文字数 6,297文字

 ルシアスはベッドの端に座り、眠るセレスティンを見守った。
 教団にいた頃、テロンは繰り返し自分の感情を揺さぶり、その制御を外させようとした。そしてそれは決して成功しなかった。
 だが、今度はやってのけたのだ――自分がいつの間にか深い感情を覚えるようになっていたセレスティンという鍵を使って、一時的にも感情の抑制をこじ開けることで。
 自分と風の元素霊(エレメント)との関係。それは教団の他の人間の目からは隠せても、テロンの嗅覚から隠すことはできなかった。
 そしてこちらが見るのを避けているものをブラッドハウンドのように嗅ぎつけ、目の前に突きつけてよこす。それがあの男一流の容赦ない友情の表現だった。
 テロンが何を言いたいのかはわかっていた。そう認めるのを拒みつつ、あの男が正しいのだということも。
 今はもう逃げ回るのを止めて、自分のいるべき場所に帰るべきなのだ。
 そしてそれは、これ以上セレスティンといっしょにはいられないことを意味した。自分やテロンのような人間が生きる世界に、彼女を連れ込むことはできない。
 自分の過去にあるのは、白魔術教団(オルド)との関係だけではなかった。そこにいるのは、そこにいるのは、テロンのように「手段は選ばない」と口で言いながら人間としての一線を守り通す、そんな者ばかりではない。
 テロンがこんなやり口を選んだのも、あの男なりの警告とも思えた――守らなければならないものがある時、リスクは増える。そして大切なものを守り切れるという保証はない。
 ――セレスティンを手放す。
 時間が経てば、彼女もこの半年のことは忘れるだろう。
 眠るセレスティンを見つめる。
 彼女のことを大切に思うと認めた今、なおさら自分の人生に巻き込みたくなかった。
 一つ、気づいたことがあった。割れたガラスは部屋中に散乱していた。だが、窓からそれほど距離のないセレスティンのベッドの上だけは、一かけらのガラス片も落ちていなかった。

 日が高くなった頃、セレスティンのまぶたが瞬く。見下ろすルシアスの顔が青い瞳に映り、彼女の意識が戻ってくる。
 何かを確かめるように彼女の視線が床に落とされ、ガラスの破片が散らばった床を見る。それは朝の出来事が現実だったのを確かめているかのようだった。
 ふらりと体を起こす彼女を抱きとめる。セレスティンはルシアスの肩に頭をもたれかからせた。腕の中の温かな存在。
 しばらくしてセレスティンが言った。
「おなか空いちゃった」
 その言葉に不思議な安堵を覚える。彼女は朝の出来事を大きなショックなしに処理していると感じられ、救われた思いがした。
「……外に出られるか?」
「うん」
「どこに行きたい?」
「チャイナタウンのお店で、香港風のミルクティーとフレンチトースト」
 ベレタニア・ストリートに車を停め、セレスティンの指さすカフェに入る。窓際のテーブルには明るい陽がさし込んでいた。
 おそろしく甘そうなミルクティーをセレスティンはきれいに飲み干し、一息ついたようにカップを置いた。
「テロンて、ルシアスの友だち?」
「……ああ」
 ルシアスは追加の質問を予期した。だが、セレスティンはそれ以上、テロンのことについても、部屋で見たはずのことについても訊かなかった。
 香港風だという油で揚げたフレンチトーストを片づけ、果物のデザートを食べ、2杯目のミルクティーを飲み終って、満足そうな、少し照れた笑顔を見せた。
 ダウンタウンから近いアラモアナ・ビーチに車を向ける。平日の昼間、ここにはほとんど人気はない。
 砂浜に腰を下ろして、穏やかな水色の海を見ながら時間を過ごす。
 いつになく口数少ない彼女の中で、何かが起きているのは感じることができた。だがそれが何なのかが測れなかった。
 ルシアスは考えを整理し、自分に言い聞かせた。彼女に伝えなくてはならない。アメリカ本土に戻るつもりだと。そしてもう彼女と会うことはないと。
 ためらうルシアスが口を開くことができる前に、セレスティンが何気ない口調で言った。
「忘れてた ガラス修理の人を呼ばなくちゃ」
 携帯電話をとり出して番号を調べ、何軒かに電話する。
「一番早くてあさってだって。片づけもしてないし、今晩、泊めてくれる友だちを探さなきゃ」
 彼女の中で、今朝の出来事はすでに過ぎたことになっているのにルシアスは気づいた。ただ「修理の必要な窓ガラス」という現実が残っていて、それを彼女は当たり前のことのように処理しようとしている。
 心当たりの友人を探していたセレスティンが、少し困った顔をする。
「どうした?」
「泊めてくれそうな友だちはみんな、冬休みで本土の方に帰っちゃってるの」
「……君さえよければ、泊められる部屋はある」
 彼女が顔を上げる。それから信頼に満ちた表情でルシアスを見ると、携帯をしまった。
 夕方近く、セレスティンのアパートに戻って彼女が必要なものを詰めるのを待ち、ホノルル湾に面したコンドミニアムに連れ帰った。
 ドアを開け、招き入れる。
 足を踏み入れたセレスティンは、何かにうたれる表情で空間を見回した。初めて彼女を車に乗せた時のことを思い出す。まぎれもない、空間のエネルギーに対する鋭い感受性。
 ガラス戸の向こうに広がる夕暮れの海に気づくと、彼女はうれしそうにバルコニー《ラナイ》の戸を開けて外に出た。
 ラナイから、港の灯のともり始めたホノルル湾を見下ろす。
 日が沈んでしまうと夜風が冷えた。都市の空に浮かぶ、幾分かすんだ星を見ながら彼女が言う。
「また星を見に行きたいな」
 ルシアスは返す言葉をもたなかった。 

 

 ルシアスが泊めてくれると言った時、セレスティンは驚き、うれしかった。これまでの彼からは考えられない好意だと思った。
 だがカフェで夕食をとりながら、ルシアスの様子が気になった。一切の深い関わりを拒む気配が、彼と自分を隔てるのを感じる――ちょうど、初めて会った時のように。
(どうしたんだろう――今朝のことを気にしてるのかな)
 部屋に泊めてくれると言ったのは二人の距離が縮まったからではなく、ただ困っている自分を放って置けなかったからかもしれない……。
 コンドミニアムに戻ると、ルシアスは自分の寝室を空けてセレスティンに使わせ、自分はリビングで眠ると伝えて、静かに寝室のドアを閉めた。「何か必要なことがあったら、ここにいる」とだけ付け加えて。
 一人になる。
 ふうっと息をついて、セレスティンはベッドの縁に座った。
 短い時間の間にあまりにたくさんのことがあって、今朝の出来事ももう、遠いことみたいに感じられた。
 テロンのことを思い出す。あの乱暴なんだか優しいんだかわからない人。誘拐や家宅侵入まがいのことをされたのに、なぜか腹を立てる気になれなかった。
 それは彼のやったことが全部、ルシアスへの友情からだと感じるからだろうか?
 少なくとも、テロンのおかげでルシアスと自分の関係は変わりつつある。でも、それはどこへ行くのだろう――?
 改めて寝室を見回す。きれいに整えられたベッドと、本が積まれたサイドテーブルだけの静かな空間。窓からは月の光がさし込んでいた。
 この部屋は「彼」で満たされている。
 目を閉じると、部屋の空間に刻まれたルシアスの「質」が肌に伝わってくる。
それからある要素がセレスティンを打った。
 彼の胸に顔を埋めていた時に感じたのと同じ、微かな感覚。切り離されて押さえ込まれた、感情とも記憶ともつかぬあるもの。
 しばらく感じていたが、それ以上たどることはできなかった。
 ベッドに入り、サイドテーブルの上の本を見たりしながら、やがて眠りに落ちた。

 夜半。胸が重苦しい。目が覚めたのか、夢を見ているのか、わからなかった。
 鮮明さと幻影のような感覚が入り交じる光景。それは自分の記憶ではなく、誰かの記憶を共有しているのだと感じた――。

 ――意識がターゲットを捕らえた。
 中近東のどこかの小都市……砂嵐が近いのか、空は濃く濁った灰色。
 封筒に指を走らせ、座標の地点に間違いないことを内的な感覚で確認する。
 突然、禍々しい光が暗い空を縦に裂いた。目の前に巨大な雲の柱が立ち上がり、どす黒い雲の傘がみるみる膨らんで、マグマが地面を裂くような光と熱が内側から雲を引き裂いた。
 本能的な緊張が神経に流れ込むより早く、それを抑制する。それまで記録画像でしか見たことがなかった、だが見間違いようのない――核爆発の雲――
 爆風が小さな町の脆弱な構造物をたたき伏せ、引き剥がし、吹き飛ばした。町の方々で火の手が上がり始める。
 逃げ惑う人々の悲鳴もあがっているはずだ――
 だが、一切の音が聞こえない。
 それだけが、自分が肉体としてそこにいるのではないことを思い出させた。自分は沈黙の遮蔽空間に包まれ、この光景を見ている――遠くから、しかし目の前に。
 唐突に、ヘッドセットから監視役(ハンドラー)の冷ややかな声がする。
「座標地点の状況を記述せよ」
 状況だと? 「座標地点の状況」だと?
 ミッション用の小室(ブース)に入る前、ターゲット座標の封筒を手渡した監視役(ハンドラー)の表情を思い出す。
 単なるルーティーンの試行(テスト)のはずだった。ターゲットはいつものように、国内のどこかの地点の建物だろうと思っていた。だが監視役(ハンドラー)は知っていたのだ――これが単なるテストではないことを――
 何週間か前にあった上官とのやりとりを思い出す「上から求められていてね、プロジェクトの継続を正当化するだけの結果が必要なんだ」
 湧き上がる不快感を押し殺す。
 執拗な声。
任務(ミッション)中だ。現場の状況を記述しろ。録音はオンだ」
 押されるように、口を開く。機械的に状況を記述しながら、爆心地に向かって視点を移動させる。
 幼い子供がよろけながら歩いていた。皮膚は強い放射線による熱傷で破れ、血が流れていた。
 思わずよろける子供のそばに寄り、その体を支えようと手を差し伸べた――そう思った――だが手は子供の体を通り抜けて空しく宙をつかむ。
「お水…欲しい」
 唇の動きでそう呟いたのがわかる。子供はそのまま道路に倒れ、動かなくなった。
 呆然としながら視野を上げた先に、女性がいた。火のついた着衣、ぼろぼろの皮膚――地面にひざをつき、炎に包まれる自身の体から離すように腕を伸ばす。伸ばされた腕の先に赤ん坊がいた。
 母親の目が自分を見た。子供を救える誰かがそこにいるはずだというように、必死に黒い瞳が探る。
 だが、投影された意識としてしかそこにいない自分には、女性を救うことも、赤ん坊を抱きあげることすらもできない――
 母親の視線がはっきりと自分に向けられた。その目が責める――確かに自分の目の前にいる誰か。自分を殺し、自分の赤ん坊を死に追いやろうとしている人間の一人を。
 女性の体が前に崩れる。腕の中の赤ん坊は身動きしない。おそらく母親より先に事切れていたのだ。だがそれも何の救いにもならなかった。
 死にゆく幼い子供が水を求める、聞こえないはずの声が、耳にまとわりついた。
 町のいたる所に黒く炭化した体があった。子供や、幼子を抱いた女性もたくさんいた。爆心地に近づくにつれ、炭化した体は人間としての形もとどめなくなっていた。
「個々の犠牲者の記述はいい。町全体を俯瞰して破壊の程度を正確に記述しろ」
 ――そうだ 死者は数字としてだけ数えれば忘れることができる。軍で働き続けても、前線にも出ない自分は個々の犠牲者の顔を見ることもない。見なければ、耐えられる……。
 意志の力で無理やり自分を地上から引き離し、高空に持ち上げる。
 焼け焦げた町は地獄だった。
 投下されたのは、それまで軍が公に使用を認めてきた劣化ウラン弾などではなかった。戦術核――実際の核弾頭が一つの町に使われたのだ。
 それは作戦として予定されていたものだったろう。だが、その破壊の様相を遠隔から正確に記述してみせる、それが自分が働く特殊プロジェクトの存続を正当化する材料に使われるのだ……
 死んだ赤ん坊を抱いた母親の視線は、自分の胸に突き刺さったまま――

 

 セレスティンは目を開けた。
 枕が涙で濡れていた。
 テロンは、ルシアスは戦争の時に通訳として駆り出されただけと言った。でも本当の仕事は、通訳などではなかったのではないか……。
 涙をふき、横になったまま自分の中が落ち着くのを待った。
 時計が朝の八時を回った頃、静かにベッドルームのドアを開ける。ルシアスが薄い毛布に体を包み、リビングの床に横になっていた。まだ眠っている。
 そっと傍らに座る。眠る姿を見ながら、彼の孤独の輪郭を引いているのは、あの経験だと思った。目覚めている時の彼は、それをどこか、自分でも気づかない場所にしまい込んでいる。
 少ししてルシアスが目を覚ます。見つめられていたことに気づき、わずかなとまどいの表情を浮かべて起き上がる。
「すまない――寝過ごすことなんて、めったにないんだが」
 それから気づかうような表情が彼の顔に浮かぶ。セレスティンが泣きはらした顔をしているのに気づいたのだろう。
「……大丈夫か?」
「うん」
 セレスティンは無理に笑顔を作って見せた。
 朝日の当たるラナイに出て、二人とも言葉少なくコーヒーを飲んだ。朝のまだ涼しい風が肌に触れる。遠くにホノルル湾の海がうねって、小さな白い波が立つのが見えた。
 自分はいったいどこに行くのだろう――

 

 セレスティンはラナイの手すりに頬杖をつき、海を見ている。
 ルシアスは彼女の背中を見つめながら、伝えなければならないことを彼女に伝えるために、言葉を選んだ。
 来週にもここを引き払い、ニューヨークに戻ることになるだろう。
「……セレスティン」
 彼女がふり向く。ルシアスは準備したはずの言葉を探した。
 ふいに彼女が上を見る。
「どうした?」
「……何かが通ったみたい」
 不思議そうにあたりを見回す。
 ルシアスが注意を向けると、風の精(シルフ)が駆け抜けた軌跡が空間に残っていた。
 ラナイの床を見たセレスティンは、陽の光を受けて輝く瑠璃青色の羽を見つけ、手を伸ばした。それから首をかしげる。
「どうした?」
「これ、アオカケス(ブルージェイ)の羽」
「それがどうかしたのか?」
「ハワイにはいない鳥なの。風が、鳥の羽をアメリカ本土から、こんな遠くまで運んでくるなんて」
 彼女に風の精(シルフ)の姿は見えたのか? ルシアスはセレスティンの反応を測りかねた。
 ふと、思った――彼女は自分の理解や予測を超えるものなのではないか。テロンの言葉がよみがえる――「その娘は見つけものだ――」
「ルシアス」
 手にした羽を見つめていたセレスティンが、真顔になる。スカイブルーの瞳がまっすぐに向く。
「話したくないことは話してくれなくてもいい。でも私はルシアスのそばにいたい。ずっとそばにいて、一緒に歩きたいの」
 はっきりと紡がれた言葉は、セレスティンがすでに心を決めているといっていた。彼女の声に込められた力がルシアスを捕らえた。
 いつか海岸で見た、淡い光に包まれた彼女の姿を思い出す。
(――彼女なら、ついてくることができるかもしれない このしなやかな、不思議な強さと純粋さをもった魂なら――)
 目に見える世界と見えない世界の狭間にとらわれて正気を失うことなく、人の能力を超える力の魔力の虜になることなく……。
 ルシアスは、自分の心の片隅を占めていたある思い――あるいは願い――を認めた。
(彼女がそばにいてくれればこそ、自分はこの先に続く道を歩けるのではないか……)
 セレスティンの手がルシアスの手に重ねられる。
 ルシアスはその手を握り、彼女を引き寄せると腕の中に抱いた。
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登場人物紹介

セレスティン

ホノルルで大学に通う。

動物、植物、あらゆる生き物と星が好き。ダイビングが趣味。

ルシアスとの出会いをきっかけに、世間で「魔術」と呼ばれているものを学ぶ道に導かれていく。

ルシアス

もと海軍の情報士官で、ニューヨークの白魔術教団のメンバー。

訳があって軍を退役し、教団を去ってホノルルに移り住んできた。

彼のまわりでは風が生き物のように不思議な振舞いをする。

テロン

海軍の特殊部隊出身で、もと白魔術教団のオフィサー。

ルシアスの友人で、アメリカ本土から彼を追いかけてきた。

マリー

山の上に隠棲し、植物を育てながら薬草やアルケミーの研究をしている女性。

以前はニューヨークでユング派の心理療法家をしていた。

鳥の羽に導かれてセレスティンと知りあう。


エステラ

ニューヨークに住む、白魔術教団のオフィサーで占星学者。

ルシアスとテロンと親しいが、強面のテロンに「俺もルシアスも頭が上がらない」と言わせる女性。

ガブリエル・ジレ

ニューヨークにある白魔術教団のメンバー。

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