手は扉にかかる

文字数 3,267文字

 セレスティンは夢を見た。

 高い丘の上で、長身の若者が足もとに広がる光景を見ている。日差しは強く、背後から吹く風は熱く、乾いた砂の匂い。まぶしい空の下に灌漑で潤されて広がる緑、そのほとりに築かれた煉瓦造りの美しい都市。
 若者は褐色の肌をベージュの着衣で包み、腰のベルトにはアガルタ風の太刀を帯びていた。つやのある藍色の肩布が熱い風に揺れ、真昼の陽を受けて輝く。
 自分の足音に気づいて、若者が振り向く。まっすぐに視線を向け、白い歯とあの快活な笑顔を見せる。彼の腕が招くように差し出される。
 若者の愛情に満ちた表情に胸が熱く満たされ、同時に痛むような懐かしさを覚える……自分の声が彼の名前を呼ぶ…… 

 互いの手がに触れかけた瞬間、夢から覚めた。
 熱く乾いた風の匂いや、まとっている布の肌触りがはっきり感覚に残っていた。胸には痛むような懐かしさの余韻があった。
 夢は鮮明に五感に触れ、まるで自分の記憶を実写で経験し直したみたいだった。
 もちろん、こんな「記憶」は自分の中にはないのだけど――
 いつか、こんな映画を見たんだっけな……。
 そのままベッドで夢の余韻に浸っていたい誘惑にかられたが、今日は大好きな微生物学の授業があるのを思い出し、起き上がる。 

 夕方近くにクラスを終えたセレスティンは、学生食堂でアイスティーを飲みながら、夕食はどうしようかなと考えた。
 ふと、前のテーブルに置いてある学生新聞に目がとまる。一面には「デート・レイプ」という大きな見出し。そう言えば、少し前にクラスメートの女の子たちが話していた。
 新聞を手にとり目を通す。記事はアメリカ本土側のニュースを転載したものだった。
 最近、一般的な麻薬と並んで、デート・レイプ目的の薬が大学生の間でも売り買いされている。薬には味も匂いもなく、飲み物にまぜて飲ませると深い眠りのような前後不覚状態に陥り、目が覚めた後は何も覚えていない。
 被害に遭った女子学生たちのケースが挙げられ、「他人事だと思わず、会ったばかりの相手とのデートには注意!」と警告されていた。
 読み終わった後、気分の悪さに、苛立たしげに音を立てて新聞を置く。
 セレスティンの嫌いなことが三つあった。
 生命を残酷に扱うこと。
 人間と動物の生命に優劣をつけること。
 そして他の人間の自由意思を踏みにじること。
 暴力はもちろんだけどレイプ・ドラッグとか、そんな姑息な手段で他人の意志を踏みにじるのは最低の行為だと思った。そしてそんなことが、警告付きで学生新聞に載るぐらい頻発しているのにも腹が立った。
 ささくれ立った気分を晴らすのに、アラモアナ・パークのビーチに行こうと思いつく。夕日が海に沈むのを見て、それからショッピングセンターのフードコートにでも行こう。
 そう考えながら目を上げると、いつの間にか斜め向かいのテーブルに黒いスーツの男性がいた。見るからに地元の人間でもなければ、大学の関係者でもない。
 だがセレスティンの注意を引いたのは、そのスーツ姿ではなかった。何か大きな(フォース)が凝縮されたような存在感。そしてそれを目に見えないコートのようなもので覆っている。
 ルシアスみたいだ、と思った。
 セレスティンが気づくのをまるで待っていたかのように、男は手招きをした。不審に思いながらもテーブルに歩み寄る。
「よう、お嬢ちゃん(ヘイ キッド)
子供(キッド)じゃない」
 セレスティンが思わず言い返すと、相手は明るい表情で笑った。
「俺はテロンだ。名前は?」
「セレスティン」
「――空の娘(セレスティン)か。少し聞きたいことがあるんだ。ルシアスを知ってるだろう」
 突然ルシアスの名前を出され、テロンと名乗った男性を改めて観察する。
 襟足を短めに整えた漆黒の髪と緑の瞳。まっすぐな眉に鋭い目つきの精悍そうな顔立ち。年格好はルシアスと同じくらい。物腰はどうみても軍関係の人間に思えた。
「どうして彼のことを調べてるの?」
「なに、同僚で古い友だちさ。半年ほど前に、あいつが突然仕事を辞めていなくなっちまってな。
 ようやくこの辺にいるのを突き止めたんだが、なにか事情でもあるんじゃないかと思って、やつの身辺をちょっと調べてるのさ」
 男性の言葉は、自分がこれまでルシアスについて知っているわずかばかりの具体的な事実とかみ合った。
(話をすれば、ルシアスの過去について何か聞けるかも……そうしたら、もう少し彼を理解することができるかもしれない)
 そう思うと、セレスティンは自分の方でもこの相手と話がしたいと思った。
 セレスティンの考えを感じとったように、男性が音も立てずに立ち上がる。その身のこなしは精悍な雰囲気と相まって、野生の虎か豹みたいだなと思った。
「ここじゃあうるさくて話もできん。食事でもおごろう。学生ならどうせろくな物は食ってないだろう」 

 海に面した高級ホテルのレストランで、奥の静かな席に通される。
 最初はわずかに緊張したが、テロンと名乗った男性の芯の通った声、抑揚の豊かな話し方、それから笑うと鋭い目つきがふっと優しそうになる様は、セレスティンの警戒心を解かせた。
 彼の質問はそれほど込み入ったものではなかった。
 セレスティンは自分の知ることを答えながら、自分でもルシアスのことについて質問をした。テロンの答え方はストレートだったが、答えの幾つかは謎めいていた。
 いずれにしろルシアスの友人だというのは間違いないように思えた。
 それからテロンは質問をセレスティンに向けた。
「なぜルシアスと一緒にいる?」
「どういう意味?」
「あいつは気軽に人間を寄せつけるタイプじゃない、相手が誰だろうがな。何が面白くてあいつについてまわってるんだ?」
 言われてセレスティンは考えた。
「どうしてかな……自分でも変なんだけど、すごく興味を引かれるの。時々、まるで……」
「まるで?」
「昔から知ってた人みたいって思うことがある。ずっと昔から……」
 テロンが目を細める。
「なるほど」
 言葉を発した後で、おかしなことを言うとからかわれそうだと思ったのだが、テロンはそのままセレスティンの言葉を受けとめた。
 それからセレスティンの顔を見つめる。
 ルシアスとは違う、だが同じくらい鋭く、人を内側まで見通すような視線。セレスティンは思わず少し体を硬くした。
 その反応に気づいたようにテロンが視線を横に外し、少したわいのない話をした後、訊ねた。
「次にルシアスに会うのはいつだ?」
「あした。ノースショアにダイビングに行くんで、迎えに来ることになってるの」
「ダイビングなら、出かけるのは朝早いんだな?」
「六時半。船が出るのが七時半で、ノースショアまでは四十分くらいかかるし……」
「あいつのことだから、集合時間の二十分前には着いてないと気が済まないというんだろ」
 テロンが継いだ言葉にセレスティンは笑った。その通りだったからだ。彼がルシアスの友人だというのは間違いないと思った。
 気がついたら二時間以上も話し込んでいた。
 ちょっと席を立つ自分の後ろでテロンがウェイターを呼び、セレスティンの空になったヴァージン・コラダのお代わりをもってこさせるのが聞こえた。
 席に戻ってきたセレスティンは、二杯目のコラダの甘いココナツの香りをかぎながらストローを口に含んだ。
「もう一つ訊いてもいい?」
「ああ」
「ルシアスって、何か危ない仕事をしてたの?」
「軍士官といっても情報将校なんてのは、俺なんぞからすればデスクワーカーみたいなもんだからな」
「情報将校って、スパイみたいな仕事をするんじゃないの?」
 テロンが勢いよく笑った。
「あんな人間関係を適当にとり繕うこともできないやつが、諜報員としてやれると思うか」
 セレスティンもつられて笑った。友人ならではの容赦ない評、それは当たっているけど温かいと思った。
「あいつの専門は中東言語圏の情報分析だ。戦争の時にアラビア語の通訳に駆り出されたことはあったと思うが、戦闘要員として銃を担いで前線に出たこともあるまい」
 それから腕の時計を見た。
「おっと、もうこんな時間だな。送っていこう」
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登場人物紹介

セレスティン

ホノルルで大学に通う。

動物、植物、あらゆる生き物と星が好き。ダイビングが趣味。

ルシアスとの出会いをきっかけに、世間で「魔術」と呼ばれているものを学ぶ道に導かれていく。

ルシアス

もと海軍の情報士官で、ニューヨークの白魔術教団のメンバー。

訳があって軍を退役し、教団を去ってホノルルに移り住んできた。

彼のまわりでは風が生き物のように不思議な振舞いをする。

テロン

海軍の特殊部隊出身で、もと白魔術教団のオフィサー。

ルシアスの友人で、アメリカ本土から彼を追いかけてきた。

マリー

山の上に隠棲し、植物を育てながら薬草やアルケミーの研究をしている女性。

以前はニューヨークでユング派の心理療法家をしていた。

鳥の羽に導かれてセレスティンと知りあう。


エステラ

ニューヨークに住む、白魔術教団のオフィサーで占星学者。

ルシアスとテロンと親しいが、強面のテロンに「俺もルシアスも頭が上がらない」と言わせる女性。

ガブリエル・ジレ

ニューヨークにある白魔術教団のメンバー。

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