その十四 罪なき子

文字数 7,350文字

 実は俺と祈裡は、宮城県に来たことがある。あれは東日本大震災の時だ。アメリカ軍だか自衛隊だかにコネがある先輩がいる友人にほぼ無理矢理連れて来られた。ボランティアは貴重な体験だったが、観光は一切できなかった。今回も駄目そうだな…。
 随分と値段が高い市営地下鉄に乗って、俺と祈裡は旭ヶ丘駅で降りて少し歩いた。
「向こうから来てくれればいいのに」
 そんな文句を祈裡は言ったので、贅沢言うなと釘を刺しておいた。これだからお金持ちのボンボンは…。
「えーと、あれがそうだな? 科学館。あそこのレストランに今回約束した人がいる」
 その人はこの科学館の職員、つまりは学芸員であるそうだ。今日は非番だがわざわざそこに来てくれるのだ。感謝せねば。
「えっ! 入館料?」
 きっちり徴収された。これぐらいサービスしてくれないのかよ。まあ安いから気にしない。
 レストランの前まで来ると、
「君が天ヶ崎氷威だね?」
 左薬指にゴールドの指輪を輝かせる男性に呼び止められた。
「というと、あんたが長谷川(はせがわ)興児(きょうじ)?」
「おいおい、私は君より年上なんだぜ? 少なくとも六つは。目上の人にあんた、はないだろう?」
 興児その人であった。キリッとしたイケメンで、今年三十歳になったとは思えないぐらい若そうで、俺と同い年に見えるほどだ。
「私が奢ろう。何が食べたい?」
 そう言われると、好物よりも値段が高いのを食べたくなる。俺も祈裡も、メニューに目を走らせる。パスタにドリンク、デザートも注文した。
「簡単にプロフィールを見させてもらったが、沖縄出身なのか。私は行ったことがないから、暑そうなイメージばかりあるのだが」
「実は、日本で一番涼しいところだったりするよ!」
 祈裡が答えた。それに興児は驚いた。沖縄は周囲が海に囲まれているから、熱も逃げやすのをさては、知らないな?
「あのひめゆり学徒隊も沖縄だったか。私は歴史は専門外だが、聞いたことはある。第二次世界大戦で唯一、本土での戦いがあったのも沖縄だ」
「ここ、仙台市も悲惨だったみたいですね。仙台空襲。小耳に挟んだことがある」
 世間話はこれぐらいにして、本題に入ろう。俺が興児を促すと、
「私は三年前に結婚したが、今の妻とともに恐ろしく、そして後味の悪い体験をした」
 語り出した。

 俺は大学を卒業すると同時に学芸員になれた。針の穴よりも狭い門で、奇跡と言いようがなかった。忙しい職業でもあったが、贅沢はあまり好きじゃない。むしろ勉学は大好きだし、趣味は貯金っていうレベルだ。だからこの仕事はまさに自分にピッタリだ。
 そんな俺に、ある日大学時代の先輩が会いに来た。
「紹介したい人〜?」
「そうだ。喜べ、べらぼうな美人だぞ? 興児にお似合いだ」
 先輩はとても面倒見が良い。だからその人に、誰か紹介してくれって頼まれたんだろう。それで俺に白羽の矢が立てられたわけだ。
「でもそう人に限って、金遣い粗かったり金銭感覚が完全に麻痺してたり性格が死んでたりするじゃないですか? お金を愛してるような輩は、俺は嫌ですよ…」
「おいおいおいおい、興児〜! 何を言う? この俺がお前に、是非とも会わせたいと言っているのを断るつもりか? お前がそのつもりならゴールインもできる。こんなに美味しい話はないぞ?」
 そのお相手というのは、余程恋人がいないことに焦りを感じているのか。だとするとババア? ちょっとそれは、と思ったが、
「お前、今年で二十四だったな? 相手も同い年だ。さらに言えば、大学も同じだったんだぞ」
 と先輩は言った。大学は学部が多過ぎで、同じ学科の同期ですら顔と名前が一致しないぐらい。だからほとんど他人だ。
「まあ先輩の頼みは断れませんし、顔だけ会わせればいいんですよね? 週末は空けておきますよ。あとはそっちで調節してください」
 俺は先輩にそう言った。そして先輩は他に用件はないのか、科学館から去った。
「さて、今日の仕事もまだ残ってるしな」
 手っ取り早く片付けようと思ったが、気がつくと日が沈んでいた。最後の見回りをしに、展示コーナーに行く。
「ん? 変だな…。この床、焦げてるぞ?」
 一部分だったが、黒くなっているのだ。火を使う展示はないわけではないが、その周辺じゃない。何故か炭化しているのだ。
 そしてそれに触れた時、
「助けて…」
 という、声が聞こえた。
「誰だ! 閉館時間はとっくに過ぎているんだぞ!」
 だが、誰もいない。どこをどう探しても、自分以外の人はそのフロアにはいなかった。
「何か不気味だ」
 その時は何もわからなかった。疲れすぎて空耳でも聞いたんだと思った。だが妙に暑かったのを覚えている。

 約束通り週末は、お相手と会うためにレストランに行った。
「初めまして。長谷川興児です。科学館の学芸員やってます…」
 その人は前評判通りだった。
「よろしくお願いします、大場(おおば)香織(かおり)です。私立学校の教師してます…」
 相手は何と、教員だった。だから先輩はお似合いと言ったのか。担当教科は社会であるらしく、俺の知らないことをたくさん知っていた。逆に俺は、香織が尋ねた理解についての質問全てに答えられた。
 意外にも会話は盛り上がって、酒も入っていたためか、プライベートな話もした。
「興児くん、今日は終電まで大丈夫?」
「それが、明日出勤しないといけないんだ…」
「なら今日はお開きにして、今度会う予定決めない? 近いうちの方が私はいいな」
 それで次も会うことになった。

 浮かれてばかりはいられない。科学館の仕事も真面目にこなす。だが、またあの声が聞こえてくるのだ。
「熱い…」
 デスクワークしている時だった。不意に耳元で囁かれたのだ。
「うわ!」
 驚いた俺は周囲をキョロキョロしたが、仕事仲間はみんな自分の席に着いている。つまりは声の主は、同僚じゃない。
「どうした長谷川?」
 同僚の森下(もりした)(しげる)という男が俺のことを心配そうに見ていた。
「何でもない。ちょっと疲れてるみたいだ……」
「なら早く帰れよ? そのデータをパソコンに打ち込むだけなら俺にでもできるし、俺の方が早い」
 俺は森下に仕事を頼むと、先に帰宅した。
 その晩に夢を見た。熱い炎が俺に迫ってくる夢だった。息も苦しくなって、気がついたら目が覚めた。
「………何で枕が、胸の上に移動してんだ?」
 苦しかった原因はそれだったが、こんなに寝相が悪かったことは今までで一度もなかった。
 本当に疲れ過ぎなのか? だが他に理由が思いつかない。とにかく休める時は休んで、無理をしないように心がけた。香織と会う時に疲れを見せても失礼だからだ。

 俺は香織を科学館に誘った。閉館間際だったが、そこは職権乱用で香織だけ特別に、展示コーナーに案内した。同僚には、知り合いの教師が参考にしたいと言っていると説明した。香織が若い女性だっただけに森下には疑惑の眼差しを向けられたが、察してくれた。
 展示コーナーは三階と四階だ。上の方は内容は高度で、下は遊びながら科学を学べる。
 まず四階を二人で回った。香織は難しい説明もしっかり聞いてくれた。
「香織さん、展示は解説文はあまり読まない方がいいよ。寧ろ展示物を目に焼き付けてくれ」
「そうなの? わかった」
 そんな感じで四階を見終わった。次は三階だが、どういうわけか、その時の記憶がない。ただ確かなのは、
「おい、何で俺がバカップルの介抱をしなくちゃなんねんだ! 興児、俺はしっかり休めって言っただろう!」
 森下に起こされたことだ。階段の上で、二時間も寝てしまっていたらしい。
「う〜む? 何をしてたんだ? 香織さん、何か覚えてない?」
「いいえ。でも、変な夢を見た。黒焦げになった小さな人たちが私を取り囲んで、どこかに連れて行こうとするの…」

「それ、『何か』が科学館にいるんだぜ。間違いない!」
 堂々と俺に宣言するのは、藤原(ふじわら)(じゅん)。まだ中学生で、しょっちゅう科学館に来る子供だ。俺がここに勤める前から職員の間ではアンケート荒らしで有名だった。礼儀をわきまえてないのか、普通にタメ口で話す。
「しっかしよー、面白い話だぜ。科学館なのに幽霊とはな! ある意味ではハイブリッドだな」
「そんな単純な話じゃないんだよ、準君? こちとら悪いウワサ立てられちゃ、お終いだ」
「いいや、物好きが寄ってくるぜ。それともカオリンに釣られてお化けがやって来るかも、だぜー! スタイルも顔もいいからな〜カオリンは。性格には目を瞑るけどよ…」
 面倒なことにこの生徒は、香織の教え子なのだ。だから余計に俺に絡んでくるのだ。
「お前…。学校で変なこと言ってないだろうな?」
「ああ? カオリンが男と歩いてるってことは見たからみんなに教えてやった。クラスの女子が嘆いてたぜ、カオリンなら絶対独身貫いてくれるって信じてたのに〜って」
「そういう態度が、お前がアンケート用紙に書く要望が採用されない理由なんだぞ! いい加減よくわからない名前の恐竜の化石を展示してくださいって書くの、やめろよな! 伝わると思ってるのか? 無理に決まってるだろう…」
「おいおい、そんなキレるなよ…。俺は一応感謝してんだぜ? 最近ヤケにカオリンの機嫌が良くて、宿題してこなかったのにお咎め無しだったんだ〜。そりゃあ男ができれば上機嫌にもなるなぁ」
「コイツめ〜…」
 だが俺は準に改まって聞いてみた。俺よりもこの科学館とは長い付き合いだから、俺が知らないことを知っているのではないかと考えての行動だった。
「…その手の話はお前から始めて聞いた。でもよ、この前仙台空襲の日だったじゃないか? 爆弾で死んだ子供たちが、成仏できずに未だに彷徨ってるのかもな。んでここに流れ着いたとか?」
「そう言えば、もう六十四年経つのか。今年は墓参りに行かないとな…」
 結局、準の口から曰くは出てこなかった。

 俺は先祖の墓参りに行った。そこの住職が、
「あんたの祖父は戦時中大家族だったんだ。でも長男と次男は戦争に行って、帰ってこなかった。両親と兄弟姉妹は空襲で死んだ。でもあんたの祖父は生き残った。周りの戦争孤児と協力して、戦後を生き延びたのが、ついこの間のように感じる」
 と俺に言った。
 俺は先祖の墓を掃除し、花を添えた。そして線香を焚いて合掌して、
「安らかにお眠り下さい…」
 と呟いた。
 次の仕事が待っているので切り上げようとしたところ、住職に止められた。
「最近疲れてるだろう? お守りだ。持って行きなさい」
 強引に渡されたお守りは、年季の入った一品だった。
「俺の後ろに何か見えますか?」
「そういうわけじゃないが、どうも肩の重荷が気になってな」
 何をわけのわからないことを。俺は深く考えず、帰ることにした。

 香織からメールが来た。前に科学館の三階を見れなかったから、案内して欲しいとのことだった。
「森下、また閉館後に…」
「任せておけ。簡単に誤魔化せるぜ。だが今度はぶっ倒れても知らねえぞ」
 話が早いと助かる。香織には閉館してから来てもらうことになった。
「そんな心配はいらないよ」
 でも、なぜあの時倒れていたのかは、未だわからない。

 日が沈んだ頃に香織はやって来た。
「遅れてごめん! テストの採点がなかなか終わらなくて」
「ちょっと暗いけど、全然大丈夫だよ」
 今日も森下に頼んで、学校の先生が勉強のために見学に来ていることにしてもらった。
 電気は必要最低限しかついてないので、館内は薄暗い。
「昼間は子供達が集まって、騒いでいるんだ。遊びながら化学を学べるいいところだよ」
 説明しながら二人きりで三階を回る。一応展示が動くための電気は供給されているので、一つ一つ解説しながら香織に体験させた。
「面白いわね、大人になっても」
「と言うと?」
「私は仙台出身だから、子供の頃ここに来たことがあるの。その時もみんなで遊んだわ。あの時はもう来ることはないと思ってたけど、未来はどうなるかわからないね」
 香織がいい終わったその時だ。
「許せない…」
 と、声がした。
「何今の?」
 俺も香織も周りを確認するが、誰もいない。じゃあ誰の声だと思ったら、急に俺の意識が遠のいた。

「うう………。くぅ…」
 呻き声で目が覚めた。俺は床に転がっていた。あの時と同じ現象が、また起きたのだ。だが隣にいるはずの香織はどこだ?
「た………すけ、て……」
 声の方向を探った。どうやら上の方からするらしい。天井を見上げた。
「い、い…や……」
 するとそこには香織がいた。身体中を黒焦げの子供のようなものに掴まれて、口も塞がれていた。
「何だこれは!」
 こんな展示はない。そもそもこの子供たちは何者だ?
 迷っていると、香織の体はどんどん上に登っていく。子供たちに引っ張られていると表現した方が正しいか。
 俺は直感した。これはこの世の者じゃない。ポケットから、墓参りの時にもらったお守りを取り出し、子供に向かって投げた。
「ぎゃああ!」
 効果があったようで、子供たちは一斉に手を離した。解放された香織の体を俺は受け止めた。
「あ、ありがとう、興児くん…。もうダメかと思った」
「それより、彼奴らは一体何だ、香織さん?」
 俺は香織に問いかけたのだが、子供の内の一人が答えた。
「僕たちは、子供のまま時を止めた存在だ」
 そう言った。言葉が通じるのかもしれないから俺は、香織に何をしたのかを尋ねた。すると、
「その女が許せない。僕たちは大人になれなかったのに、大人になって人生を知った気でいる。何でお前が大人になれて、僕たちはなれないんだ。ムカつく。だからあの世に連れて行ってやる」
 と言うのだ。
「もしや…仙台空襲の時に死んだ子供たちの霊か?」
 子供たちはみんな、頷いた。
 あの時代に失われた魂は未だ成仏されず、現代を彷徨っていて、それが偶然、この科学館に流れ着いたとでも言うのだろうか。
「それなら、成仏すべきだ。いつまでもこの世に残る意味はないだろう?」
「ある。この女のような僕たちの悲しみを知らない存在が、今の日本に生きていていいわけがない。そんな奴らは一人残らず連れて行ってやる」
 言葉は通じるが、話は通じないらしい。俺は香織を立たせて、床に落ちたお守りを拾った。これをまた投げつければ……。
「やるのか? 僕たちの存在を否定するのか? それを使えば僕たちは無理矢理あの世に落とされるだろう。だがそれが正義か? お前のその暴力が許されていいのか?」
 子供は、そう言うのだ。
「僕たちがその女を連れて行こうとしたのは確かに悪いことかもしれない。でもそれをしてもしなくても、僕たちはこの世に留まってはいけないのか? 僕たちはあの晩、死んだ。それは何か、悪いことをしたからか? 僕たちに一体、何の罪があって死ななければいけなかったんだ? 生まれてくることすら、間違いだったとでも言いたいのか、お前は?」
「ちょっと待て。俺はそんなことは…」
「じゃあどうして、そのお守りを捨てない? お前は僕たちのことを否定する気でいる。誰がそれを許した? 何がお前にそれをさせる? 自分は正義だ、とでも言うか? 間違っているのは、本当に僕らの方なのか?」
 俺は、何も言えなかった。香織をあの世に連れて行かせるわけにはいかない。だが子供たちの言っていることも、聞かなかったことにしていいようにも思えない。
「それを捨てれば、お前は見逃してやる。さあその女を差し出せ」
 子供たちは、鬼気迫る表情だった。
「俺は…」
 俺は、動けなかった。自分が正しくない気が、ほんの少しだが心の中に芽生えてしまったのだ。
「興児くん、あなたは何も間違ってないわ。確かに戦争は悲しみしか生み出さない。けれど醜いのは戦いであって人じゃない。どんな理由があっても、誰かを傷つけることは許されないの。私は歴史を学んで、二次大戦からそのことを理解した」
 香織の方が動き出した。合掌して、何やらブツブツと呟いている。
「うがあ、やめろ!」
 子供たちが苦しみだした。香織はお経を唱えているのだ。
「そんなことをしても、お前たち……。呪われろ、お前たちのような人間に、明日なんて来るものか…! 一生苦しむがいい……」
 捨て台詞を吐くと、子供たちは消え去った。
「ふう。これで大丈夫ね。大人に手を出す子供は、叱らないといけないわ」
 後で聞いたのだが、香織は大学時代に仏教研究会なるサークルに入っていたらしい。だから咄嗟に念仏を唱えられたのだった。

「私は未だに、自分に問いかけることがあるんだ。あの時に正しかったのは、どちらだったんだろうと」
 興児の感じる後味の悪さとは、そこだった。子供たちに何も言い返せなかったことを、悔いているのだ。
「でも、もう奥さんになった人が成仏させちゃったんでしょう? じゃあ正しかったのはあなたたちの方では」
 俺はそう言ったが、興児は深刻な顔で、
「今もどこかに、戦時中の亡霊が存在しているのかもしれない。彼らは危険な存在だが、耳を傾けるべきことを言うかもしれないんだ。思考を停止させて、無理に成仏させることこそ、一番間違っているのかもな……」
 未だ答えを探していた。興児はきっと、自分が納得するまでそれを追い求めるんだろう。
「ところで、せっかく来たんだし、展示コーナーを回ってみてはどう?」
「嫌です。だって私、お経なんて知らないもん。氷威を見捨てないといけない」
「そうか…。六年前は撃退したが、まあ今になって別の幽霊がやってきているかもしれないしな。危ない橋は渡らない方がいい」
「でしょう?」
「おいおい祈裡……。俺が連れてかれる前提で話を進めるなよ…」
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