娘は虎に歩み寄る
文字数 2,067文字
ホノルルに来るまで想像していなかったこと。ダウンタウンのビジネス街には高層ビルが並び立ち、見た目はアメリカ本土の大都市と変わらない。少し妙といえば、通りを忙しく往来するオフィスワーカーらが、ワイシャツにネクタイではなくアロハシャツ姿なことくらいか。
ダウンタウンのカフェのテラス席で、コーヒーをテーブルの上に放ったまま、テロンは数日前に自分のしたことを考えていた。
工作そのものは成功だ。とりあえず狙った目的を達したのだから。
選択は、ルシアスの目の前で娘を物理的な危機状況に放り込むか、状況を操作して心理的危機状況を作り出すかのどちらかだった。そして娘を実際の危険にさらすことなく、ルシアスに心理的圧力をかけるシナリオを選んだ。
問題はここから先だ。ルシアスの反応は予想できたし、一度やつを殻の外に引きずり出せたら、後は理詰めで話ができる。
だがあの娘の反応は予想がつかない。
並の女ならそれらしい感情的反応を見積もれた。ただし感情が反動的に出て、娘がルシアスと自分を引き離そうとする方向に動いたら、事態は少しばかり面倒になる。
だが、あの娘は「並」のものではない――。
視線に気づく。
そちらを見ると、「あの娘」がいた。
通りに立ち止まってこちらを見ている。ジーンズのカプリパンツにTシャツ姿で、肩にはバックパック。
娘はカフェの店の中に入っていき、やがて飲み物を手に出てきた。
勝手知ったように、テロンのテーブルにつく。
どう相手をしていいのかわからず、黙ったまま彼女を見る。セレスティンはテロンの顔を見返した。
「今度は、飲みものに薬とか入ないでね」
こらえ切れず、テロンは笑った。
「何がおかしいの」
「いや――怒ってないのか 俺のやったことを」
「ん 考えたんだけど――物語なんかで、ちょっと乱暴で敵にすると恐いけど、味方にすれば最高に頼りになるタイプっているでしょ。要するにそういう人なんだって思ったの」
ふんと笑うとテロンはコーヒーを啜った。
自分の愛する男の味方と決めたら、怒りも恐さも忘れるか。
「ルシアスの友だちなんでしょ?」
「こっちはそのつもりだ。もっともあいつは、俺のことを最悪の敵だと考えてるかもしれんがな」
「どうして?」
「――俺は、あいつが自分の世界に閉じこもるのを許さないからだ」
セレスティンが考え深げに首をかしげ、空色の瞳が見つめる。
――これだ。防衛や抵抗をすり抜け、門も通らずに壁を超え、気がついた時には内側にいる。そして何気ない質問に、こちらは思いもかけぬ本心を口にしている。
セレスティンが、手にしていた紙袋からパンのようなものを自分で一つとって、残りを渡す。
「はい」
「なんだ これは」
「マラサダっていうの ハワイ風のドーナツ」
「ガキじゃあるまいにそんなもの食えるか」と言いかけるのを抑えて、袋を受けとる。まだ温かかった。
「訊いてもいい?」
「――うん?」
「海軍にいた時、ルシアスって階級はどこまでいったの?」
「少佐だな。その気になりゃあもう少し出世できたろうが、あの性格だからな」
「前に、ルシアスの仕事は前線に出ない情報分析で、戦争の時も通訳に駆り出されただけって言ったでしょ。本当にそれだけだった?」
「俺の知る限りではな。俺とあいつは所属が違うんで、何から何まで知ってるわけじゃないが」
中東に配属されていた間、ルシアスの仕事が情報分析と臨時のアラビア語通訳だったというのは事実だった。
ただしアメリカ本土に戻ってから、秘密裏に国防情報局 の特殊プロジェクトに身柄を移されていたというのを、テロンは注意深く会話から外した。
それはこの娘は知らない方がいい。なにしろDIAの件は、部外者のテロン自身「知っていてはならない」ことだった。そしてルシアス本人が口をつぐんでいれば、そのまま「誰も知らない」過去として葬れることだ。
「いずれあいつも俺も、今はめでたく退役の身だ。昔のことは忘れてもかまわんだろう」
それは本心から出た言葉だった。
「――っていうことは、もう軍には戻らない?」
「一度辞めた仕事にまた戻るほど、人生は長くない」
テロンは青い空をあおいだ。
「まったく、ハワイってとこはくそ暑いな。アイスクリームでもおごってやろうか 小娘」
「やめてよ 小娘っていうの」
食べかけのドーナツを片手にふくれっつらをする。
「テロンもルシアスみたいに寒いとこから来たの?」
「北ヴァージニアだ。夏は暑く冬は雪が降る、完璧な気候さ。お前はどうせ西海岸のどこかだろう」
「ロスの郊外」
「南カリフォルニアか。温暖なばかりで雪も降らん、脳天気どもの住み処だな」
「雪が降るのがそんなにいい?」
「冬の厳しさを知らん人間に、春の美しさがわかるか」
セレスティンがうれしそうに笑う。
「テロンて、意外と詩人なんだ」
やれやれと思った。ルシアスの壁がなし崩しにされていったのも、こんなふうにだろう。そしてそれは単なる無邪気さではない。それはこいつの「強さ」だ。
だが今は少しばかり、この「小娘」との時間を楽しんでも罰 は当たるまい……。
ダウンタウンのカフェのテラス席で、コーヒーをテーブルの上に放ったまま、テロンは数日前に自分のしたことを考えていた。
工作そのものは成功だ。とりあえず狙った目的を達したのだから。
選択は、ルシアスの目の前で娘を物理的な危機状況に放り込むか、状況を操作して心理的危機状況を作り出すかのどちらかだった。そして娘を実際の危険にさらすことなく、ルシアスに心理的圧力をかけるシナリオを選んだ。
問題はここから先だ。ルシアスの反応は予想できたし、一度やつを殻の外に引きずり出せたら、後は理詰めで話ができる。
だがあの娘の反応は予想がつかない。
並の女ならそれらしい感情的反応を見積もれた。ただし感情が反動的に出て、娘がルシアスと自分を引き離そうとする方向に動いたら、事態は少しばかり面倒になる。
だが、あの娘は「並」のものではない――。
視線に気づく。
そちらを見ると、「あの娘」がいた。
通りに立ち止まってこちらを見ている。ジーンズのカプリパンツにTシャツ姿で、肩にはバックパック。
娘はカフェの店の中に入っていき、やがて飲み物を手に出てきた。
勝手知ったように、テロンのテーブルにつく。
どう相手をしていいのかわからず、黙ったまま彼女を見る。セレスティンはテロンの顔を見返した。
「今度は、飲みものに薬とか入ないでね」
こらえ切れず、テロンは笑った。
「何がおかしいの」
「いや――怒ってないのか 俺のやったことを」
「ん 考えたんだけど――物語なんかで、ちょっと乱暴で敵にすると恐いけど、味方にすれば最高に頼りになるタイプっているでしょ。要するにそういう人なんだって思ったの」
ふんと笑うとテロンはコーヒーを啜った。
自分の愛する男の味方と決めたら、怒りも恐さも忘れるか。
「ルシアスの友だちなんでしょ?」
「こっちはそのつもりだ。もっともあいつは、俺のことを最悪の敵だと考えてるかもしれんがな」
「どうして?」
「――俺は、あいつが自分の世界に閉じこもるのを許さないからだ」
セレスティンが考え深げに首をかしげ、空色の瞳が見つめる。
――これだ。防衛や抵抗をすり抜け、門も通らずに壁を超え、気がついた時には内側にいる。そして何気ない質問に、こちらは思いもかけぬ本心を口にしている。
セレスティンが、手にしていた紙袋からパンのようなものを自分で一つとって、残りを渡す。
「はい」
「なんだ これは」
「マラサダっていうの ハワイ風のドーナツ」
「ガキじゃあるまいにそんなもの食えるか」と言いかけるのを抑えて、袋を受けとる。まだ温かかった。
「訊いてもいい?」
「――うん?」
「海軍にいた時、ルシアスって階級はどこまでいったの?」
「少佐だな。その気になりゃあもう少し出世できたろうが、あの性格だからな」
「前に、ルシアスの仕事は前線に出ない情報分析で、戦争の時も通訳に駆り出されただけって言ったでしょ。本当にそれだけだった?」
「俺の知る限りではな。俺とあいつは所属が違うんで、何から何まで知ってるわけじゃないが」
中東に配属されていた間、ルシアスの仕事が情報分析と臨時のアラビア語通訳だったというのは事実だった。
ただしアメリカ本土に戻ってから、秘密裏に
それはこの娘は知らない方がいい。なにしろDIAの件は、部外者のテロン自身「知っていてはならない」ことだった。そしてルシアス本人が口をつぐんでいれば、そのまま「誰も知らない」過去として葬れることだ。
「いずれあいつも俺も、今はめでたく退役の身だ。昔のことは忘れてもかまわんだろう」
それは本心から出た言葉だった。
「――っていうことは、もう軍には戻らない?」
「一度辞めた仕事にまた戻るほど、人生は長くない」
テロンは青い空をあおいだ。
「まったく、ハワイってとこはくそ暑いな。アイスクリームでもおごってやろうか 小娘」
「やめてよ 小娘っていうの」
食べかけのドーナツを片手にふくれっつらをする。
「テロンもルシアスみたいに寒いとこから来たの?」
「北ヴァージニアだ。夏は暑く冬は雪が降る、完璧な気候さ。お前はどうせ西海岸のどこかだろう」
「ロスの郊外」
「南カリフォルニアか。温暖なばかりで雪も降らん、脳天気どもの住み処だな」
「雪が降るのがそんなにいい?」
「冬の厳しさを知らん人間に、春の美しさがわかるか」
セレスティンがうれしそうに笑う。
「テロンて、意外と詩人なんだ」
やれやれと思った。ルシアスの壁がなし崩しにされていったのも、こんなふうにだろう。そしてそれは単なる無邪気さではない。それはこいつの「強さ」だ。
だが今は少しばかり、この「小娘」との時間を楽しんでも
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