その二十二 呪怪のヘソ

文字数 3,609文字

 この旅を続けて、一つのことがわかった。それは、死にたいと思ったことのある人は、幽霊と遭遇しやすいということ。その感情が幽霊を呼び寄せるのだろうか? それともそう思う人間を、霊が嗅ぎつけるのだろうか?
 どちらが正しいかはわからない。だが、今宵の話題提供者…安藤(あんどう)(たけし)もまた、生と死の間で、それに遭遇してしまったのだという。

 俺はその日、青木ヶ原樹海を目指していた。恋人が死んだ。そのことは俺に、その樹海まで歩かせた。
「もう生きていても仕方がない」
 そう、本気で思った。そして何も持たないで夕方、樹海に入り込んだ。
 富士の樹海と言えば、自殺の名所で有名な場所だ。そこではコンパスが狂うとか、携帯の電波が届かないとかよく聞くが、それらは全て出鱈目だ。一度入ると抜け出せないっていうのも嘘。
 だがその樹海は、絶望した俺を拒むことなく受け入れてくれた…。

 歩き始めてすぐに、異変には気がついた。
「いて!」
 何かに足が引っかかり、転んだのだ。
「なんだ今の…?」
 だがそこには、出っ張りの類は存在しない。つまり俺は、何も無いところで転んだのだ。しかもよく思い返せばその時の感覚は、誰かに足を引っ張られたということに近い気もした。
 そんなことがあっても俺は、前に進む。後ろに引く気は一切ない。死にに来たのだから。
「はあ、はあ、はあ…」
 樹海の中が蒸すのか、俺は汗だくだった。風は全然吹いておらず、涼しさも感じない。まさに人生の最後に体験する、生き地獄。
「いつ死ぬの?」
 急に後ろで、そんな声がしたのだ。俺はもちろん振り返ったが、誰もいない。
「誰だ? 今のは?」
 返事はない。俺の声は、空しく樹海に響いた。
 不気味に思いつつも、俺は足を動かした。そこで、手ぶらで来てしまったことに気がついた。
「しまった…」
 俺は、樹海に来れば死ぬ手段が何かしらあると勝手に思っていた。が、違う。そんなに都合のいい樹海ではない。首を吊るためのロープとか、血管を切るための刃物とか、死ぬための毒薬とかを持ってこなければいけなかったのだ。
「どうやって死ぬんだよ、これじゃあ…」
 今から引き返して、近くの店で仕入れて来るか? でも一度戻ると、二度と樹海に戻って来れなくなる気がした。
「使えない」
 また、声が聞こえたのだ。
「何だ! さっきから! 誰かいるのか?」
 否、誰もいない。
(これは空耳だ。俺は今、ある種の極限状態なんだ。神経が限界なんだ。だから幻聴が聞こえるんだ…)
 必死に自分にそう言い聞かせた。そしてまた一歩踏み出そうとした時、
「私が殺してあげようか?」
 今度は耳元で聞こえた。誰かが俺の耳の側、数センチという距離で囁いたのだ。
「誰……」
 俺の首は、反射的に声の方を向いた。
「だああああああああ!」
 俺は悲鳴を上げた。そこには、首から上がない体が、立っていた。着ている服は血まみれで、真っ白い肌は全くと言っていいほど生気を感じさせない。完全に、この世の者ではなかった。
「うおおおおおおおおおおおおおおお!」
 それが、俺に向けて腕を伸ばすのだ。当然俺は逃げる。今までの疲れが嘘のように走れた。
「ひ、ひいいいい!」
 追いかけているかどうか、後ろを向いて確認したら、その体は宙に浮きながら俺を追いかけていた。
「何で逃げるの?」
 また、耳元で声が聞こえる。聞き入ってしまうほど透き通った、女性の声だ。
「誰か! 誰か、助けてくれ!」
 情けないことに、俺は他者を頼ってしまった。だが、この樹海にこんな時間。人がいる方がおかしい。
 そう、今考えればおかしいことなのだ。だがあの時の俺には、正常な判断は不可能だった。
「君、大丈夫か!」
 走り続けていると、目の前の木の影から、男性が一人現れた。
「助けてえええ!」
 俺は、突如現れた救世主に泣きついた。
「首がない何かに、追われているんだっ! 助けて!」
「よしよし、大丈夫だ」
 その男性は、俺背中を手でさすってくれた。俺は安心できた。
 安心すると、落ち着いた。そして落ち着くと、脳は平常な思考を取り戻すのだ。
「あ、あんた、誰…?」
 この男性が何者なのか。それはすぐにわかった。ニヤけた口が、不自然な動きを見せた。
「惜しいなぁ、あとちょっとだったのに…」
 男性の後ろから、さっきまで俺を追いかけていた体が出現した。
「うぎゃああああ!」
 男性は、幽霊だった。そしてずる賢いことに、首なしの女性の霊とグルだったのだ。
「死にたいんでしょう? 連れて行ってあげる…」
 確かに俺は自殺をしにこの樹海に足を踏み入れたわけだが、霊によってあの世に連れて行かれるのはごめんだ。そんな死に方したくない。
「あっち行け、この化け物!」
 俺はすぐに反転すると、逃げ出した。
「待ってよ。そっちに行ったら死ねないよ?」
 幽霊の声がまた、俺の鼓膜を揺さぶる。耳を塞いだが、それでも声の響き方が頭から離れない。
 俺はくらい樹海を、がむしゃらに走った。右も左も関係なかった。あの幽霊から逃げられれば、それでいい。
 だが、
「さあ、こっちへ来るんだ」
 俺の目の前に、また男性の幽霊が現れた。流石の俺も、二度も騙されたりはしない。これは人間ではないと、すぐに見抜いた。同時に向きを変えて走った。
 しかし、また眼前にそいつらは姿を見せる。まるで、俺の動きが全て読まれているかのようだった。
「無駄よ…」
 女性の幽霊の声がまた、俺の近くでした。
(さっきもだ…。俺の近くにいるとでもいうのか?)
 俺は首を振ったが、周りにそれらしき幽霊はいない。でもまた、走り出すとその方向に、幽霊は先回りしているのである。
 どうあがいても行く手を阻んでくる幽霊に、俺の心は折れそうになった。
(待てよ…?)
 確か女性の幽霊は、胴体しかない。だとすると、首から上はどこに行った? 最初からないのなら、女性の声が聞こえるはずがない。
「さあ、一緒に逝きましょうね」
 また聞こえた。
(も、もしかして…)
 俺は、首を上に向けた。
 いた。女性の顔が。俺の頭上を浮遊していた。充血した目と、俺の目が合ってしまった。すると女性の頭は、ニコッと笑うのだ。
 最初から、この頭部は俺の頭の上にいたのだ。
「ああああああああああああああああああああ!」
 俺は反射的に、指を立てて手を伸ばした。すると幽霊の目玉に俺の指が上手い具合に刺さった。
「きゃあー」
 硬かった。そしてヌメッとしていた。血か体液か、俺の指に付着した感覚だった。図らずも幽霊の目潰しに成功した俺は、樹海の外を目指して一生懸命走った。どれぐらい走ったか、自分でももうわからないほどに。やはり女性の頭が俺の動きを見ていたのか、それがなくなったために男性の幽霊に先回りされることも、耳元で囁かれることもなかった。
 気がつけば、道路が目に入った。俺は樹海を抜けることができたのだ。
(生きよう。俺はそうするべきだ…)
 最初は死ぬ気で樹海に入ったが、抜けた時は生きることを考えていた。言い換えるなら、俺は精神的に死んで生まれ変わったのだ。

 その後俺は、社会に復帰した。だが当時のことがトラウマになってしまい、樹海には絶対に足を踏み入れないと決めている。
 そして、今もあの女性の頭が俺の上に浮かんでいる気がしてならない。と言うのも、たまに聞こえるのだ。
「いつでも戻って来てね」
 あの時と同じ声が。

「俺は死ぬことを考えてしまったが故に、幽霊に魅入られてしまったんだ。だからとその後も、霊的な現象は俺の周りでよく起きる。朝起きると、皿が割れているのは日常茶万事で、酷いと突然、部屋の照明が消える。リモコンに触ってもいないのにテレビがつく…。あいつらは未だに、俺の近くにいるんだ。俺を連れて行ける人物だと思っているからな…」
 毅はそう言った。
「お祓いとかは試したのか?」
 俺が聞くと、
「したさ。何度もね。でも本気の幽霊に敵う者は、いなかった。俺自身の、生きたいという感情だけが頼りだよ」
 と言われた。
「樹海に行かなければ…と思いたいが、どうもそういうわけにはいかないらしくてね。あいつらからすれば、俺を殺せれば手段は問わないらしい。よく、事故現場に遭遇するんだ。そしてその度に、耳元で声が聞こえるんだ。『今度も駄目ね』って」
 幽霊は非常に恐ろしい存在だ。俺は改めて思い知らされた。と言うのも、毅への取材は喫茶店で行っていたのだが、それが終わった後、近くの道路で死傷者を出す交通事故が発生したからだ。
「俺も生きるという強い意志がないと、連れて行かれるかもしれない…」
 胸に手を当てて、自分に誓う。心臓が動いている限り、自分は死なない、と。
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