その六十九 背赤後家蜘蛛

文字数 6,653文字

 黒い体に特徴的な赤い模様がある毒グモ、セアカゴケグモ。
 そのクモは、元々日本に生息してはいなかった。平成初頭に大阪で発見されたのだが、

「オーストラリアが原産地なんだ、日本の冬は越せないはずだ」

 そんな偏見のせいで見過ごされ、結果として越冬ができ、広まってしまったという噂があるらしいんだが真偽不明だ。

 ちょっとクモの生態でも解説しよう。

 クモと言えば糸だ。アシダカグモやハエトリグモなど巣を作らない種もあるが、全てのクモは糸を持っている。糸の強度は叩く、同じ太さの鉄の五倍だ。
 またクモは意外と子煩悩だ。卵を守る種もあれば、幼虫を自分の体に乗せて育てる種もある。中には、自分の体を幼虫に捧げる……餌にしてしまうことだってあるのだ。
 しかし、クモの世界は無情にも女尊男卑……。大きさや寿命ではほとんどの種で、オスはメスに勝れない。どのくらいかというと、図鑑に載っている成虫の姿になれるのがメスしかいない場合があるくらいだ。交尾の際はオスは常にメスに食われる危険があり、終わったら早く逃げなければいけない。ある意味カマキリよりもハードである。
 肉食性なのでクモは虫の生態の頂点に見えなくもないのだが、残念なことに天敵であるベッコウバチには全く勝てない。世界最大のクモであるゴライアスバードイーターにも実は、それ専門のベッコウバチがいたりする。
 クモには毒がある。これはもう常識だが、日本原産のクモの中で、人を殺せる毒を持つクモはいない。一番強いカバキコマチグモですら、吐き気や頭痛を生じさせる程度なのだ。毒自体は強いのだが、注入できる量が少ないためである。

 さてこれくらいにして、今日の話を伺おう。相手である山辺(やまべ)(あつし)はもう、このカフェに来て座っている。

「で、クモの話は本当なのかい?」

 俺は彼の話を事前にメールで聞いていたので、改めて尋ねた。

「本当だとも。証拠もあるんだ」

 そう言い敦は自分の腹を手でさする。服をめくって地肌を見せてくれたが、

「ぅわ……」

 言葉を失ってしまったよ。彼の腹には何と、火傷のように腫れた大きな赤い痣がある。それは砂時計のような形をしている。

「これができた経緯は、あのことしか考えられないんだ。それも含めて全部話すよ。長くなるかもしれない」
「いいよ。ではどうぞ」

 準備ができたので俺は敦を促した。


 僕は中学生になった際、いじめのターゲットになってしまった。
 キッカケはわからない。少なくともそのいじめっこ……近藤(こんどう)正樹(まさき)は同じ小学校出身ではないので、昔恨みを買ったわけではない。とにかく正樹は、

「おい、敦! こっちに来い!」

 機嫌が悪いと必ず僕に暴力を振るう。健康的でガタイが良いため、クラスメイトはみんなが見てみぬフリだ。下手に関わると報復で自分がターゲットにされかねない。そう考えれば助けてくれないのは仕方がないこと。
 僕は正樹のことを担任に相談した。でも担任は、まともに取り合ってくれなかった。正樹が教員たちの前では絶対に手を挙げないことや、授業中の態度はまじめであることが、信じる根拠だそうだ。いじめを問題にしたくなかったんだろう。
 注意する人がいないので、正樹のいじめはエスカレートした。最初は殴る蹴るだけだったのだけど、僕のペンを折る、結果の悪かった答案用紙を勝手に掲示板に貼り付ける、給食にチョークの粉を混ぜる、生徒手帳の証明写真に落書きする等々。

「正樹なんて死ねばいいのに」

 僕の心も病んでしまい、そんなことを授業中に考えるようになっていた。でも正樹と戦って勝てるわけがないし、僕が殺せば僕の方が社会的に死ぬ。
 復讐したいけど、その方法が思いつかない。このまま中学三年間、続くのか。中一の夏休み明けの時点で僕の心は既にボロボロだった。


 ある日のことだ。僕は学区内にある公園にいた。小さい頃からよく行く場所で、近所の子供がいつも遊んでいる賑やかなところだ。テストの成績が悪かったので、両親に何て言い訳しようか。いじめのことを話そうか? でも親に知られたくない。そんな心境で、ベンチに座っていた。その日は小学生が、遊具で遊んでいた。

「あ、クモだ!」
「え、ドレドレ!」

 その内の一人が、それを滑り台の下に発見した。

「危ない! これはセアカゴケグモだ! 毒グモだ! 死ぬかもしれないぞ!」
「し、死ぬだって! ヤバい! 逃げろ!」

 そう叫ぶと、滑り台から離れる子供たち。ジャングルジムで遊び始めた。

(死ぬかもしれない毒を持ったクモだって?)

 ちょっと興味が湧いた。当時携帯電話は中学生の間で主流ではなかったので、セアカゴケグモについてすぐに調べることはできない。

(……使えるかも!)

 僕は悪魔的な閃きをした。というのもそのクモを正樹にけしかけ、噛ませるのだ。毒で正樹が死ねば、僕はいじめから解放される。正直、正樹よりも暴力的な発想だが、当時の僕は本気で実行することを考えた。
 自分が噛まれては本末転倒なので、できる限り触れないようにして捕まえよう。ちょうどカバンの中に入っている、紙コップとプリントが使えそうだ。
 セアカゴケグモはクモの巣の中にいた。頭と胸は小さいけど、腹は膨れているアンバランスな体系。黒い体に、腹側に砂時計、背中側にひし形が連なった赤い模様が特徴的だった。
 ゆっくりと紙コップを押し付けてクモをその中に誘導し、入ったらプリントで蓋をする。かなりあっけないが、捕獲完了だ。

「よしっ!」

 後は家に帰って虫かごの中に入れ、餌を与えながらチャンスを待つだけだ。


 そしてそのチャンスは、すぐにやって来た。

「おい敦! 財布見せろ!」

 カツアゲだ。正樹は金に困っていたらしく、僕に金銭を要求してきた。流石に学校内でそれはヤバいと認識してはいるようで、下校時を狙われた。

「早くしろ!」
「今、ないよ…」

 学校に購買部はないし、登下校中の買い食いは禁止だ。だから僕は学校に行く際は、財布は持って行かない。だから、

「家に帰れば……」

 と呟いた。すると正樹は、

「そうか。なら! 全財産! 持って来い!」

 家に戻るチャンスを作れた。僕は周囲の目を気にして、日が暮れたら少し離れた学区外の公園に行くと伝えた。そこで渡すということだ。正樹も文句を言わずに僕の提案を受け入れる。
 僕は自分の部屋の机の下にある虫かごを確認。ちゃんとセアカゴケグモはいる。元気にコオロギを食べている。割り箸を駆使して小銭入れに入れる。そして時間が来るまで、部屋で待った。

 正樹に復讐するチャンスなのだ。かなり興奮した。でも同時に、悩んだ。

「アイツが死んだら、絶対に僕が疑われるよな……?」

 何せ、正樹の死に立ち会うことになるのだから。僕が犯人ですと言っているようなものだ。
 だが正樹から遠ざかろうとすればするほど、セアカゴケグモで殺せなくなってしまう。
 困ったものだ。時間はあと三時間もない。どうにかアリバイを確保しなければ……。

「待てよ?」

 でもよくよく考えれば、誰にも見られてさえいなければそれで良くないか? 正樹の言い分なんて、死んでしまえば何も聞けない。死人に口なしだ、傾けられる耳もない。一方の僕の方は後から何でも言い訳ができる。

「焦らせやがって、正樹め!」

 一転して、僕は落ち着いた。

 時間が来たので、僕は公園に行った。

「遅かったな、敦! 逃げたかと思ったぜ?」
「そうしたら、明日学校で酷い目に遭うじゃんか……」
「おお、わかってるじゃねえかよ! さ、早くしな!」

 手を差し出して催促してくる正樹。僕が小銭入れを取り出すと、

「は? お前、俺のこと舐めてるのか! 小銭だけか?」

 キレ出す。

「この中にお札も入ってるんだよ…」

 苦しい言い訳をして、小銭入れを開ける。セアカゴケグモがちゃんと生きていることは、外から触った感覚でわかる。

「早くしろや!」

 正樹もわざわざ手のひらを僕に差し出してくれるので、助かる。

「は、はい」

 小銭入れをひっくり返し、中身を全部正樹の手の上にぶちまけた。中身は一円玉が多く、高くても五十円玉だ。そして同時に、黒いクモが彼の手に落ちる。

「あ? 何だこれは?」

 驚く正樹。僕も一緒に、

「え、クモ? 何これ?」

 わざとらしくだが言った。

 セアカゴケグモはビックリしたのだろうか、正樹の人差し指の根元に噛みついた。

「いつっ……!」

 一瞬だけ、正樹の表情が歪んだ。でもそれだけだ。意外な刺激に驚いただけで、そこまで痛くはないらしい。

「んだよ、コイツは!」

 すぐさまセアカゴケグモを払い落とし、踏みつける正樹。

(あっ……)

 プチっという音がした。次に彼が足を上げると、潰され体液が広がったセアカゴケグモの死骸があった。

「気をつけろよな、全く! お前の家、虫が侵入するほどボロいのかよ?」

 潰したクモに目もくれず正樹はクモと一緒に落とした小銭を拾い自分の財布にしまう。

「札は?」
「え、なかった?」
「出せ、全部! 今更隠すなよ!」

 でも、毒は回ったはずだ。後は時間を稼げばいいだけ。僕は財布を探すフリをした。

「おい、ふざけてるのか、お前」

 徐々にだが、正樹の額の汗が増えた。呼吸も早くなっている気がする。

「どうしたの、正樹?」
「うるせえぞ」

 顔色も悪そうだ。目がちょくちょく、泳ぐ。
 僕はベンチを指差し、

「座った方がいいのでは?」

 すると正樹は腰を下ろした。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

 見るからに呼吸が荒れている。顔はもう汗びっしょりだ。ここからの僕の行動はただ一つ。正樹が死ぬまで見張ることだ。この公園は昼間でさえ人気のない場所なのだ、日が落ちればまず誰も来ない。

「本当にどうしたの、正樹? 顔色悪いよ?」
「お、お前に、心配なんて、されてたまる、か……」

 喋るのも難しくなっている。

「敦、水とか、ないか?」
「持ってないよ」
「チッ……。買うか。買って来い」

 どうにか財布に手を伸ばし、僕に五百円玉を渡す。これは今までの慰謝料として受け取った。

「何買う?」
「何でも、いい……」
「じゃ、自販機探してくるよ」

 僕はそう言って公園を出たフリをした。ちょっと離れた場所で正樹を見張るのだ。

「どうなる?」

 かなり辛そうな正樹。数分後、彼の体は地面に倒れた。僕は正樹に近づいて、死んでいることを確認した。

「ざまあみろ! 正樹!」

 僕はいじめっこである正樹に勝ったのだ。


 正樹の死は次の日にはすぐに学校に広まった。聞く話によれば、突然死らしい。

「運が悪かったのかな?」
「事件性はないらしいよ?」
「自殺でもないって。実は体、壊してたのかな?」
「健康診断では問題なかったって自慢してたと思ったが……」

 死んだ正樹が最後に僕に会ったことを伝えられるわけがない。僕は同じ時間帯、近所をランニングしていたことにした。目撃証言はないけど、全く疑われなかった。


 当初僕は、正樹が死んでも動じないと思っていた。僕のことを理由もなくいじめていたヤツなんだ、死んだって心が痛むわけがない。でも時間が経つと段々、後悔の念が襲って来るようになる。

(僕が正樹を殺した……)

 自分しか知らない事実で、誰にも打ち明けられない。それが首を絞めるかのごとく、ジワジワと胸に突き刺さるのだ。

(正樹め! 死んでもなお、僕を苦しめるのか!)

 当然だ。正樹はもうこの世にいない。あんな嫌なヤツだったが、二度と会えないし話もできない。だいたい、殺人自体が違法なのだ。精神が痛まないわけがない。

(でも……)

 僕は開き直ることにした。

 正樹が生きていれば、いじめはさらに激化するだろう。僕以外の誰かが新たにターゲットにされてしまうかもしれない。あんな迷惑なヤツは死んでいいんだ。
 それによく考えれば、今のうちに始末しておかないといじめを苦にして僕が自殺することになりかねないんだ。僕か正樹、どちらかが死なないと終わらない。いいやこの場合、僕が死んだら正樹は他の人を傷つけるだろう。やはり正樹が消えるべきだったんだ。
 そうやって僕は自分の罪の意識を正当化した。


 それからすぐに異変が起きる。確か正樹の死から一か月も経っていないくらいの時期だ。
 僕は風呂に入ろうとした。かけ湯をした途端に、

「いたたああ……」

 腹と背中に激痛が走った。何だ何だと思って腹を見たら、

「な? これは……?」

 赤い腫れができていた。しかも奇妙なことに、砂時計のような形をしているのだ。触ってみると、火照っているのがわかる。

「どうした、敦?」

 僕の悲鳴を聞き父が風呂場の戸を開けた。すると、

「何だ、それは?」

 背中を見て、父が絶叫した。曰く、

「火傷でもしたのか、敦? 変な模様みたいになっているぞ?」
「ど、どんな?」
「何て言うんだ、これは? ええっと……」

 言葉で表現するよりも、デジカメで撮影してもらった方が早い。

「赤いひし形……?」

 それが連なっているように見える。
 着替えた僕は父と母と一緒にすぐに病院に行き、検査を受けた。しかし医者は、

「原因がわかりません。数値はどれも異常ではないのです……」

 病理学的な問題は見当たらないと断言する。結局入院などはせず、湿布だけもらって帰宅した。


 腹と背中の腫れについて、思い当たることが一つあった。
 クモの毒だ。
 でも疑問もある。仮に原因がクモの毒だったとしよう。しかし僕はセアカゴケグモに噛まれていない。それどころか僕は、指一本触れていない。世話をする時も気を付けたし、どうしても移動させなければいけない時は割り箸を使った。そしてセアカゴケグモに触れた紙コップや箸は、全部捨てた。

(そもそもセアカゴケグモの毒で、こうなるのか?)

 正樹は噛まれて死んだ。でも僕は皮膚が腫れる。症状には個人差があるのだろうか?
 放課後にコンピュータ室で僕は調べてみた。すると、驚くべきことがわかった。

 セアカゴケグモの毒では、人は死なない。
 原産地のオーストラリアでは、二十世紀の半ばまでは死者が出ていたらしいのだが、血清ができて以降は死亡例がない。日本ではそもそも誰も死んでいないのだ。
 人を殺せる毒を持つクモは存在自体はしている。シドニージョウゴグモ、ドクイトグモ、クロドクシボグモがそうだ。でもその種は日本にいない。
 日本原産のクモで一番強い毒を持つのはカマキコバチグモらしい。それでも体調不良を起こす程度なのだそう。

 じゃあ、どうして正樹は死んだのか? クモの毒でないなら、何が原因だった? 
 思い込みで体に変化が起きることはある。プラシーボ効果だ。でもそれで説明はできない。セアカゴケグモの毒がそれほど強力だと思っているのは僕で、正樹はその辺の何でもないクモに噛まれたとしか思ってないはず。

「もしや……」

 ある仮説を、僕は立てた。

 僕の中に渦巻いていた、正樹への負の感情。それがセアカゴケグモを介して、彼に伝わったのではないだろうか? 疑似的な呪いとなって、それが正樹を殺したのではないだろうか?
 そして僕は、クモを助けず見殺しにした。勝手に報復に使われたクモはそれが許せず、僕のことを祟った、もしくは呪いが僕の方にも悪影響を及ぼし出した。だから僕の体に、セアカゴケグモの模様が現れたのではなかろうか?


「本当にそうだとしたら、これはクモの毒ではなく祟りだよ。許す気はないんだろうね、未だに僕の腹と背中は赤いんだ」

 人の心には必ず闇がある。それはよくない感情を伴っている。敦の場合は恨んでいる相手を殺してやりたいというものだった。彼が使ったセアカゴケグモは、単なる代行者に過ぎないのだ。

「こんなこと、聞いたことないかな?」

 敦はとある言い伝えを俺に教えてくれた。

「朝のクモは殺すな。でも夜のクモは殺せ」

 その迷信の起源は知らないし、彼も教えてくれなかった。しかし敦の話は、クモが特別な儀式に使えたということを裏付けている。そう考えると、さっきの言葉を後世に残した人は、クモに関する二つの出来事を体験した、ということかもしれない。
 ふと、敦がカフェの窓の外を見た。

「氷威、あそこを見てよ」

 視線の先には、小さいがクモの巣が張ってあった。中央当たりの小さな小粒が、その主だろう。

「僕はね、クモを見るたびに聞こえる気がするんだ。話しかけられている気がするんだ」

 彼は最後に、こう締めくくった。

「お前の憎んでいる相手は私が殺してやった。お前の負の想いを私が使って、だ。そしてお前は私を助けず見殺しにした。今度はお前が呪われる番だ。って」
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