個体が誕生し、他の人にまで被害が及んでしまう。
 そして僕は、その本からある文を見つけ、読んだ。
「人魚はとても執念深い。一度連れ去ると決めた獲物の臭いは決して忘れずに覚えておく。獲物に逃げられても、海に近づいたらすぐにわかる。逃げられた獲物に対しては容赦がなく、様子をうかがうようなそぶりは見せない。その執念から、生涯にわたって追い求めることになる。人魚の寿命は一二〇年程度と思われる…」
 この話が本当なら、僕は次に海に近づいた時、あの人魚に襲われる。
 僕はこの本を借りた。そして徹底的に内容を頭の中に叩きこんだ。それをすればするほど、人魚がいかに恐ろしい存在かがわかって、そして二度と海に入れないことも理解した。

「僕はね、思うんだ。人魚の強行から逃げおおせたわけじゃない。今もアイツは、僕を狙っている。もしかしたら、近くの海域まで来ているかもしれない。だから僕の命は保証できない…」
 俊治はそう言いながらも、海に目を向けた。本当は、海水浴や釣りなどをしたいのだろう。だが、人魚が怖くてできない。
「でもさ、その個体が先に死ぬかもしれないだろ? 流石に二年ぽっちじゃまだ生きてるかもだが…?」
「どうだろう? 今ここで海に行って確かめてみようか? 言っておくけどね、叔父の遺体は、この近くの磯辺で見つかったんだ」
「てことは…」
 この辺の海はまさに、彼が人魚と遭遇した付近。俊治にとっての危険エリア。
「やめておこうぜ…。万が一を考えると…」
 俺は、その話から降りた。すると俊治は、
「そうなるだろう? だから僕は、海に近づけないんだよ」
 彼の話は、ちょっとした教訓になった。それは、幻想生物が必ずしもファンタジーな設定を有しているとは限らないということだ。時に彼らは、俺たち人間に牙を向ける。それに刺さったが最後、餌食となる。
「日本には、他にも妖怪がいっぱいいるだろ? 油断はできねえと思うぜ」
 そうだな、と俺は頷いた。そしてこの旅の先で、似たような体験をした人物と出会うかもしれない。その話をまとめるのも、俺がすべきことなのだろう。
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