幕は引かれ

文字数 1,372文字

 テロンは夜道に車を走らせながら、助手席のセレスティンに時々話しかけた。
 眠そうに目を瞬かせながら何とか答えていたセレスティンは、やがて話しかけにも反応が鈍くなり、こらえきれなくなったように座席にもたれて眠りに落ちた。
 しばらくして人気のない場所で車を止め、完全に眠り込んだのを確かめる。彼女のバックパックのポケットを探って鍵を取り出す。
 かつて何度もルシアスから引き出そうとして成功しなかった反応を、今度こそ引き出せる――やつが深く惹かれているこの娘を使って。
 建物の裏に車を止める。警備員もいない低層階建てのアパートなのは、数日前に住所を調べた時に確かめてあった。
 あたりをチェックして人が往来しないのを確認し、眠っている彼女を車の座席から抱えあげる。そのまま人目につかないよう非常階段を上がり、手早く部屋に運ぶ。
 抱えた時にめどをつけた娘の体重と飲ませた薬の量から、薬の効き目が続く時間を再確認する。見積もり通りだ。
 娘をいったん寝室のベッドに降ろし、部屋を見回した。
 小さな寝室にリビングとキッチンがついただけの、学生らしいシンプルなアパート。
 だが今どきの学生らしからぬ懐古趣味というか。部屋の壁にはられているのは、スターや歌手のポスターではなく、古い絵画の複製だった。
 あれはジョット、こちらはフラ・アンジェリコ。黒を背景にした質素な聖母子像はラファエロか。画家が確か二十歳かそこらの頃に描いたものだ。
 床に積まれた生物学や動物学、植物学といった大学の教科書に混じって、画集、神話集、古典文学や詩集の類いが並ぶ。
 ベッドの枕元の壁には古びた絵はがきがピンで留められていた。写真の彫刻はどこかで見た。作風はルネサンス初期の――ドナテロあたりか。記憶を探る――そう、シェナの聖堂にあったやつだ。両手を胸の前に挙げて空を見上げる天使は「希望(ラ スペランツァ)」、そんな題がついていた。
 この娘がルシアスを惹きつけるのもわかると思った。いや、それを言うならテロン自身の興味も惹かれていた。
 だが詮索は後だ。
 セレスティンの服に手をかける。意識のない彼女は完全に無抵抗だ。脱がせた衣類を床の上にそのまま放り、ベッドに横たわらせた。 

 窓の外から鳥の声が聞こえ、夜が明け始めたのがわかる。テロンはベッドのそばに立つと、カーテンの隙間から外を見た。
 カーテンからこぼれる光に反応し、シーツの下で娘が小さく身動きして背中を向ける。
 なめらかな背中の肌に一条の朝日が落ちる。
 淡い赤銅色(ブロンズ)のかかったつややかな肌――肌に落ちる朝の光――記憶の中の深い瞳。
 ふいに記憶の泡がはじけた。
 最初に街角で彼女がルシアスといるのを見た時から、自分の意識を引っ張り続けたもの――昨夜レストランで向かい合って話をしていた間も、ずっと意識の裏側で注意を引き続けた――。
 思わずベッドの片端に手をつき、娘の顔を見る。
(そういうことか……)
 小さく舌打ちをする。
 この工作のために自分が支払うつけは、思ったよりでかい。
 だが、一度投げるために握られた賽を手の中に留めようとするのは、自分の性ではない。しなければならぬことをするのみ、たとえそれが後から自分を後悔させるものとわかっていても。
 腕時計の時間を見る。立ち上がってカーテンに手をかけ、レールと金具の摩擦音を響かせながら無造作に開いた。
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登場人物紹介

セレスティン

ホノルルで大学に通う。

動物、植物、あらゆる生き物と星が好き。ダイビングが趣味。

ルシアスとの出会いをきっかけに、世間で「魔術」と呼ばれているものを学ぶ道に導かれていく。

ルシアス

もと海軍の情報士官で、ニューヨークの白魔術教団のメンバー。

訳があって軍を退役し、教団を去ってホノルルに移り住んできた。

彼のまわりでは風が生き物のように不思議な振舞いをする。

テロン

海軍の特殊部隊出身で、もと白魔術教団のオフィサー。

ルシアスの友人で、アメリカ本土から彼を追いかけてきた。

マリー

山の上に隠棲し、植物を育てながら薬草やアルケミーの研究をしている女性。

以前はニューヨークでユング派の心理療法家をしていた。

鳥の羽に導かれてセレスティンと知りあう。


エステラ

ニューヨークに住む、白魔術教団のオフィサーで占星学者。

ルシアスとテロンと親しいが、強面のテロンに「俺もルシアスも頭が上がらない」と言わせる女性。

ガブリエル・ジレ

ニューヨークにある白魔術教団のメンバー。

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