その十二 都合の悪い未来

文字数 6,461文字

「失礼。藤井(ふじい)海百合(みゆり)というのは君かい?」
 メガネに三つ編みのお下げで、いかにも地味で、でもどこか可愛げのある女子大生は頷いた。
「遅かったね。永遠に来ないのかと思った」
「おいおい、俺がそんな冷たい人に見えますか?」
「見える」
 海百合はなんと即答。この子の方が冷たく感じるんだが…? それこそ氷河期が来た感じだ。
「そういえばここ、長崎も原爆で有名だよね。広島に行った時は原爆ドームがあったけど、ここにはそういうのはないの?」
「原爆ね…」
 ひょっとして俺は、踏み込んではいけない何かを見事に踏み抜いた? だとすれば、謝らなくては…。
「ちょうどそれに関する話がある。アタシの祖母の話」
「そうか。身内に被爆者がいたんだね、それは失礼なことを聞いた…」
 しかし海百合は首を振るのだ。
「祖母は世紀が変わる前に死んだけど、被爆者じゃない。とある理由で原爆を避けることができた」
「とある、理由?」
 海百合は懐から、一通の封筒を取り出した。
「これは祖母が書き残した手紙。これには不思議な体験が綴られてる。キミに特別に聞かせてあげる。七十年前に一体、何があったのかを」
 封筒から便箋を取り出した。海百合のその行為は、俺を戦時中にタイムスリップさせた。
「私、藤井(ふじい)貴子(きこ)は、誰かに言っても理解されないだろうから、私の体験をこの手紙に書き残します……」

 一九四五年七月。私は幼馴染の藤井(ふじい)兵吉(へいきち)と遊んでいた。
「今日は兵隊ごっこをするぞ!」
 時代が時代なだけに兵吉は、それに夢中だった。この前も学校で作文を発表した時も、早く大人になって兵隊になり、国のために戦いたい、なんて言っていた。
「ねえ兵吉。たまにはあたしにも零戦役をさせてよ」
「駄目だ! 貴子は空母役! 僕が零戦で、敵機を撃ち落とすんだ!」
 一緒に遊ぶこと自体は楽しいことだけど、この空母役はただ、ぼさっとしているだけでつまらない。零戦役はイキイキとはしゃぎまわれる。それが羨ましかった。
「女は戦争に行って死ねないんだ、我慢しな!」
 兵吉はそんなことを容赦なく言うものだから、私は悲しくて泣き出してしまった。
「うえーん、兵吉の馬鹿!」
 すると兵吉は決まって態度を一変させて、
「女を泣かせる奴は大日本帝国国民じゃない!」
 と言って頭を撫でて慰めてくれる。少し意地悪とは自分でも感じるけど、兵吉のその優しさが本当に嬉しかった。

 兵吉と遊んだ後は、決まってちょっと遠くの防空壕に行く。別に空襲があるわけではないけど、この七月からお腹が空いたら行くようにしているのだ。
 その防空壕には、青年が一人、いつも座っている。
 彼とはつい最近知り合った。とは言っても名前は教えてくれなかった。だからいつもお兄ちゃんと呼んでいた。
 彼は、耳が半分隠れる程度の髪の長さで、そして見たことのない服を着ていた。でも明らかに日本人なのだ。
「お兄ちゃんの家はどこにあるの?」
 私は常に疑問に思っていたが、彼は、
「まだないんだ」
 そうしか答えない。でも家がない割には、服は会うたびに変わる。だから何処かに隠れ家があるんじゃないかと私は想像していた。そしてそこには、きっと食べ物がたくさん隠してあるんだろう。
「はい。今日はこれだ」
 この日は焼き芋をもらって食べた。日によっては焼き魚だったり、米だったりした。私は配給が減ってきていて常にお腹を空かせていたので、食べ物をくれる青年の存在はありがたかった。
「空腹には、気をつけるんだ」
「わかってるよ。だってこの前、隣町のおじさんが餓死したらしいし」
 でも私だけ、お腹を満たせるのは、罪悪感を抱いた。だから、
「ねえ、ほかのみんなも呼んでいい? お父さん、お母さん、お兄ちゃん…」
 だが青年は、
「駄目だ」
 この頼みだけには、冷たく返すのだ。

 思えばあの青年との出会いも不思議なことだった。
「君が、山村(やまむら)貴子だね?」
 国民学校の帰り道で、まるで私を待ち伏せていたかのように青年は曲がり角から現れた。
「はい…」
 自己紹介もしてないし、私は有名でもなんでもない。なのに青年は私のことを知っていた。
「驚かせてすまない。お詫びにおいしいものをあげよう」
 彼が私に差し出したのは、おにぎりだった。どうやったのか鞄に入っていたはずなのに、出来立てのように暖かい。そして見た事のない何かに包まれていて、中の具も食べたことがないものだった。
 食べ終わるのを見計らって青年は、
「ちょっと来てくれないか?」
 と言った。食べたからには行かなければいけないと思い、私は青年の後を追いかけた。
 そしてそのまま、防空壕に連れて来られたのだ。青年はそこを自分の生活空間にしていた。
「ここで暮らしているの?」
 青年は首を横に振った。
「じゃあ家はどこなの?」
「まだないんだ」
 そうとしか答えない。意味がわからなかったので私は、それ以上何も聞かなかった。
 その時が青年と最初に過ごした時だったけれど、青年は自分のことを何も喋ろうとしないのだ。名前を聞いても、教えてくれなかった。どうして長崎にいたかもわからなかった。
 ただ言えることは、その青年は確かに存在していたことだけだった。

「貴子。長崎は好きかい?」
「うん、大好き」
 しょっちゅう青年はそう尋ねる。私はいつも同じ答えで、彼の表情は複雑だった。
「そうか…。それは良いことだ。その思いは失くしてはいけないよ」
 言われるまでもない。私は、生活こそ苦しいものの、長崎が大好きだった。
 いつもは遊び相手にもなってくれる青年だったが、この日は違った。
「今日は食べたら、早めに帰りなよ」
「どうして?」
「どうしても」
 もっとここにいたかったけど、帰宅を促されたので家に帰った。そして家族には、青年のことはずっと黙っていた。これは彼との約束で、もし存在を知らせたら、二度と食べ物をあげないと言われていた。私は言われた通り、というよりお腹が空くのが嫌だったから、血色が良いと言われても誤魔化した。

 八月に入ると、私の運命は大きく変わった。

 その日、外出していると、急に防空警報が鳴り響いた。
 どうすればいいのかわからず私が混乱していると、急に上の方から大きな音がした。
 敵機だった。私の頭上を余裕で飛んでいる。機銃を放っているのか、近くの民家の瓦が割れる音が聞こえる。
「ああ…」
 本当に何をすればいいのかわからなかった。ただ一つ、ここにいたら弾丸が当たって死ぬということだけは、理解できた。
 その時だ。あの青年が私の体を背後から抱えて、その場から逃げた。私は、彼はこういう時こそ防空壕にいると思っていたけど、私の危機に駆けつけてくれたのだ。
 あの防空壕に二人で逃げた。そこまで来れば安全なはず。私は安心した。でも青年は、
「貴子、行かないといけないところがある」
 と言った。まずは空襲がおさまるまで待って、警報が解除されると私たちは防空壕から出た。
「どこに行くの?」
「小倉」
 急にそんなことを言うのだ。
「小倉って、北九州の?」
 彼は頷いた。
「それ、どれぐらい離れてるか知ってて言ってるの?」
 行くと言われても、そんな遠くに勝手に行くわけにはいかない。両親が心配するからだ。それに、移動手段も整えないといけなかった。私は運賃なんて、一銭も持ってはいないのだ。
 だから行かないといけなくても、そもそも行くことができない。
「小倉に知り合いもいないよ? 行ったことすらないのにどうして今、行かなきゃいけないの?」
 私は青年を引き止めるために言った。
 でも青年は、これについては強引で、
「どうしても貴子を連れて行かないといけないんだ」
 そう言うと、無理矢理私をおんぶして青年は防空壕を出た。何を言っても返事はくれたけど、下ろしくれなかった。泣くと撫でてくれる兵吉とは大違いだ。

 もうどのくらいの時間が経ったのだろうか。私はずっと青年の背中の上にいた。気づけば日は落ちて、真っ暗だ。全く知らない町に二人ぼっち。私は不安になった。
「ここまで来れば大丈夫だ」
 何が大丈夫なのかは、教えてくれない。早く帰りたいと言っても、聞く耳すら持ってくれなかった。
 でも彼は、知り合いがいない町でも生きていけると豪語した。その宣言通り、鞄からはいつでも食べ物を取り出した。そしてどこで知ったのか知らないけど、また防空壕に住み始めたのだ。

 八月九日。この日はゆっくり起きた。既に青年は身だしなみを整えており、非常に厳しい表情であった。私は何か、怒らせてしまったのかと思ったが起き上がるのを見ると、
「おはよう」
 と声をかけてくれた。私もおはようと返事した。すると青年は、
「ちょっと来てくれ」
 と私を連れ出した。
 近くの高台に上がって長崎の方を向くと、見たことがないきのこのような大きな雲がそこにあった。
「何なの、あれは?」
 こういう質問には青年は絶対に答えない。だけど、
「貴子…。あの下で七万人が死ぬって言ったら信じるかい?」
 と言うのだ。
「ななまん…?」
 いまいちよくわからない数字だった。
「ちょっと待って! 長崎には私の家族がいるんだよ? お父さんは、お母さんは、お兄ちゃんはどうなるの?」
 長崎には、兵吉だっているのだ。それが、みんな死ぬと? 私は信じられなかった。だってここからでは、あの大きな雲しか見えないからだ。
「貴子。大人になるまで長崎に戻ってはいけないよ」
 私はちゃんとそれを聞いていた。いつもなら反論しただろうけど、今回は別だ。青年の目が、どこか悔しそうな輝きを放っていた。だから彼に何も言わなかった。

 それから一ヶ月だろうか? 小倉の町を一人で歩いていると、見覚えのある顔が大急ぎで走ってくるのだ。
「貴子! ここにいたのか!」
 兵吉だ。なんと長崎から、あの日の惨劇を乗り越えて、はるばる小倉までやって来たのだ。
「よかった! 貴子は生きててくれたんだ!」
「どういう意味?」
 兵吉は教えてくれた。あの日、私の家族が全員死んでしまったことを。私はその場に泣き崩れた。もちろん兵吉は泣き止むまで撫でてくれた。
 防空壕に戻って、私はまた泣いた。もう二度と、家族には会えないのだ。私は一人ぼっち、この世界に取り残された感覚だった。
「どうすればいいの…?」
 青年に聞いた。そんなこと、彼も知っているはずがないのに。
 でも彼は、
「兵吉を信じるんだ。貴子は彼の側にいれば、それだけでいいんだ。彼はきっと、家族のように信じられる存在だ」
 と言う。その声はどこか、悲しみを感じさせた。青年の言う通り私は、兵吉の家族に混ざって生活することになった。
 しばらくの間は小倉で暮らしていたが、どういうわけかあの青年と再開することはなく、その存在は煙のように消えてしまっていた。防空壕には、人がいた痕跡すら残っていなかった。

「……そしてそれから兵吉のところへ嫁に行き、長崎に戻って来たました。何度かあの青年を探しましたが、結局見つかりませんでした。名前も知らないし、当時彼の知り合いにすら会ったことがなかったので、当たり前のことですが、何もわかりませんでした。でもどうしても忘れられないのです。私のことを原爆から、助けてくれた彼のことを」
 海百合は手紙を読み終えた。
「……その話が本当なら、未来人って存在するのかもね」
 俺は感動した。これは美談だ。自分の先祖を、未来からやって来た子孫が助ける。ありふれた話ではあるが、実際に聞いてみるとジーンとくる。
 しかし海百合は、おかしなことを言い出した。
「本当に、そう思う?」
「どういう意味だ?」
 海百合はため息を吐くと、
「少し考えればわかる。その青年は未来人なんでしょうね、でもどうして祖母を助けたの?」
「それは、生きてくれなきゃ都合が悪いからだろ?」
「逆じゃない?」
「と言うと?」
 海百合の推測は、本当に真逆のものだった。
「青年にとっては、祖母が生き残る事の方が都合が悪い」
 何を言い出す? 俺はこの話に付いていけていると思っていたが、間違いだったのか?
 だがその考えをちゃんと説明してくれた。
「未来人がどうやって過去に来たのかは目を瞑る。でも、その未来では? 本来の未来における過去では、青年はきっといない。だって祖母は家族とともに原爆で間違いなく死ぬはずだから」
「そういうことか…」
 俺も意味を理解した。

 海百合の祖母は、原爆で死ぬはずだった。でも青年が過去に介入して、助かった。
 なら青年が来るはずがない本来の未来では、どうなっている? 簡単だ。彼女の祖母は、助かってはいないだろう。
「もしそうなら、青年が海百合の祖母の子孫であるはずがない…」
 当然だ。俺に当てはめて考えればわかりやすいか。
 俺の祖母がその時代で死んでいれば、母は生まれない。なら俺の存在が成り立つはずもない。血がそこで途切れるからだ。
 でも、青年はその本来の時の流れの延長上に存在している。
 ということは、海百合の祖母と青年は血が繋がっていないということになる。
「先祖が死んだ未来から、子孫がやって来るはずないでしょう?」
 その通りだ…。
 海百合によれば、この青年は祖母が助からなかった場合にのみ誕生する存在で、祖母が祖父と再開した際にその生存が確定したから、青年の存在が成り立たなくなって消えたと言う。

「じ、じゃあ、都合が悪い未来ってのは…?」
「きっと、祖父は他の女性と結婚して、また違う子孫を残したんだろうね。それはアタシじゃないどこか別の誰か。その誰かの末裔が青年。そうすると青年の目的もわかりやすくない?」
 答えは俺でも容易に想像できた。だが、それが本当だとしたら…。
「でもそれは変だ! 何で自分の存在を誕生させなくする必要があるんだ?」
「それはきっと、未来の世界で青年が何か、悪いことでもしたんじゃない? その罰が、自分の存在を歴史から抹消することだったりして? それとは別個で、青年自体が何か悪い存在だったのかもね。例えば青年のさらに先の子孫が、大悪党になるから、先に手を打ったとか? まあ今となっては祖母が書き残したように、何もわからないけど」

 俺は複雑な気持ちだった。あの手紙の内容を聞く分には、良い話に聞こえる。だが実際には何か、悪いことがあったのだ。よく思い出してみると、変なところもある。
 青年はどうして海百合の祖母だけ救い出したのだろうか。その気になれば家族ごと助けることができたんじゃないのか。いや、もっと多くの命を守ることすら、可能であったはずだ。
 どうして小倉に逃げたのだろうか。本当ならあそこに原爆が落とされていたのに。予め投下されないことを知っていた、からか。でも自分が動けば歴史が変わる。その微妙なズレのせいでほんの少し天気が良くなれば、青年だって原爆からは逃れられなかったはずだ。
 そもそも隠れていた防空壕では、どうやって人をかわしていたんだ? そこに住み着いていたら、絶対に噂になるだろう。でも当時、青年の存在を知っていたのは海百合の祖母だけ。
 入市被爆を恐れたのかもしれなが、でも大人になるまで長崎に戻ってはいけない、は警告としては長すぎる。もしかすると、彼女が大人になる前に長崎に戻ることにも、何か不利益が生じるのだろうか。
 俺のこの疑問に、海百合は冷たく答えたのだった。
「歴史が大きく変わる行為は、禁止されていたんじゃない? それに色々と制限がついているのはやっぱり、青年が罪人である証拠じゃないの」
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