布置[コンステレーション]

文字数 5,124文字

 縦横に仕切られたノートパソコンの黒い画面が、数字とアルファベットの略号で埋められている。緑に光る数字が、刻々と上から下に流れていく。
 略号や数字自体は、ルシアスにとって意味はない。それは単なる記号だ。数字の流れを目で追うのも感覚を集中させるためだけで、個々の数字に意味を求めているわけではない。ましてや略号が示す会社の名前などに興味もない。
 重要なのは、記号の背後にある「流れ」だ。
 一つの略号をとり巻くパターンを意識が捕らえ、そこに感覚がつながる手応えがある。数瞬、動きを追って、流れの向きと速度を把握すると、それを再び具象の世界に落として具体的な判断に変え、トレードのオーダーにしてキーをたたく。
 画面を見つめ、何かを追ってはキーをたたく作業を素早く繰り返す様は、傍からはゲームをしているように見えただろう。事実、それはルシアスにとってはゲームだった。
 ただ、このゲームには、損失(ロス)利益(ゲイン)という一時的な勝敗はあっても、「終わり」や「結末」はない。
 勝つにしろ負けるにしろ、デイトレードというゲームの底なし沼にはまりこんでいく人間は多い。しかしルシアスには、一定範囲を越えてゲームを続ける欲求も必然性もなかった。
 それは手段であって目的ではない。形のない領域から、この世界で必要な資源(リソース)を引き出すための、比較的込み入らない手段の一つ。
 あるいはひとまとまりのエネルギーを、トレード画面を流れる「数字と略号」という一つの記号から、「銀行口座の残高」という別の記号に翻訳する作業。
 そしてとりあえず必要なだけエネルギーを「金銭」の形に落としたら、それ以上作業を続ける必要はない。
 記号の背後にあるエネルギーの流れは膨大だ。少なくとも、地上にはびこる微生物のように小さな人類が、どれほどがんばっても使い尽くせるようなスケールではない。
 必要ならいつでも、その果てしないエネルギーの海から数滴のしずくをすくってくればいいのだ。
 半時間ほどしてトレードの収支を確認する。2、3か月はこれで十分だ。システムを終了させ、銀灰色の薄いノートブックを閉じる。
 ルシアスは、バルコニー(ラナイ)のガラス戸の向こうに目をやった。青い空は陽光で満たされている。
 セレスティンが自分の肩に頭を乗せ、軽くもたれる時の感触を思い出す。まるでそこにいるのが当たり前のように、彼女の存在は自分の傍らに居場所を見つけていた。
 こんなふうに誰かを受け入れたことは、今までなかった。
 「人間嫌い」というほど強い感情を抱くわけでもない。ただ、一定範囲を越えた「親しい」関係には、いつも一種の疎ましさを覚えた。それは自分を縛るものすべてに対する、本能的な抵抗だと思っていた。
 テロンやエステラとのつき合いが負担でなかったのは、二人が人間関係から一切の「弱さ」を排除していたからだ。他人に依存せず、他人が自分に依存するのも許さない。その明晰で毅然とした態度が、ルシアスにとっては自由な空間を保証するものだった。
 セレスティンはそれとは違う。
 親しい関係を負担に思う自分の心理的な防壁を軽い足どりで飛び越え、腕の中に飛び込んできた。気がついた時、自分の胸にその温かい頬を押し当てていた。
 彼女はいったい「何」なのかという問いへの答えは、見つからないまま――。
 立ち上がって、ガラス戸を開ける。
 海から涼しく湿った風が吹き込み、肌に当たる。その感触を味わいながら風を呼吸した。
 体の感覚が、違っている。
 空気が深く胸を満たした。これまで届かなかった肺の奥、細かな気管支の隅々にまで酸素が染み渡る。冴えた感覚には、肺胞自体の透過性が増したようにさえ感じられた。
 これまでになくはっきりと体の中に「風」が流れ込む感覚に、驚きを覚える。軽く細やかなエネルギーが電気のように神経細胞を駆け、全身を巡った。
 ルシアスはラナイに出て、空を見上げた。
 風の元素霊(シルフ)たちの存在は、意識を向けさえすればいつも感じることができた。
 だが、今、すべてのシルフをその内にはらんだ風、というより大気そのものが、透明な光となって自分を包む。
 まぶしさに思わず目を細めたが、まぶしさはむしろ強くなる。外から包まれるだけでなく、光は自分の内側からも発していた……。
 部屋で携帯電話が鳴る。
 その音に、意識が平常の状態に引き戻される。
 だが呼吸の深さと、大気が体中にしみとおる感覚はそのままだった。手足を巡る血液さえもが、これまでより多量の酸素を含んでいる感じがあった。
 呼び出し音が止む。相手が誰なのかはわかっていた。
 残されたメッセージを聞く。テロンがいつもの陽気な調子で、ホテルの名前と「プールサイドにいる」とだけ告げていた。

 静かなホテルのプールに人気はない。もちろんテロンのことで、そういう場所を選んでいるのだろうが。
 向こうのテーブルに、白いシャツに黒いスラックスの見慣れた姿を見つける。
 プールサイドのバーでアイスティーをオーダーし、そちらに歩み寄った。
「よう」
 テロンがマティーニのグラスをとり上げながら、声をかける。
 「昼間から飲んでるのか」というセリフはこの男には無意味だ。アルコールはテロンの胃袋に届く前に跡形もなく分解される。消費されるアルコールの量に関わらず、彼が酒の匂いをさせていたことはただの一度もなかった。
 そしてその気になれば半年でも、一滴の酒も口にせず平然としていられるのも知っていた。
 ルシアスのアイスティーが置かれるのを見ながら、テロンが言う。
「あの小娘との関係はうまく収まったようだな」
「なぜお前がそんなことを知っている」
「何日か前にダウンタウンのカフェで、あの娘の方から俺に近づいてきたからさ。お前のことを心配してた」
「なあ――お前は、俺をいったい何に巻き込むつもりだ?」
「巻き込む? そんな質問は運命の女神にでもしとけ」
 テロンがグラスを軽く干す。
「俺は事実を指さしてるだけだ。目的があって生まれておきながら、持って生まれた目的から逃げようとするほど馬鹿げたことはない」
 テロンの言葉を聞きながら、四大元素の中の「火」の要素を、これだけ見事に体現した人間を他に知らないと思った。
 特殊部隊上がりの強靭な肉体と精神力。そこから発せられる砂漠の太陽のような熱さ。動物的な勘と、それを信じて動くのをためらわない行動力。
 それはエステラも同じだ。教団(オルド)の中で水の器を司り、比類ない静謐さをもって教団の託宣者として機能する点で、彼女に及ぶ者はいなかった。
 テロンはからかい半分に「魔女」などと呼ぶが、魔女とは個人のレベルで自然魔法を使いこなす者に過ぎない。エステラがそんなものでないことは、二人ともわかっていた。
 すべてのためらいを捨てて自己の能力を開く時、人間にどれだけのことが可能になるかを、教団の「内側の輪」にいた三年の間、ルシアスはこの二人に見てきた。
 魔術の力があくまで儀式にあると信じ、儀式に依存する大半の術師の惰性を超えて、儀式のパターンを象徴として内在化し、単なる道具として使いこなすことを二人は知っていた。
 それを見てとることができたのは、ルシアス自身、そのことを理解していたからだ。
 だが、二人がするように自分の知ることすべてを行動に落とすには、ためらいがあった。
 それを始めてしまえば、自分の能力は確実に開かれていく。そして能力がある限度を超えて開かれれば――布置(コンステレーション)の手によって、舞台の上に引きずりだされる。
 それを望まなかったのだ。
 自分の中に保存された知識から目を背け、壁の内側に閉じこもり続ければ、独り静かに生きるのを許されるかもしれないと思っていた……。
 手をつけないままのアイスティーのグラスに水滴がつき、光を反射する。やがて水滴が凝集し、透明なガラス肌を流れるのを見ながら、ルシアスは言った。
「なあ お前は教団の南のオフィサーとして、火のアーキタイプを扱ってきた。たとえ儀式の間だけでも、自分の理解も及ばない巨大な(フォース)を自分の中に引き入れることに、抵抗はないのか?」
「引き入れた(フォース)を制御できなければ、壊れちまうに決まってるだろうが。俺が壊れてるように見えるか」
 魔術師としての(パワー)を増大させるために、制御し切れない(フォース)を自分の中に引き入れ、その結果、妄想性障害や精神分裂状態に陥った人間を、ルシアスは何人も見てきた。それは魔術という形で目に見えない(フォース)と関わり始める時、つねにそこにある危険性だ。
 教団の枠組みとそこで与えられる規律と訓練は、魔術に伴う危険をある程度は予防する。しかしそれを排除することはできない。
 その中で、大量のフォースを肉体に流してぶれることのない安定性で、テロンに並ぶ者はなかった。それが、教団では若輩と見なされる年齢で南のオフィサー役を任され、何年も務め上げることのできた理由でもあった。
「ルシアス お前の抵抗は、でかい(フォース)を受け入れること自体に対してじゃないだろう」
 ルシアスは押し黙った。
 そうだ。テロンがやるような形で(フォース)を受け入れる能力が自分にあるのはわかっている。自分が恐れているのは、フォースの存在そのものではない。
 人の理解を超える巨大な自然の力の相であるフォースを自己の中に引き入れ、それと一つになる経験をしたら、自分はもう人間としての自分に帰ってきたいとは思わなくなる――この世界には、自分を引き止めることのできるものないのだから――
 そういつも思っていたのだ。
 ふいにセレスティンの姿が浮かぶ――なぜ、彼女は自分の人生に配されたのか。
 考えるルシアスを横目で見ていたテロンが、軽く視線を上げる。その様子にルシアスが注意を向けた時、一陣の風が背後から吹き込んで、樹木の青い香りであたりを満たした。
 風が運んできた針葉樹の芳香が肺にしみこみ、ラナイであの透明な光に包まれた時の感覚が甦る。
 しばらくしてルシアスは口を開いた。
「教団に戻る気はないんだな?」
「わかり切ったことを訊くな」
「それなら、これからどうするつもりだ?」
「そうだな」
 テロンが考えるようにする。
「――何をどうするにしても、北の方位が空きなのは収まりが悪い」
 テロンの言葉は唐突でも、思考はポイントを外さない――間のステップを一度に三つ四つ飛ばす嫌いはあるが。
 「北の方位が空き」というのは、エステラ、テロン、ルシアスが、それぞれ四方位のポジションを占めることを想定している。そうすれば一か所、「北」が残る。
 もちろん、エステラがテロンの画策に乗る気があるのかどうかもわからない。しかし三人の出会いの背後には、すでにある見えないものの気配がある。
 元型(アーキタイプ)とは、個人の意志を超える必然性の形だ。それを運命とか宿命とかいう言葉で呼ぶ人間もいる。
 運命が自分に何を求めているかを知るには、自分の回りに、布置(コンステレーション)を通して描かれるパターンを読む。
 布置には固定されたものと、動的なものがある。
 例えば個人の誕生の瞬間に固定される、この人生での基本的な布置がある。占星学はそれを読み解く試みだ。
 だが動的な布置は、個人を超えた、はるかに大きなスケールで動く。そして一度(ひとたび)呼ばれた者は、それに形をとらせるために動かざるを得ない。役をふられた者が自分から動かないなら、運命はその人間を動かすための状況を作り出すからだ。
 ルシアスは自分の手を見つめた。
 風の声は今までになく強い。だがその声に、微かな別の声が混じっている。
「――運命の女神が何を望んでいるかを聞き出すか」
 ルシアスの言葉にテロンがにやりと笑った。
「とりあえずお前も俺も、手持ちぶさたな退役軍人だからな ゲームは大がかりな方が面白い」
「エステラはどうしている?」
「あいつは当面ニューヨークから出るつもりはない。前の賢者への義理だとか言って、教団の見守り役に徹するつもりだ」
 エステラが一度何かを決めたら、説得などできない。できるのは、彼女が自分で気を変えるのを待つことだけだ。
「西が埋まらないなら、先に北を埋めるか。いずれ三方が埋まれば、四つ目のポジションを埋める圧力は自然に高まる」
「じゃあ、地母神(デメテル)探しだな。探し始める場所はこの太平洋のまっただ中でいいのか?」
「とりあえず。動き出せば、手がかりが向こうから来るだろう」
「よかろう」
 テロンは機嫌よくウェイターに指で合図をした。追加のウォッカ・マティーニをオーダーし、ルシアスの氷の溶けたアイスティーを換えさせる。
 二杯目だか三杯目だかのマティーニをテロンが軽く空けるのを見ながら、ルシアスは、自分の選択がさざ波のように、自分たちを取り囲む目に見えないパターンに伝わっていくのを感じとっていた。

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登場人物紹介

セレスティン

ホノルルで大学に通う。

動物、植物、あらゆる生き物と星が好き。ダイビングが趣味。

ルシアスとの出会いをきっかけに、世間で「魔術」と呼ばれているものを学ぶ道に導かれていく。

ルシアス

もと海軍の情報士官で、ニューヨークの白魔術教団のメンバー。

訳があって軍を退役し、教団を去ってホノルルに移り住んできた。

彼のまわりでは風が生き物のように不思議な振舞いをする。

テロン

海軍の特殊部隊出身で、もと白魔術教団のオフィサー。

ルシアスの友人で、アメリカ本土から彼を追いかけてきた。

マリー

山の上に隠棲し、植物を育てながら薬草やアルケミーの研究をしている女性。

以前はニューヨークでユング派の心理療法家をしていた。

鳥の羽に導かれてセレスティンと知りあう。


エステラ

ニューヨークに住む、白魔術教団のオフィサーで占星学者。

ルシアスとテロンと親しいが、強面のテロンに「俺もルシアスも頭が上がらない」と言わせる女性。

ガブリエル・ジレ

ニューヨークにある白魔術教団のメンバー。

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