銃声

文字数 2,731文字

 厚手のフランネルのパジャマを着て、ダウンのコンフォーターと毛布の下に滑りこむ。部屋の蒸気ヒーターが小さくカンカンカン……と音を立てる。
 マリーの言葉は、まだセレスティンを内側から揺すっていた。
 彼女のように愛情深い女性にとって、子供を亡くすということが、どんなに苦しい経験だったか。彼女はそこから愛することを学んだと言った。でもそこにはどんな内的な道があったのか……。

 朝、寒さで目が覚めた。ベッドから出たくはない。でも寝ていても寒い。どうせならと、がんばって起き上がる。
 厚いカーテンを引くと、窓ガラスのまわりの冷気が触れる。外の世界は静かなままだ。
 マリーがもうキッチンで動いているのが聞こえる。
 着替えてから少し外に出てみようとしていると、マリーが「雪歩き用のブーツをはいてね」と声をかけた。
 凍って固まった雪の上を、注意して踏みしめる。それでも時々、足の下ろし方に失敗して滑りかける。
 木々の間から見えるのは曇り空。時々、枝から雪の小さな固まりが落ちてくるばかり。
 あまりに静かで、生き物の気配が感じられない。誰もかれも眠りについているみたい。
 朝食の後、マリーはお茶を入れて、ビーズを織る作業を始めた。セレスティンは持ってきた本をとり出し、ソファに座って読み始めたが、じきに眠たくなってきた。
 ハワイから東海岸への時差ぼけもあったかもしれない。
 うとうとしていると、そっと毛布をかけられた。
 経験してみたかったはずの本物の冬。でも初めて肌で感じる冬は、自分の好奇心や動きまわりたい衝動をやり込めてしまうくらい、体に重かった。
 冬眠をする動物たちの気持ちが、なんとなくわかるような気がした。もちろん動物たちにとって冬眠は、厳しい冬の間にエネルギーをセーブし、春まで命をつなぐための生存策なのだけれど。
 自分が育った土地に冬はなかったし、ハワイもそう。1年を通して温かく、植物はいつも緑で、いつでも何かの花が咲いている。
 冬は、なくちゃいけないものなのかな……。
 地球の多くの気候帯には、こんなふうに厳しい冬がある。植物の中にも、ライフサイクルを完了するのに冬の寒さを必要とするものもあるけれど……。

 3日目の午後、少し寒さに慣れてきたと思い、散歩に出ることにした。
 コテージの裏手はなだらかに下るスロープ。手前には落葉樹があって、葉は落ちている。その先が針葉樹の林になっている。
 凍った雪を踏みしめながらスロープを降りる。
 このあたりは春にどんな植物が見られるのかな。
 いつかマリーの庭で「ものごとには外側の意味と、内的な意味がある」と教わったのを思い出す。冬の意味……
 寒くてあまり働かない頭で考えていると、奥の方で木の枝が踏まれる音がした。
 動物……鹿がいるって言ってたけど、それかな。
 鹿は冬眠しないから、食べ物を探すのが大変だろうな。
 そばの木を見ると、幹の下の方の樹皮がはがれていた。裸の幹にはたくさんの筋がついている。やっぱり、カリフォルニアの鹿と同じで、木の皮をはいで食べるんだ。
 驚かさないよう、音を立てないようにそっと歩く。
 ふいに木の枝の間から風が吹き込んだ。細い風の流れがセレスティンの頬を叩く。
「……シルフ?」
 ふと、何かがいけないと感じた。
 ん……寒いし、もう帰ろう。短い散歩のつもりで、マリーに何も言わずに出てきちゃったし。
 森に背を向けた時、後ろから音がした。立ち止まってふり向く。
 人の背丈ほどの熊が目の前にいた。

 
 マリーは買い物のリストを作り、今日はセレスティンをつれて町に下りようと考えた。自然食のカフェで夕食をとるのもいい……
 チリリン……鈴の鳴る音が聞こえた。
 不思議に思う。このコテージに鈴などない……。
「セレスティン?」
 返事がない。
 胸騒ぎを覚え、マリーは上着を着て外に出た。セレスティンのブーツの跡を探す。


 目の前に現れた熊の姿に、セレスティンは立ち尽くしていた。
 今の時期は冬眠しているはず……でも現にいる……どうしたらいいかわからない……逃げたほうがいい? 背中を向けて走っちゃだめなんだっけ?
 ふいに熊が何かの匂いをかぎ、警戒するように四つんばいになる。
 後ろに人の気配。マリーの低い声がした。
「セレスティン そのまま熊から目を離さずに、ゆっくり後ずさってこちらに来なさい」
 感情を抑えたマリーの声が、セレスティンに事態のまずさを教えた。
 言われた通りに熊に目を向けながら、ゆっくり後ろへ下がる。
 後ろに出した足が滑り、大きく尻もちをついた。
 「あっ」と思わず声をあげてしまい、驚いた熊が立ち上がる。
 マリーがとっさにセレスティンの体を両腕で捕まえ、自分の後ろに押しやった。自分の体を盾にしてセレスティンを守るように——
(それじゃマリーが危な……)
 雷のように銃声が響き、その近さにセレスティンは体をこわばらせた。
 熊が唸り、横から誰かが走り寄る。
 マリーはセレスティンを立たせ、後ろに下がらせた。
 再び銃声が響き、セレスティンは思わず叫んだ。
「殺さないで!」
 熊はすでに凍った地面の上に倒れ、動かなかくなっていた。
 ライフルを手にした若い男性は、セレスティンの声など聞こえなかったように熊の体に近より、膝をついて何かを確認する。
 それからこちらを見る。
 カウボーイハットの下の黒く長い髪……部族の人のような?
「大丈夫かい」
「ウルフ どうしてここに……」
「町でマリーの姿を見かけたおしゃべりのばあさんが、シティにいる兄貴に電話してきた。それで兄貴から、様子を見てやってくれと頼まれたのさ。
 来る途中で、冬眠し損ねたやつがうろついてるって知り合いのハンターに聞いて、このあたりを見て回ってた。今年は季節が不順だったからな」
「……ありがとう」
 男性は表情を変えず、黙って帽子のつばに手をやった。
 マリーは熊に近より、赤い雪の上にひざまずいた。動かなくなった体を、何かを思うように見つめている。
「ナイフを貸して」
 熊の毛を少し切り、バンダナに包む。それを胸に押し当て、祈るように頭を落とした。
 マリーが顔を上げると男性が言った。
「体は引き取りに来させる。もらった命を無駄にはしない。ほかに何か必要なことは?」
「大丈夫。ありがとうと伝えておいて、あの人にも」
 男性は小さくうなずくと身を翻し、走ってきたのと同じ方向に素早くスロープを登っていった。
 その会話を、どこか遠くの世界のことように聞きながら、セレスティンはぼう然としていた。
 自分の不注意でマリーをひどい危険にさらしたこと。そして自分のために、熊が撃たれてしまったこと……。
 しっかりとした腕がセレスティンの背中を抱き、コテージに向って歩かせた。

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登場人物紹介

セレスティン

ホノルルで大学に通う。

動物、植物、あらゆる生き物と星が好き。ダイビングが趣味。

ルシアスとの出会いをきっかけに、世間で「魔術」と呼ばれているものを学ぶ道に導かれていく。

ルシアス

もと海軍の情報士官で、ニューヨークの白魔術教団のメンバー。

訳があって軍を退役し、教団を去ってホノルルに移り住んできた。

彼のまわりでは風が生き物のように不思議な振舞いをする。

テロン

海軍の特殊部隊出身で、もと白魔術教団のオフィサー。

ルシアスの友人で、アメリカ本土から彼を追いかけてきた。

マリー

山の上に隠棲し、植物を育てながら薬草やアルケミーの研究をしている女性。

以前はニューヨークでユング派の心理療法家をしていた。

鳥の羽に導かれてセレスティンと知りあう。


エステラ

ニューヨークに住む、白魔術教団のオフィサーで占星学者。

ルシアスとテロンと親しいが、強面のテロンに「俺もルシアスも頭が上がらない」と言わせる女性。

ガブリエル・ジレ

ニューヨークにある白魔術教団のメンバー。

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