その五十一 英霊海
文字数 5,854文字
海を見ていると、いつも思うことがある。
「日本は戦争をしたんだよな……」
俺は孤児院の出なので、親はいない。祈裡は祈裡で、先祖について興味がない。だが、かつてこの海の向こうで戦いがあり、命を落とした人がいるのは事実だ。彼らは住んでいる国こそ違えど、俺たちと同じ人間だったのだ。
「悲しいのはね、その後だよ。国のために戦った人たちが、どうして裁かれないといけないんだ?」
今日話を聞かせてくれるのは、この漁村に住んでいる男だ。名前は鮎川 衛 。現役の漁師であり、俺は取材と称して船に乗せてもらってその仕事を手伝うことになった。
「こんな時間に出発する?」
定置網を使うらしく、眠たい目を擦りながら夜明け前に海に出た。
「慣れるとな、眠くなくなる」
「……何それ怖いぞ? だったら俺は慣れんでいいや。この時間帯は是非とも夢の中にいたいね」
カツオの一本釣りとかはしないらしく、設置したらそれで終了。もう、帰るらしい。何とか酔わずに済んだので、掃除した漁船を汚すことはなかった。
言ってしまうと、衛の仕事は完全に規則化されている。まるでロボットが、課された仕事を淡々とこなしていくかのようだ。
しかし、その動きの中に不自然な行為を俺は発見した。
「安らかに、眠ってくだされ。そして私たちを守ってくだされ……」
彼は確かにそう言うと、おにぎりを一個、海に投げ入れたのだ。
「あのう、今のは一体?」
俺が聞かなかったら、完全に不思議で包まれたままとなったこの行動、
「ああ、説明し忘れていた!」
ちゃんと、衛は解説をしてくれた。
僕はこの漁村で生まれ育った。だから小さい頃から、
「お前は大人になったら、漁師になるんだぞ」
と、何度もいい聞かされたし、僕自身もそれを望んでいた。
日本の漁師は、知識や学歴なんて要求されない。だから高校に入ると同時に、親の仕事を手伝い始めた。一応、船舶の免許を獲得するための勉強は怠らなかった。
ある時、父さんが漁に出る前に、
「おい衛? おにぎりは持ったか?」
僕に尋ねた。僕は、
「ええ? 弁当があるじゃない? 足りないなら、母さんに言ってよ」
船の上で腹が空くから要求されたと思ったが、そうではないらしく、
「違うよ、俺でもお前でもない。海が必要としているんだ」
「海が?」
ここで僕は馬鹿だったから、エサに使うのだろうと思い、それを口にした。
「衛にも、教えてやらないとな……」
父さんはそれ以上は何も言わなかった。
暗い海に出た。この時はもう慣れっこだったので眠気に負けるなんてことはない。
「いいか衛? これは我が家においてとても重要なことなんだぞ?」
それは先祖の話であるらしい。でも、漁民の子は漁民にしかならない。だから先祖も子孫も関係ない気がしてならない。
「歴史は学校で学んだだろう?」
「はい。小中でもやったし、高校でもやるよ」
父さんは海を見渡しながら、
「太平洋戦争の話は?」
「日本が負けたっていうあれね、かじったよ。あんまし詳しくは取り上げられなかったけど、同級生の中には興味を持った人もいたんじゃないかな?」
僕の中では、戦争はそんな認識だ。それこそ随分と大昔の、自分とは全く関係のない出来事。
「ところがな、そうじゃないんだよ……」
父さんが重そうな口を開いた。
戦争になれば、兵士が必要になる。当然僕の家にも、赤紙が届いたらしい。ご先祖様は海軍に入隊し、国のために戦うこととなった。
時期は、太平洋戦争末期。若くして軍人となったご先祖様に与えられた任務は、ゼロ戦に乗って敵艦に突っ込むこと……つまりは特攻だ。
ご先祖様は、この生きて帰って来れない任務を拒まなかった。出撃前まで書かれていた日記には、
「命を賭けずして、どうやって家族や国が守れようか」
と。死ぬことは覚悟の上だったのだ。
そして最後の日が来る。ご先祖様の乗るゼロ戦が、どこの飛行場から飛び立ったのか、それとも空母から発進したのかは詳しく伝わっておらず、知らない。本当に敵艦に突っ込めたのか、それとも事前に撃ち落とされてしまったのかも、今となってはわからない。
「ただ一つ言えることはな……。ご先祖様は国のために命を捧げた。それだけだ」
ご先祖様には、子供がいなかった。だから彼と僕は、血が繋がっていないのだ。もっと言ってしまえば、戦後鮎川家は養子を迎え入れる。その人が残した子孫たちが父さんや僕。だから運命が違えば、僕や父さんは鮎川家とは無縁な生活を送っていたのかもしれない。
「英霊となったわけだな、ご先祖様は」
「ふーん」
興味のなさそうな返事を僕がしたのには、わけがある。授業では、戦後日本は裁判にかけられたと習った。その裁判がいかに理不尽かは少ししか習わない。だから当時の僕の中には、軍人=罪人、旧日本軍=賊軍というイメージがあって、そんな人物が先祖にいるなんてあまり想像したくなかったのだ。
「英霊って言ってもね……」
罪深き魂が海を彷徨っている。父さんの話を僕は、そんな風に咀嚼していた。
「で、そんな軍人にお供え物?」
父さんが必要だと言っていたおにぎりは、何と海に投げ入れられてしまったのである。きっと、どこで死んだかわからないご先祖様に届けてやりたいのだろう。
「当たり前だ。お国のために戦ったご先祖様には当然、食べる権利がある!」
父さんはそう熱弁していたけれど、僕はというと上の空だった。でも毎回、海に出る時には必ずおにぎりを一個、海に送るのだ。
その習慣は、父さんが引退して僕の時代になっても続いた。母さんがお供えのためのおにぎりを作って渡してくるからだ。断ろうにも、
「あんたの分じゃない! ご先祖様が食べるの!」
と言われ、無理矢理渡してくるのだ。こうなってくると揉めるのが面倒なので、言われた通り海に投げ入れる。
正直、米がもったいないと感じた。だって毎度毎度、律儀に食料を海に持って行かれるのは、見ていて面白くないからだ。
「僕の代で、廃止してもいいよな…。だってこのおにぎり、僕だって食べたいよ」
次の漁から、隠れて食べてしまおう。僕はそんな邪悪な思いを抱いた。
「でも、今回だけは。最後だからな…」
その日の漁では、ちゃんと海に捧げた。
そして、事件が起きる。それは僕が、海にお供え物を投げるのはこれで最後だ、と思った漁の帰り道。
「何だ、海が荒れているぞ……!」
天気予報が外れてしまい、大荒れとなったのだ。大粒の雨が船を打ち付け、さらに波が船体に当たる度に揺れる。
「うおおおお!」
何とか舵を取って港を目指していたけど、GPSがバグってしまい、わけのわからない方向を指し示し始めた。
「おいおい! しっかりしろよ、帰れなくなるじゃないか!」
そう叫んだ直後、雷が漁船に落ちた。船内は一瞬で暗くなる。
「え、何? 電気が落ちた? まさか!」
こんな海の上で、それは絶望的。携帯は大丈夫に見えて実は、圏外なので役に立たない。
「あ、でも! 光ってるじゃないか!」
周りを見回して、一瞬だけホッとした。でもそれがすぐに、僕に大量の汗をかかせた。
その光は、揺らいでいるように見える。
「火事だ!」
そう。雷のせいで漁船の一部が燃えていたのだ。運の悪いことに、それは燃料タンクの真上。
「うわあああわああああああああ!」
叫んだ瞬間、引火して爆発した。
ここはどこだろう? 僕は船の上にいたはずなのに、景色が全然違うのだ。魚が泳いでいて、岩場があって……まるで海底だ。
「あ、そっか。僕は死んだんだな…」
無意識の内に、そう思った。それで今、魂が体ごと海の底に落ちた、と。
やがて、魚やタコ、ウニやヒトデが僕の周りを取り囲む。食べる気なんだ。
「死んじゃったのなら、仕方がない。さあ思いっきし食べろよ、骨も残すな!」
僕は大の字になった。抵抗する気はない。
「待て!」
しかしその声が響くと、魚たちは止まる。僕が顔を上げると、そこには飛行服に身を包んだ若い男が一人、僕の側に立っていた。
「お前らのエサではない。さあ、散れ!」
そう言って魚たちを散らすと、今度は僕に手を貸してくれた。僕は差し伸べられた手を握って立ち上がり、
「良かった。今ならまだ間に合う。さあ、帰ろうか!」
と言われたので、
「帰るって、どこへ?」
「陸だ。君はそこから来たんだろう?」
頷いて答えると、
「なら帰るべきだ。道は知っている。ついて来てくれ!」
その若い男はとても真面目な印象を僕に抱かせた。
「あの、君は誰? そしてここは、海底でいいんだよね?」
僕はそんな質問をする。居ても立っても居られないなくなったからだ。
「ここは、海の底ではないよ」
彼は最初の質問には答えなかったけど、この場所については教えてくれた。
「君は今、君の心の中にいる」
「心? 僕の?」
「そうだ。今、戦っているんだ。生と死が。君がこれからどちらを行くべきか……」
「死んだらどうなるの?」
「さっきの魚たちに食われる。それは嫌だろう?」
当たり前だ。
「でも君一人の力では、生きて帰れないかもしれない。だから私が力を貸しているんだ」
そうなると、疑問は一つ。
「じゃあ君は、誰なの?」
この海底が僕の心の中であり、そして生死を彷徨っているのなら、この目の前の男性は一体誰だ?
「これを見てもらえれば、わかるかな?」
「あ! それは!」
得意気に彼は、懐からおにぎりを取り出した。
「毎日、君たちはこれを私に送ってくれる。もちろん全部、私は受け取っているよ。日々、美味しくなっていく気がするね」
間違いない。彼は僕のご先祖様なのだ。僕や父さんが海に投げているおにぎりを、彼は受け取って食べているのだ。
それを見ているとお腹が空いて、僕は自分の腹をさすった。
「分けることはできないんだ……。これは死者の食べ物だからね。でも君は生きて陸に上がって、好きな物を沢山食べてくれ」
空腹を感じているということは、生きているという証拠だ。だから僕は、頑張って彼の後を追った。
「あ、あの、ご先祖様?」
「何だい?」
僕は思っていることを聞いた。
「ご先祖様は、僕のことをどう思っているのですか?」
「どういう意味だい?」
質問の真意は、簡単だ。僕は軍人は悪い人というイメージを持っていたので、ご先祖様も悪いヤツという認識を捨て切れていなかった。そんな彼が、僕のことを助けてくれたのだ。きっと、何か理由があるに違いない。
「特にはないよ。私は未来のために戦い、命を賭けた。その未来を生きる僕の子孫、どんな人でも大切な人たちだ。子孫のために、私はできる限りのことをするだけ。君たちだって、毎日私におにぎりを届けてくれるだろう?」
「それは、習慣というか…」
「じゃあ、私も。子孫を正しい方向に導くのが、先祖の習わしだ」
彼は、悪者扱いされていることを咎めなかった。だからと言って訂正したりもしなかった。
やがて、ゴールが見えてくる。
「この岩場を抜ければ、陸だ」
「っふ、ふう、長かった。でももう大丈夫なんでしょう?」
そう言うと、自信なさげに、
「だと思う」
と返される。
(そっか…。ご先祖様はゼロ戦に乗って、海で死んで、帰って来なかった。だから確証がないんだ……。この道を進んでも、必ず生還できるってことが、わからないんだ……)
ならば、と僕は思った。
「大丈夫ですよ、ご先祖様! 絶対に僕は陸に戻ってみせます! そうしたら、見守ってください! 鮎川家の未来を! 立派な漁師になってみせます!」
「君からそう言ってくれると、とても有難い! じゃあ後は、任せたぞ……」
ご先祖様は足を止め、それ以上前には進まない。いや、死者だから進めないのだろう。
(これから先は、生者の道……! 僕は絶対に戻ってみせる!)
ご先祖様の思いを無駄にはできない。そう思って僕は一歩一歩、勇気を振り絞って歩んだ。
「………ん…?」
気がつくと、砂浜に横たわっていた。
(まだ、僕の心の中なのか……?)
そう思っていると、通りかかった人がどこかに電話をしている。ほどなくして救急車が来て、僕を病院にまで運んだ。
僕は奇跡的に助かったのだ。
主治医曰く、
「きっと、身に着けていた救命胴衣が役に立ったんでしょう。それがなかったら、帰らぬ人でしたな…。」
らしい。
(あれ…?)
僕は戸惑った。確かに漁船には、救命胴衣は備えてある。でも、当時は着用の義務はなかったし、そもそも僕は惰性のせいで毎回着ていない。あの雷が落ちた時も、腕を通す暇はなかったはずだ。
入院中、海を見ながら考えていた。
「ご先祖様が、着させてくれたんだ。間違いない……」
あの、僕の心の中での出来事は、言ってしまえば全てが妄想と片付けられる。
でも、違うんだ。ご先祖様の魂は僕を助けてくれたんだ。
退院した後、このことを父さんに話した。馬鹿にされるかと思いきや、
「そうか。それは良かった! ご先祖様に感謝しないとな!」
受け入れられた。同時に、ご先祖様の写真を見せてもらった。
「そっくりだ!」
僕の心に出て来た人と、瓜二つであった。
その後、僕は海に出る時は必ずおにぎりを持って行く。ご先祖様に感謝を込めて、おにぎりを彼に送り届けているのだ。
「多分さ、僕がおにぎりを海に送ってなかったら、ご先祖様は助けてくれなかったと思うんだよ」
衛はそう結論付けた。
「自分の子孫って認識できないから? 血は繋がっていないって言ってたし…」
そうだと彼は頷いた。
「あの時に見たのは、幻だったのかもしれないね。臨死体験ってヤツ? でも、そこにご先祖様が駆け付けてくれたのは事実なんだ。だって父さんに写真を見せられるまで、僕は顔すら知らなかったから」
なるほどな。
「そういう風に先祖のことを考えると、英霊たちに敬礼したくなるね」
「僕はいつもしているよ」
悪い印象ばかりが目立つ戦争だが、戦った人たちの魂までは血塗られてはいない。戦没者の魂は、今もなおこの海にいる。今を生きる子孫の日本人たちは、その魂の温もりを忘れてはいけないのだ。
「日本は戦争をしたんだよな……」
俺は孤児院の出なので、親はいない。祈裡は祈裡で、先祖について興味がない。だが、かつてこの海の向こうで戦いがあり、命を落とした人がいるのは事実だ。彼らは住んでいる国こそ違えど、俺たちと同じ人間だったのだ。
「悲しいのはね、その後だよ。国のために戦った人たちが、どうして裁かれないといけないんだ?」
今日話を聞かせてくれるのは、この漁村に住んでいる男だ。名前は
「こんな時間に出発する?」
定置網を使うらしく、眠たい目を擦りながら夜明け前に海に出た。
「慣れるとな、眠くなくなる」
「……何それ怖いぞ? だったら俺は慣れんでいいや。この時間帯は是非とも夢の中にいたいね」
カツオの一本釣りとかはしないらしく、設置したらそれで終了。もう、帰るらしい。何とか酔わずに済んだので、掃除した漁船を汚すことはなかった。
言ってしまうと、衛の仕事は完全に規則化されている。まるでロボットが、課された仕事を淡々とこなしていくかのようだ。
しかし、その動きの中に不自然な行為を俺は発見した。
「安らかに、眠ってくだされ。そして私たちを守ってくだされ……」
彼は確かにそう言うと、おにぎりを一個、海に投げ入れたのだ。
「あのう、今のは一体?」
俺が聞かなかったら、完全に不思議で包まれたままとなったこの行動、
「ああ、説明し忘れていた!」
ちゃんと、衛は解説をしてくれた。
僕はこの漁村で生まれ育った。だから小さい頃から、
「お前は大人になったら、漁師になるんだぞ」
と、何度もいい聞かされたし、僕自身もそれを望んでいた。
日本の漁師は、知識や学歴なんて要求されない。だから高校に入ると同時に、親の仕事を手伝い始めた。一応、船舶の免許を獲得するための勉強は怠らなかった。
ある時、父さんが漁に出る前に、
「おい衛? おにぎりは持ったか?」
僕に尋ねた。僕は、
「ええ? 弁当があるじゃない? 足りないなら、母さんに言ってよ」
船の上で腹が空くから要求されたと思ったが、そうではないらしく、
「違うよ、俺でもお前でもない。海が必要としているんだ」
「海が?」
ここで僕は馬鹿だったから、エサに使うのだろうと思い、それを口にした。
「衛にも、教えてやらないとな……」
父さんはそれ以上は何も言わなかった。
暗い海に出た。この時はもう慣れっこだったので眠気に負けるなんてことはない。
「いいか衛? これは我が家においてとても重要なことなんだぞ?」
それは先祖の話であるらしい。でも、漁民の子は漁民にしかならない。だから先祖も子孫も関係ない気がしてならない。
「歴史は学校で学んだだろう?」
「はい。小中でもやったし、高校でもやるよ」
父さんは海を見渡しながら、
「太平洋戦争の話は?」
「日本が負けたっていうあれね、かじったよ。あんまし詳しくは取り上げられなかったけど、同級生の中には興味を持った人もいたんじゃないかな?」
僕の中では、戦争はそんな認識だ。それこそ随分と大昔の、自分とは全く関係のない出来事。
「ところがな、そうじゃないんだよ……」
父さんが重そうな口を開いた。
戦争になれば、兵士が必要になる。当然僕の家にも、赤紙が届いたらしい。ご先祖様は海軍に入隊し、国のために戦うこととなった。
時期は、太平洋戦争末期。若くして軍人となったご先祖様に与えられた任務は、ゼロ戦に乗って敵艦に突っ込むこと……つまりは特攻だ。
ご先祖様は、この生きて帰って来れない任務を拒まなかった。出撃前まで書かれていた日記には、
「命を賭けずして、どうやって家族や国が守れようか」
と。死ぬことは覚悟の上だったのだ。
そして最後の日が来る。ご先祖様の乗るゼロ戦が、どこの飛行場から飛び立ったのか、それとも空母から発進したのかは詳しく伝わっておらず、知らない。本当に敵艦に突っ込めたのか、それとも事前に撃ち落とされてしまったのかも、今となってはわからない。
「ただ一つ言えることはな……。ご先祖様は国のために命を捧げた。それだけだ」
ご先祖様には、子供がいなかった。だから彼と僕は、血が繋がっていないのだ。もっと言ってしまえば、戦後鮎川家は養子を迎え入れる。その人が残した子孫たちが父さんや僕。だから運命が違えば、僕や父さんは鮎川家とは無縁な生活を送っていたのかもしれない。
「英霊となったわけだな、ご先祖様は」
「ふーん」
興味のなさそうな返事を僕がしたのには、わけがある。授業では、戦後日本は裁判にかけられたと習った。その裁判がいかに理不尽かは少ししか習わない。だから当時の僕の中には、軍人=罪人、旧日本軍=賊軍というイメージがあって、そんな人物が先祖にいるなんてあまり想像したくなかったのだ。
「英霊って言ってもね……」
罪深き魂が海を彷徨っている。父さんの話を僕は、そんな風に咀嚼していた。
「で、そんな軍人にお供え物?」
父さんが必要だと言っていたおにぎりは、何と海に投げ入れられてしまったのである。きっと、どこで死んだかわからないご先祖様に届けてやりたいのだろう。
「当たり前だ。お国のために戦ったご先祖様には当然、食べる権利がある!」
父さんはそう熱弁していたけれど、僕はというと上の空だった。でも毎回、海に出る時には必ずおにぎりを一個、海に送るのだ。
その習慣は、父さんが引退して僕の時代になっても続いた。母さんがお供えのためのおにぎりを作って渡してくるからだ。断ろうにも、
「あんたの分じゃない! ご先祖様が食べるの!」
と言われ、無理矢理渡してくるのだ。こうなってくると揉めるのが面倒なので、言われた通り海に投げ入れる。
正直、米がもったいないと感じた。だって毎度毎度、律儀に食料を海に持って行かれるのは、見ていて面白くないからだ。
「僕の代で、廃止してもいいよな…。だってこのおにぎり、僕だって食べたいよ」
次の漁から、隠れて食べてしまおう。僕はそんな邪悪な思いを抱いた。
「でも、今回だけは。最後だからな…」
その日の漁では、ちゃんと海に捧げた。
そして、事件が起きる。それは僕が、海にお供え物を投げるのはこれで最後だ、と思った漁の帰り道。
「何だ、海が荒れているぞ……!」
天気予報が外れてしまい、大荒れとなったのだ。大粒の雨が船を打ち付け、さらに波が船体に当たる度に揺れる。
「うおおおお!」
何とか舵を取って港を目指していたけど、GPSがバグってしまい、わけのわからない方向を指し示し始めた。
「おいおい! しっかりしろよ、帰れなくなるじゃないか!」
そう叫んだ直後、雷が漁船に落ちた。船内は一瞬で暗くなる。
「え、何? 電気が落ちた? まさか!」
こんな海の上で、それは絶望的。携帯は大丈夫に見えて実は、圏外なので役に立たない。
「あ、でも! 光ってるじゃないか!」
周りを見回して、一瞬だけホッとした。でもそれがすぐに、僕に大量の汗をかかせた。
その光は、揺らいでいるように見える。
「火事だ!」
そう。雷のせいで漁船の一部が燃えていたのだ。運の悪いことに、それは燃料タンクの真上。
「うわあああわああああああああ!」
叫んだ瞬間、引火して爆発した。
ここはどこだろう? 僕は船の上にいたはずなのに、景色が全然違うのだ。魚が泳いでいて、岩場があって……まるで海底だ。
「あ、そっか。僕は死んだんだな…」
無意識の内に、そう思った。それで今、魂が体ごと海の底に落ちた、と。
やがて、魚やタコ、ウニやヒトデが僕の周りを取り囲む。食べる気なんだ。
「死んじゃったのなら、仕方がない。さあ思いっきし食べろよ、骨も残すな!」
僕は大の字になった。抵抗する気はない。
「待て!」
しかしその声が響くと、魚たちは止まる。僕が顔を上げると、そこには飛行服に身を包んだ若い男が一人、僕の側に立っていた。
「お前らのエサではない。さあ、散れ!」
そう言って魚たちを散らすと、今度は僕に手を貸してくれた。僕は差し伸べられた手を握って立ち上がり、
「良かった。今ならまだ間に合う。さあ、帰ろうか!」
と言われたので、
「帰るって、どこへ?」
「陸だ。君はそこから来たんだろう?」
頷いて答えると、
「なら帰るべきだ。道は知っている。ついて来てくれ!」
その若い男はとても真面目な印象を僕に抱かせた。
「あの、君は誰? そしてここは、海底でいいんだよね?」
僕はそんな質問をする。居ても立っても居られないなくなったからだ。
「ここは、海の底ではないよ」
彼は最初の質問には答えなかったけど、この場所については教えてくれた。
「君は今、君の心の中にいる」
「心? 僕の?」
「そうだ。今、戦っているんだ。生と死が。君がこれからどちらを行くべきか……」
「死んだらどうなるの?」
「さっきの魚たちに食われる。それは嫌だろう?」
当たり前だ。
「でも君一人の力では、生きて帰れないかもしれない。だから私が力を貸しているんだ」
そうなると、疑問は一つ。
「じゃあ君は、誰なの?」
この海底が僕の心の中であり、そして生死を彷徨っているのなら、この目の前の男性は一体誰だ?
「これを見てもらえれば、わかるかな?」
「あ! それは!」
得意気に彼は、懐からおにぎりを取り出した。
「毎日、君たちはこれを私に送ってくれる。もちろん全部、私は受け取っているよ。日々、美味しくなっていく気がするね」
間違いない。彼は僕のご先祖様なのだ。僕や父さんが海に投げているおにぎりを、彼は受け取って食べているのだ。
それを見ているとお腹が空いて、僕は自分の腹をさすった。
「分けることはできないんだ……。これは死者の食べ物だからね。でも君は生きて陸に上がって、好きな物を沢山食べてくれ」
空腹を感じているということは、生きているという証拠だ。だから僕は、頑張って彼の後を追った。
「あ、あの、ご先祖様?」
「何だい?」
僕は思っていることを聞いた。
「ご先祖様は、僕のことをどう思っているのですか?」
「どういう意味だい?」
質問の真意は、簡単だ。僕は軍人は悪い人というイメージを持っていたので、ご先祖様も悪いヤツという認識を捨て切れていなかった。そんな彼が、僕のことを助けてくれたのだ。きっと、何か理由があるに違いない。
「特にはないよ。私は未来のために戦い、命を賭けた。その未来を生きる僕の子孫、どんな人でも大切な人たちだ。子孫のために、私はできる限りのことをするだけ。君たちだって、毎日私におにぎりを届けてくれるだろう?」
「それは、習慣というか…」
「じゃあ、私も。子孫を正しい方向に導くのが、先祖の習わしだ」
彼は、悪者扱いされていることを咎めなかった。だからと言って訂正したりもしなかった。
やがて、ゴールが見えてくる。
「この岩場を抜ければ、陸だ」
「っふ、ふう、長かった。でももう大丈夫なんでしょう?」
そう言うと、自信なさげに、
「だと思う」
と返される。
(そっか…。ご先祖様はゼロ戦に乗って、海で死んで、帰って来なかった。だから確証がないんだ……。この道を進んでも、必ず生還できるってことが、わからないんだ……)
ならば、と僕は思った。
「大丈夫ですよ、ご先祖様! 絶対に僕は陸に戻ってみせます! そうしたら、見守ってください! 鮎川家の未来を! 立派な漁師になってみせます!」
「君からそう言ってくれると、とても有難い! じゃあ後は、任せたぞ……」
ご先祖様は足を止め、それ以上前には進まない。いや、死者だから進めないのだろう。
(これから先は、生者の道……! 僕は絶対に戻ってみせる!)
ご先祖様の思いを無駄にはできない。そう思って僕は一歩一歩、勇気を振り絞って歩んだ。
「………ん…?」
気がつくと、砂浜に横たわっていた。
(まだ、僕の心の中なのか……?)
そう思っていると、通りかかった人がどこかに電話をしている。ほどなくして救急車が来て、僕を病院にまで運んだ。
僕は奇跡的に助かったのだ。
主治医曰く、
「きっと、身に着けていた救命胴衣が役に立ったんでしょう。それがなかったら、帰らぬ人でしたな…。」
らしい。
(あれ…?)
僕は戸惑った。確かに漁船には、救命胴衣は備えてある。でも、当時は着用の義務はなかったし、そもそも僕は惰性のせいで毎回着ていない。あの雷が落ちた時も、腕を通す暇はなかったはずだ。
入院中、海を見ながら考えていた。
「ご先祖様が、着させてくれたんだ。間違いない……」
あの、僕の心の中での出来事は、言ってしまえば全てが妄想と片付けられる。
でも、違うんだ。ご先祖様の魂は僕を助けてくれたんだ。
退院した後、このことを父さんに話した。馬鹿にされるかと思いきや、
「そうか。それは良かった! ご先祖様に感謝しないとな!」
受け入れられた。同時に、ご先祖様の写真を見せてもらった。
「そっくりだ!」
僕の心に出て来た人と、瓜二つであった。
その後、僕は海に出る時は必ずおにぎりを持って行く。ご先祖様に感謝を込めて、おにぎりを彼に送り届けているのだ。
「多分さ、僕がおにぎりを海に送ってなかったら、ご先祖様は助けてくれなかったと思うんだよ」
衛はそう結論付けた。
「自分の子孫って認識できないから? 血は繋がっていないって言ってたし…」
そうだと彼は頷いた。
「あの時に見たのは、幻だったのかもしれないね。臨死体験ってヤツ? でも、そこにご先祖様が駆け付けてくれたのは事実なんだ。だって父さんに写真を見せられるまで、僕は顔すら知らなかったから」
なるほどな。
「そういう風に先祖のことを考えると、英霊たちに敬礼したくなるね」
「僕はいつもしているよ」
悪い印象ばかりが目立つ戦争だが、戦った人たちの魂までは血塗られてはいない。戦没者の魂は、今もなおこの海にいる。今を生きる子孫の日本人たちは、その魂の温もりを忘れてはいけないのだ。