教師

文字数 1,990文字

 セレスティンはあぶみに片足をかけ、体を持ち上げた。教えられたように、あぶみにかけた片足をしっかり踏み込み、馬の背中に負担をかけないよう静かにまたがる。
 初めて乗る馬の背は思いもかけず高い。こんな角度から世界を見るのは初めて。
 手綱や脚で指示を出すやり方を教わり、最初は馬場を歩かせろと言われる。
 でも馬は少し歩くと、柵の近くでおいしそうな葉のついた木の枝を見つけて立ち止まり、食べ始めた。
 脚で指示を出して進んでもらおうとするが、無視される。
 「腹を軽く蹴れ」と言われたけれど、痛いのではないかと思い力が入らない。馬はセレスティンを、まるでそこにいないもののようにふる舞っている。
 乗りさえすればなんとなく意志が通じて、馬は動いてくれるのだと想像していた。ただ歩いてもらうだけなのに、どうしてうまくいかないんだろう。
「お前は馬に感情移入し過ぎて、自分の意志がぶれてるぞ。させたいことを自分の中で一つにまとめろ」
 セレスティンは気持ちを落ち着け、姿勢を正して手綱を引いた。馬が食べるのを止める。
 もう一度、脚で指示を出すと馬は歩き始めた。
 最初のうちは歩いては止まり、歩いては止まりの繰り返し。
 ようやく馬場の中を四角を描いて歩かせることができるようになり、それから少し早い速歩(トロット)を習った。
 前に進むことに意識を集中している限り、馬は駆けてくれる。でもセレスティンの集中力がと切れると速度が落ち、すかさずテロンの叱咤が飛ぶ。
「気を散らすな まっすぐ前を見ろ!」
「自分の脚をしっかり感じていろ!」
 注意をそらさず、体で馬の動きを感じる。馬が駆けるリズムに合わせて体でついていく。
 二時間が過ぎる頃には汗びっしょりになっていた。

 気持ちのいい風が吹くアイスクリーム・ショップの外の席で、ココナツミルクのアイスを頬ばる。
「馬に歩いたり走ったりしてもらうことが、こんなに大変だなんて思わなかった」
「馬はお前の弱さをわかりやすく見せてくれるだけだ。お前が自分の意志を磨いて明確に使うことを覚えた時、馬はお前の意図を感じとって自分から動くようになる。
 覚えておけ。感情を制御するのは、意志だ」
 

 テロンとのレッスンは続いた。
 座ったままの速歩(トロット)と、馬の走りに合わせて体を持ち上げる軽速歩(ポスティングトロット)
 でも目的は馬を操ることではない。それを通してテロンが自分に教えようとしていることがある。セレスティンは汗だくになりながら、それを吸収しようと努めた。
 やらせたいことをはっきりさせる。
 迷いや、ためらいや、よけいなものを手放して、気持ちをまっすぐ前に向ける。
 そして自分の体を通してそれを伝える。
 重要なのは手綱を持つ手よりも脚。それに自分の視線だということもじきに学んだ。不思議なことに、セレスティンの視線がどこを見ているか、馬はいつも知っているようだった。


 セレスティンが苦労なく馬を動かせるようになってから、テロンは乗馬クラブのまわりにある林に連れて出た。
 自分も馬に乗り、セレスティンを後ろにつかせて林の中を歩く。
 まわりにおいしそうな植物がたくさんあるので、セレスティンには気を緩められない。馬が隙を見ては草や木の葉を食べようとするので、つねに手綱を構えて気を引き締めている。
 大きな白い馬で前を行くテロンは、ゆったりと構えている。手綱は軽く片手で押さえているだけで使ってもいない。でも馬は草など食べたりしないし、テロンの思い通りに動き、方向も変える。
 まるでテレパシーで命令でもしてるみたい。テロンみたいになれるのには、どれくらい時間がかかるのかな……。
 そうやって何度か林の中を歩いているうちに、馬が草を食べようと考えているのがわかるようになった。そして馬が行動に移す前に、手綱を通して「食べようとしてるのはわかってる、でも今はだめ」と伝えると、馬はそれに従うのを学んだ。
 セレスティンと馬の様子を見ていたテロンはニヤリと笑い、自分の馬を隣に並ばせながら言った。
「マリーの庭でお前と遊んでる細かいやつらは、無邪気で無害なものばかりだ。
 だが目に見えない領域にいるのは、そんなものばかりじゃない。遥かに大きく、人間に対する強い影響力のあるのもいる。人間の世界が善人ばかりじゃないのと同じで、無害じゃないやつらもいる」
 ルシアスとビーチを歩いていた時のことを思い出した。どこからか聞こえてきた歌声に意識を捕らわれて、波に足をすくわれそうになった。
「この先、お前が選んだ道を歩き続けるなら、必然的にそんなものとも出くわす。その時、お前は自分の意志で相手を遠ざけ、扉を閉めて、自分を守ることができなきゃならん。
 今、お前がやっているのは、自分の意図と、意志の力と、体を通した行動を一度ばらして、それを意識的につなぎ直す作業だ。
 そのためには他にもやり方はあるが、とりあえず今のお前には馬が最高の教師だ」

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登場人物紹介

セレスティン

ホノルルで大学に通う。

動物、植物、あらゆる生き物と星が好き。ダイビングが趣味。

ルシアスとの出会いをきっかけに、世間で「魔術」と呼ばれているものを学ぶ道に導かれていく。

ルシアス

もと海軍の情報士官で、ニューヨークの白魔術教団のメンバー。

訳があって軍を退役し、教団を去ってホノルルに移り住んできた。

彼のまわりでは風が生き物のように不思議な振舞いをする。

テロン

海軍の特殊部隊出身で、もと白魔術教団のオフィサー。

ルシアスの友人で、アメリカ本土から彼を追いかけてきた。

マリー

山の上に隠棲し、植物を育てながら薬草やアルケミーの研究をしている女性。

以前はニューヨークでユング派の心理療法家をしていた。

鳥の羽に導かれてセレスティンと知りあう。


エステラ

ニューヨークに住む、白魔術教団のオフィサーで占星学者。

ルシアスとテロンと親しいが、強面のテロンに「俺もルシアスも頭が上がらない」と言わせる女性。

ガブリエル・ジレ

ニューヨークにある白魔術教団のメンバー。

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