手引き

文字数 5,350文字

 セレスティンが遊びにやってくるのをマリーはいつもうれしそうに迎え、彼女の家の空間の心地よさと相まって、山の上で過ごす時間が多くなっていった。 マリーの家は使われていない部屋が三つある。二階にある一部屋をマリーはセレスティンのものと決めて、好きな時に泊まることができるように整えてくれた。

 腰の高さにまで生い茂ったローズマリーの前で立ち止まる。マリーの美しい指がそっと葉先を摘んだ。細い葉を指の間で転がし、セレスティンに匂いをかがせる。
 揮発性の香りが鼻から額を抜け、頭がはっきりとして、なんだか思わず背を伸ばしたくなる。
 ローズマリーは地中海原産の植物で乾燥した気候を好む。湿度の高いハワイで育てるのは難しいと思っていた。ダウンタウンの植物園で見かけた株は、葉の密度もまばらで、ひょろりとして元気がなかった。
 気候の制限を超えてたくさんの植物を育て花を咲かせられるマリーは、「緑の親指をもってる(植物を育てる才能に恵まれている)」のかも知れない。それもちょっと特別な。
「ね ローズマリーの名前はどこから来たの? 聖母マリアの薔薇とか、そんな感じ?」
「ラテン語の属名はロスマリヌス。ロスは『露』、マリヌスは『海の』という意味よ」
「どうして『海の露』なの?」
「水をやらなくても、海風が運んでくる湿り気だけで育つからって言われているわ。
 ギリシャの女神アフロディテが海で生まれて上がって来た時、ローズマリーが首にかかっていたという伝説もあるの。
 もっとも聖母マリアの名前も、ラテン語のマーレにたどれば語源は『海』だから、つながっているとも言えるわね。
 もう少し新しい伝承では、ローズマリーの花はもともと白かったのが、聖母マリアの青い衣に触れて薄青色に変わったというのもあるの」
 庭にある植物を一つづつ示しながら、マリーは花や植物について教えた。セレスティンがどんなことを知っているか訊ねながら、それを補うように話しを広げていく。
「昔からローズマリーの香りは記憶をよくするって言われているの。だから、忘れたくないもの、記憶に留めておきたいものにローズマリーの枝を象徴として捧げる風習があった」
「本当に記憶がよくなる?」
「葉にはカルノシン酸ていう、神経成長因子の生成を刺激する成分が含まれているわ。ローズマリーとラヴェンダーの精油の効果を比べた神経学のリサーチもあったわね。
 民間療法で知られている植物の効能が、近代になって成分分析や実験で裏付けられた例は、たくさんあるの」
 そう言いながらそばに生えているラヴェンダーの葉を、さっきとは反対の手で摘みとってセレスティンに匂いをかがせる。
「どう?」
「全然違う。なんだか神経がふわっとして、頭が緩む感じ。おもしろいな どっちも小さな薄紫の花をつける、ちょっと乾いた感じの植物なのに」
 一つ一つの植物について、それにまつわる神話や民間伝承や、薬草学の実用的な知識を織り込んだマリーの話は、どれだけ聞いても飽きなかった。セレスティンは子供のように耳を傾けた。
 マリーと並んで植物を見、彼女の言葉を聞いていると、植物の存在が広がった。目の前の植物が、目に見える形だけではなくて、何かそれ以上の広がりを持った生命だと感じられた。
 ルシアスと一緒に過ごす時間は、もちろんなくてはならないもの。でもマリーと過ごす時間も、意味は違うけれど、同じくらい大切なものになっていった。

 大学の試験が終った日の夕方、マリーの家に向かう。少し前にビーズ織りの作業を習い出したところで、早く続きをやりたかった。
 夕食をとり、リビングのテーブルの上に道具を並べて、マリーの隣に座る。
 彼女が七面鳥の羽をビーズでかがっていた時には、それほど難しい作業には見えなかった。でも自分でやってみると失敗ばかり。
 最初の練習にと、前に拾ったアオカケス(ブルージェイ)の羽をかがることにしのだが、ほんの少し気が散って集中力がそれると、ビーズを数え損なったり、目を飛ばしてしまう。
 幸い、ビーズを使う作業はいくらでもやり直しができた。ミスに気づいたら、糸を切ってビーズをばらばらにし、もう一度。
 「いち、にい、さん……」とビーズを数えながら作業をするセレスティンの隣で、マリーは小さな木製の手織り機でビーズの帯を織った。微妙なグラデーションで変化する藍色の地に、星のような銀色や虹色が織り込まれていた。それは冬の深い夜空だと思った。
 セレスティンが手を止めて話しかけると、マリーは乱れぬペースでビーズを拾い続け、針を行き来させながら、話をちゃんと聞いて受けごたえしたり、質問に答えた。
 自分は少し注意がそれただけでミスをするのに、マリーはペースも落とさず作業しながら、ごく自然に会話をすることができる。
 不思議がるセレスティンに、マリーは言った。
「意識をしっかり集中させながら、同時に広げていくの。手もとの作業と、あなたの存在の両方が自分の意識の中にすっぽり入るまで。
 学校では偏った形で左脳を使わせて、一つの小さな点に集中することしか教えないから、その癖を修正するのに少し訓練がいるわ。
 ゆっくり慣れていけばいいのよ。こういう手作業は左脳を静かにさせて、心の下地ならしをするのに向いているの」
 注意を一つのことに集中しながら、同時に広げるなんて、とてつもなく難しいことに思えた。
 羽を置いてマリーの手を見ているうちに、美しく動く指の刻む心地よいリズムに眠気を誘われる。試験でしばらく睡眠不足の日が続いていた。
 セレスティンの方を見もせず、マリーは様子に気づいたようだった。手を止めて微笑む。
「今晩はもうおやすみなさい。無理して根を詰めるより、眠りを挟んだ方が覚えの進みは早いわ」 

 翌朝、目が覚めたのは昼近かった。着替えて階下に降りると、まるで起きてくる時間を知っていたみたいに、庭にブランチの用意がしてあった。
 テーブルにつくと、ほどなくミントの香りのお茶が注がれる。湯気の出るカップを顔に近づけて、匂いを確かめる。
 マリーから植物のことを教わり始めてから、いれてくれたお茶に何が使われているのかを当てるのが楽しみになっていた。
 ベースはペパーミント……スペアミントも混じってる。種類の違うミントが合わさると、「ミントらしさ」がはっきりして、それでいて香りの癖がバランスされて味が丸くなる。
 ほんのり甘い香りは……花じゃなくて、イチゴの果実を乾燥させたの。それがハイビスカスと合わさって、舌に心地いい甘酸っぱさになる。
 まだ温かいスコーンにクリームをぬって頬ばる。オレンジの皮のわずかなほろ苦さが、ヨーグルトから作ったクリームの酸味と合わさって、気持ちよく体が目覚める。
「ねえ マリー いれるたびにいちいちお茶をブレンドするのはどうして? 同じものをまとめて作っておけば楽なんじゃないの」
 白いカップを手に、マリーがたおやかな笑顔を見せる。
「私たちの体は毎日同じじゃないわ」
「ん――?」
「体の調子や気分は毎日違うし、一日のうちでも時間が経てば移り変わる。まわりの環境も、昨日と今日は同じじゃない。そういったリズムや変化に注意して生活に手間をかけるのは、私には面倒ではないの」
 マリーの家に泊まっていると、体の調子や気分がいいことを思い出した。
「じゃあ そういったことに気を使いながら、いちいちお茶をブレンドしているの?」
「そうよ ハワイでは季節の変化が穏やかだから、はっきりした四季のある場所に住んでいる時ほど食事の内容を変えはしないけれど、毎日、体が何を必要としているかに注意を払うのは同じだわ。
 むしろ四季のある土地より、意識して自然や自分の体のリズムを感じとる必要があると言ってもいいわね。
 食べ物は、私たちの体が自然とコミュニケーションするための媒体。そして好きな人とのコミュニケーションが楽しいように、食べ物やそれ以外のことを通して自然とコミュニケーションできるのが、私には幸せなの」
 食べることについて、そんなふうに考えたことはなかった。必要なカロリーと栄養分がとれればいい。あとはおいしければいいと思っていた。
「人間は自然の一部よね。私たちの体は自然から与えられたもので、それが一番よく機能するのは、自分という小さなリズムが、自然の大きなリズムに沿っている時。
 食べものに注意を払うのは、自分の体が自然の一部で、自然に支えてもらっているんだと思い出すことなの」
 食べるというのは、自分の体が自然の一部であることを確認する作業――。
「そういうことをいつも考えているの? お茶をブレンドする時も、パンやお菓子を焼いたりする時も?」
「あれこれ考えて頭を悩ませるのとは違うのよ。考えているっていうより、気がついていて、思い出していると言ったらいいかしら」
 マリーはテーブルのかごの上からリンゴをとり上げ、セレスティンに差し出した。小ぶりのまん丸な果実を手のひらに受けとる。明るい緑の地に赤の衣を着て、薄緑のそばかすがあるマッキントッシュだ。
「一口、食べて」
 言われるままにかじる。香りが高くて、甘酸っぱくて、優しい歯触り。
 マッキントッシュは偶発実生の品種で、今、アメリカやカナダに植わっているのはすべて、19世紀に偶然見つかった1本の木の直径の子孫だ。そのちょっと不思議な生い立ちがセレスティンの気に入っていた。
「いい、セレスティン そのリンゴには、それが育ってもがれるまでのリンゴの経験――記憶が、情報として含まれているわ」
「え――」
「意識を向けて、感じてごらんなさい」
 かじり跡のついた手の中のリンゴを見つめる。しばらくして首をかしげた。
「重さとか手触りしかわからない」
「話しかけて、訊いてごらんなさい。それがどんな環境で、どんなふうに育ったか」
 普段からいろんな生き物に話しかける癖のあったセレスティンには、マリーの言葉に抵抗はなかった。
 心の中で言葉にして話しかけてみる。
(教えて、私の好きな可愛いいリンゴ 1本の樹から生まれて、アメリカ大陸に広がった幸運な樹の子孫の、その果実 あなたがどこから来たのか――) 

 指の感覚が広がり、それを通して自分の心がリンゴに触れるような感触。

 ふいに穏やかな陽射しに包まれているのを感じる。 

光。
目が覚める。
まだ涼しい空気。
優しいそよ風が揺する。
固く小さかった形が広がる。
白、ピンク。
羽音のリズム。見つめる複眼、揺れる触角。
熱感、眩しさ。
固まり、膨らみ始める。
水気。陽射しが変わる。
思った以上に早い涼しさの訪れ。
日が短くなる。
大きく、甘く、瑞々しく熟していく満足感……。
やさしい手につかまれ
そして さようなら……
自分が育った枝……

 物語をコマ落としで見るように次々とイメージが浮かび、それに伴う光の眩しさや陽射しの熱、風の肌触りが感じられた。
 それは本当にリンゴの「記憶」なのか、それとも自分が想像しているだけなのか、わからなかった。
 しばらくして言った。
「自分が想像しているだけじゃないって、どうしたらわかるの?」
「もう一度、味わってごらんなさい」
 二口目をかじる。
「どう?」
「味が違う。舌で感じる意外の味がするみたい」
 甘さは単なる糖分ではなく、このリンゴが育った土地の四季の移り変わり、農夫が注ぎ込んだ愛情と手間、そしてリンゴが人間に対してもっている優しい感情……。
「そうやって、意識的にリンゴとコミュニケーションする時、そのリンゴの記憶――リンゴの中に含まれている情報が、あなたに伝わるわ。そうすると、今までよりもっとリンゴの全体を感じられるようになるの」
 リンゴのそんな情報はどこに蓄えられているのだろうと考えて、セレスティンは、ルパート・シェルドレイクの形態形成場(モルフォジェネティック・フィールド)の考えを思い出した。
 シェルドレイク博士の学説は正統派の学者たちからは異端視されているのだけれど、自然を生命そのものだと感じるセレスティンの感覚にはむしろよく馴染んだ。
 博士は、個体の経験は、その個体が属する種の形態形成場に蓄積され、それが共鳴作用を通して個々の個体の行動パターンや形態の形成に影響すると考えた。
 そういうふうに個体の経験が刻まれ保たれる生物学的な場(バイオ・フィールド)があるなら、リンゴにもきっとそれがあるだろう。
 個々のリンゴの経験が刻まれる(フィールド)があって、それがリンゴ、あるいはマッキントッシュ全体の形態形成場につながっている。個体の記憶は種全体のデータベースのようなものに保持される。
 一つのリンゴの記憶を情報として感じられるなら、そのリンゴがなった木や、リンゴという種全体の記憶にもアクセスできるのかなと考えた。
 形態形成場はその種の中で影響を共有するのだけれど、それを他の種の生命が感じたり、情報を受けとったりもできるってことなんだろうか――。 
 そうだ。学校で生物学を学ぶのは楽しいけれど、それだけではない気がいつもしていた。何かもっと大きな全体があって、生物学はその一部だと感じていた。大切で大好きな一部なんだけれど、でもそれだけではすべてを、自分にとって実感があるようには理解することができない。
 でもどうしたら、どこを探したらいいのかわからなかった。
 マリーが与えてくれるのは、普通の世界の外へ通じる「窓」だ……
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登場人物紹介

セレスティン

ホノルルで大学に通う。

動物、植物、あらゆる生き物と星が好き。ダイビングが趣味。

ルシアスとの出会いをきっかけに、世間で「魔術」と呼ばれているものを学ぶ道に導かれていく。

ルシアス

もと海軍の情報士官で、ニューヨークの白魔術教団のメンバー。

訳があって軍を退役し、教団を去ってホノルルに移り住んできた。

彼のまわりでは風が生き物のように不思議な振舞いをする。

テロン

海軍の特殊部隊出身で、もと白魔術教団のオフィサー。

ルシアスの友人で、アメリカ本土から彼を追いかけてきた。

マリー

山の上に隠棲し、植物を育てながら薬草やアルケミーの研究をしている女性。

以前はニューヨークでユング派の心理療法家をしていた。

鳥の羽に導かれてセレスティンと知りあう。


エステラ

ニューヨークに住む、白魔術教団のオフィサーで占星学者。

ルシアスとテロンと親しいが、強面のテロンに「俺もルシアスも頭が上がらない」と言わせる女性。

ガブリエル・ジレ

ニューヨークにある白魔術教団のメンバー。

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