空間

文字数 4,178文字

「なんだ お前、いつ来てもいるな。ここに住み込んでるのか」
 テロンがあきれたような顔で言った。
「遊びに来て、ついでに泊まっていくだけだよ。テロンだって、私と鉢合わせになるぐらい顔見せるじゃない」
「ふん」
 テロンは勝手知ったように庭のイスに腰を下ろす。キッチンの窓から見たのだろう、少ししてマリーが、いつもの大きな木のトレーに陶器のポットとカップをのせて出てくる。
 褐色の液体が注がれ、コーヒーのいい香りが立つ。
「お茶じゃないの?」
「コーヒーも適度に使えば薬草(ハーブ)の一種。自然は無駄なものは作らないわ」
 マリーが笑顔で言いながら、作り立てのチーズケーキを切り分ける。マンゴーのピューレをかけてもらったケーキをセレスティンが頬ばる横で、テロンが一冊の本をとり出して広げる。
 繰り返し読んでいるみたいで、表紙は少し摺れて古びていた。「|The Magical Battle of Britain《英国の魔術的戦い》」。
「それ何の本? ファンタジー小説?」
「自分で調べてみろ」
 言われて、本の著者の名前をのぞき込む。Dion Fortune(ディオン・フォーチュン)
 携帯で検索をかける。
「イギリスの作家って書いてあるよ。代表作『山羊の足をした神』『翼の生えた牡牛』って、やっぱりファンタジーじゃない」
「お前、何をファンタジーって呼んでるんだ」
剣と魔法(ソード・アンド・ソーサリー)とか、魔物とか妖精が出てくる系の物語」
妖術(ソーサリー)魔法(ウィッチクラフト)魔術(マジック)の区別ができるか?」
「えー おんなじものじゃないの?」
魔女(ウィッチ)魔術師(マジシャン)の違いはどうだ? 魔術師ってのは舞台で手品をやるやつらのことじゃないぞ」
 そんなこと考えたことなかったけど、言われてみれば、どうして違う名前で呼ぶんだろう。
 多分また「自分で調べろ」と言われるから自分で検索してみるが、魔法(ウィッチクラフト)を使うのが魔女で、妖術(ソーサリー)を使うのが妖術師で、魔術(マジック)を使うのが魔術師ぐらいのことしかわからない。
 セレスティンが惑っているのを見通すように、テロンが「語源を調べろ。一番古いところまで遡ってみろ」と言う。
 そうするとmagic(マジック)の語源はギリシャ語のmagikos(マギコス)で、それはさらにペルシャ語のmagi(マギ)から来ていること。もともとは高位の司祭とか賢者という意味だということがわかった。
 sorcery(ソーサリー)はラテン語からで、くじを引くとか命運を共にするといったような意味。それがいつの間にか、魔の助けを借りて行う黒魔術というような意味で使われるようになったこと。
 witch(ウィッチ)は古英語のwicca(ウィッカ)につながる。ウィッカはキリスト教以前の自然崇拝に基づく信仰……。
 おもしろい。魔法や魔術ってなんとなく一緒に考えてたけど、違う意味があるんだ。
 テロンはセレスティンを「小娘」と呼んで子供扱いしているが、マリーの庭で会う時には、わりと真面目に相手をしてくれる。
 テロンだけじゃない。時おりセレスティンといっしょに訪れるルシアスも、マリーの所にいる間は、普段、彼を捕らえて離さない俗世界への物憂さを忘れるみたいに、自然な笑顔を見せる。
 セレスティン自身もマリーのそばにいると、普段の自分と少し違う自分を経験する。いつもよりもう少し遠くが見えて、もう少し深く落ち着いて考えることができる。
 どうしてなのだろう。
 ふと、初めてルシアスに会った時のことを思い出した。彼を包む、それまで経験したことのなかった「雰囲気」に惹かれた。それから彼のそばにいると、世界がそれまでと違って感じられると思った。
 誰と一緒にいるかで、「自分」が変化する。
 そう思いついたセレスティンは、意識して観察してみた。
 大学の教室でクラスメートと座っている時。教授の所に質問に行く時。ダウンタウンのカフェで、フードコートで、ランチやおやつを食べながら、そばに色んな年齢や性別の人が座ったり立っている時。
 うーん。ルシアスやテロンといる時ほどよくわからない。何か希薄で、はっきりした手触りがない。
 ルシアスの部屋にいる時、思いついて実験をしてみた。
 リビングで本を読んでいる彼が座っているところから、まず部屋の壁まで離れる。それから一歩一歩、ゆっくり近づいてみる。
 そうすると、あの感覚――ルシアスをとりまく不思議な密度がだんだんはっきりと感じられた。
 ということは、それは彼をとりまく一種の「場」(フィールド)なのかな。
 そしてそこにはルシアスの「(らしさ)」が映されている。
 ルシアスが本を置いてふり向く。
「何をしてるんだ?」
「確かめてるの」
「何を?」
「ルシアスやテロンの回りにある『目に見えない何か』が、何なのかなって」
 自分がこれまでに観察したり考えたことを話してみた。
 考え深げに聞いていたルシアスは、話が終ると、手を伸ばしてセレスティンを抱き寄せた。
 腕の中で彼の「存在(ビーイング)」に包まれる。そのまま自分を預けると、ふいに夜が明けたみたいに視野が明るくなった。
 まわりの世界が透明になる――思わず天井を見上げる――天井はまだそこにある――あるんだけど――まるでそこにないみたい……
 ルシアスの(フィールド)の効果。
 そうだ この強烈な影響力――だからわかりやすい。そしてそれに比べると、「普通」の人たちのフィールドが希薄に思えるんだ。
 そしてこれは単なる「場」じゃない。その中に包まれて、自分は「世界」を別の形で見ている……。 

 次にマリーの家でテロンと出くわした時にも、同じ実験をした。「おかしなことをする」とからかわれながら、少し離れた場所から、立っているテロンのそばに近づいてみる。
 ゆっくり歩いてテロンとの距離が短くなるにつれ、フィールドの感覚は確実に強くなり、あるところに「境界線」のようなものがあった。
 ルシアスの境界線は彼自身に近いところに引き寄せられていて、そして人を寄せ付けない。
 テロンのフィールドはそれより大きく広がっているが、代わりに中に入ってくるものを識別しているような気がした。そしてテロンの質――
 ふと、何かが感覚に触れる……
 セレスティンが考え込むような顔をした時、テロンが動いてセレスティンの横に回った。
「で 何を見つけた?」
「んー 目に見えない(フィールド)みたいなもの。そしてそれが、テロンとルシアスで影響の届く距離や質が違うの」
 テロンは軽く笑いを浮かべて「そうか」とだけ言った。 

 夕方、アパートに戻ってベッドに転がり、考えた。
 人はフィールドの形で、自分だけの「世界」を自分の回りに運んでいる。その中に入ると、自分も影響を受ける。自分についての感じ方が変化する。
 ルシアスの世界は人を寄せ付けず、ほとんどの人を中に入れない。でもそれを中から垣間見ることを許されたら、息を呑むほど青い空がある。
 テロンの場に踏み込んだ時には、まとまった何かを感じるほど時間がなかったけれど、熱い砂漠の風みたいな匂いがした。
 この「世界」は目に見えない。でも確かにある。そしてその人の近くに寄ると、ずっとはっきりと感じられる。 

 一つ不思議に思うことがあった。マリーのフィールドは、ルシアスやテロンと少し違う。それはまぎれもなくそこにあって、影響を感じることができるのだけど、二人のように本人との距離に直接左右されるのではない気がした。
 その影響はマリーの庭に足を踏み入れるとすぐに感じられて、家のどこにいてもそうだった。
 まるで庭と家の全体がマリーのフィールドみたいで、そしてそれはルシアスやテロンにも影響を与えるほど強い。
 マリーの家にいる時とそれ以外で二人の表現が違うのは、このせいじゃないだろうか。 

 ある日、セレスティンとルシアスがマリーの庭に足を踏み入れると、申し合わせたようにテロンと出くわした。マリーはお茶の準備をしに中に入っていくところだった。
 セレスティンは手伝うつもりで、マリーの後についてキッチンに入った。
 ハーブの入ったたくさんのガラスびんを前に、マリーが立っている。その様子にセレスティンは思わず立ち止まった。
 キッチンの空気は静か。
 しばらくして、マリーがゆっくりと一つのびんをとり上げる。それを作業用の木の台の上に置いて、もう一つびんをとる。そしてもう一つ。
 棚からいつも使う白い陶器のティーポットをとり出し、テーブルに乗せる。
 ゆっくりとびんの蓋を開け、指先で灰色がかかった深緑のハーブをつまんでポットに移す。その美しい仕草に目が惹きつけられる。ふわりとレモンバームの香りが漂う。
 不思議だ。マリーから2メートルは離れているのに、どうしてこんなに鮮やかに匂いを感じるのだろう。乾燥したレモンバームは決して香りの強いハーブじゃない。
 そして次のびん。マリーの指が明るい灰緑のハーブをつまみ、ポットに落とす時、再び、今度はセージの香りがした。
 香りが強く感じられるのは、びんの蓋が開いた時ではなくて、マリーの指がハーブをつまんでポットに落とす瞬間だった。
 最期にラヴェンダーが加えられる。
 銀色に光るやかんにガラスのピッチャーから水を注ぎ、火にかける。マリーのキッチンに電子レンジはない。
 火が水を温めるのを静かに待つ。
 やがてやかんの口から水蒸気が漏れ、お湯の沸騰する音がする。
 お湯がティーポットに注がれる。ポットに蓋がされた時、何かがぴたりとはまった。
 次に棚から白い陶器の茶器をとり出す。
 ゆっくり、丁寧にカップと受け皿をトレーに乗せる。
 マリーが一つ一つの動作を行う度に、まわりの空間の密度が増していくのをセレスティンは感じた。
 それは多分いつもそうだったのだ。ただ、気づいたのは今が初めて。
 「意識(こころ)を込める」というのは、こういうことなのかな――
 ビーズの作業を教えながらマリーが言ったのを思い出す。「意識をしっかり集中させながら、同時に広げていくの。手もとの作業と、あなたの存在の両方が自分の意識の中にすっぽり入るまで」
 マリーはこうやって自分のフィールドにつながる空間を整えているんじゃないだろうか。そして家全体、庭全体を自分の中におさめる。
 こうして作り出された生きた空間は、そこに入る者に影響を与える。
 ルシアスやテロンのフィールドは、二人の存在の強さに伴うほとんど物理的な現象だ。ちょうど台風の目の回りに風が渦巻くように。
 でもマリーは穏やかに、意識的にそれを織り上げる。まわりの環境や、植物や、いろいろなものの助けを借りて。
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登場人物紹介

セレスティン

ホノルルで大学に通う。

動物、植物、あらゆる生き物と星が好き。ダイビングが趣味。

ルシアスとの出会いをきっかけに、世間で「魔術」と呼ばれているものを学ぶ道に導かれていく。

ルシアス

もと海軍の情報士官で、ニューヨークの白魔術教団のメンバー。

訳があって軍を退役し、教団を去ってホノルルに移り住んできた。

彼のまわりでは風が生き物のように不思議な振舞いをする。

テロン

海軍の特殊部隊出身で、もと白魔術教団のオフィサー。

ルシアスの友人で、アメリカ本土から彼を追いかけてきた。

マリー

山の上に隠棲し、植物を育てながら薬草やアルケミーの研究をしている女性。

以前はニューヨークでユング派の心理療法家をしていた。

鳥の羽に導かれてセレスティンと知りあう。


エステラ

ニューヨークに住む、白魔術教団のオフィサーで占星学者。

ルシアスとテロンと親しいが、強面のテロンに「俺もルシアスも頭が上がらない」と言わせる女性。

ガブリエル・ジレ

ニューヨークにある白魔術教団のメンバー。

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